3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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かなり妄想の入った天鏡閣を作ってみました・・・??

前回の金閣北山第の天鏡閣屋根に続き今回は下の殿閣部分を作成、
一応、外観が整いました。アップしますが、まるで、千と千尋の神隠しに出てくる湯屋の御殿みたいですみません・・・。
ちょっと思い入れが深かったかも。(クリックすると何れも拡大します)


北山第天鏡閣正面
正面から、かなり唐風好み?





そのクローズアップ、
北山第天鏡閣正面拡大







次に、裏側、一応・北面からです。
北山第天鏡閣北面
正面に比べ落ち着いた感じ。
二階格子窓や蔀戸もべんがら風に、赤茶系にしました。




で、その拡大です。
北山第天鏡閣北面拡大


後、別角度のは、また下段で載せます。

冒頭に戻りますが、
建物に「閣」の名が付くのは、二階建て、もしくは重層建築のことを指すそうです。
「亭」は平屋だと思います・・・・たぶん・・・。

さて、外観を作りブログにアップして、
念のため天鏡閣関係の資料を再確認してみたのです。

そしたら、何と!

15間という記述が、
柱間の事だと思い東西桁行15間、柱間が3m前後として、約40mの長さで
作りました。
ところが、当時の公家の記録である教言卿記など読み直してみると(京都の歴史等参考)、
「奥御会所十五ま間」という部分があり、
この十五と間のあいだに「ま」が付いていて、

どうもこの「十五ま間」の意味が畳三十畳のことを指すらしい・・・・

尺貫法でいう、一間=一坪=畳二枚(正方形)、です(京間等寸法差は省く)。

ですから15間は30畳で、長さ的にいうと全体で長くて12m前後になります。

が~ん!!

柱間寸法でなかった・・・可能性結構あり・・・という感じです。
ほぼ同じ室町期の円教寺食堂が15間(柱間)あって、しかも総二階建てという
こともあって、ほぼ同じ規模と勝手に思いこんでしまったようです。

ただ、しいて言えば、
天鏡閣のなかには30畳敷き以外の部屋もあった可能性も十分あります。
母屋に廂、さらにスノコの濡れ縁を足せば20mは越える?

とにかくはっきり言えることは、
当時の記録からは二階建てで金閣と二階廊でで繋がり、さらに釣り殿とも繋がって、いた、
という記述だけで、本当の規模・建物仕様などいっさい不明です。


参考までに以前NHKで放映された金閣・天鏡閣のCG画像をちょっとアップします。
天鏡閣の再現 NHK
クローズアップ画像です。
壁も彩色せず素木のままです。
これがリアルに近い天鏡閣?
でも地味すぎるかも?


で、金閣も含めた全景、
天鏡閣の再現3



一方、室内の座敷飾りなどについては細かい記録があります。

ということは、二階建て複廊で繋がっている・・・と言うこと以外は
当時、普通の会所であり、遊興の場であり驚くほどでもなかった・・・ということかな?

でも、それでは夢がないので、
自分は漆黒の建物に飾り金具で飾ってみました(つまり金閣の逆)。
また当時流行った唐風好みの外観で、窓も唐窓にしました。

当時から金閣の金箔の下地には漆黒が幾重にも重ねられ、
それが金箔の深みある輝きと耐久性を兼ね備えていました。
高価な漆をふんだんに使った義満ですから、
自分が義満だったら、「きっと、そうしたろう!」と、
かなり自分的な妄想はいりまくりの天鏡閣になってしまいました。

前〃回、同じ北山第の正殿・宸殿を作成しましたが、
この宸殿の有様についても、
『あしかがじらんき足利治乱記』という書物によれば、
八棟造りだったと記述されています。
八棟とは、屋根が八あるわけでなく、
八百万の神と一緒で、屋根がたくさんある、という意味です。
たとえると近世の日光東照宮や天守閣(姫路城とか)などにみられる
、多くの妻廂や唐破風などで飾られた複雑な屋根構造をしています。
その八棟造りの宸殿が北山第、
しかも室町初期に本当にあった?

もしあったら、当時、かなり奇想天外な建物だった気がしますが、

ただ、『あしかがじらんき足利治乱記』が後世の書物で、かつ源氏寄りの記録のため、
信用度は今ひとつだそうです・・・・

まぁ、とにかく、
日本建築史でかなりユニークで豪奢な建築群であることにはかわりません。

ちなみに、他の金閣の復元案についても紹介しますね。
宮上茂隆案金閣

これは安土城天守の復元でも知られる宮上茂隆先生の案です。
着色は、横手聡という方がされています。





金閣寺立面図
金閣につながる二階廊の復元想像図です。





後、どこで見つけたかわかりませんが、北山第全体を描いた想像図です。
天鏡閣が三階?
ちょっと想像し過ぎな図案ですかね?(人のこと言えないか)

金閣・北山第図




では、わかる範囲内でもう少し天鏡閣について補足説明します。

当時、この天鏡閣は遊興以外にも仏事なども行われ、
宸殿につぐ重要な建物でした。
金閣へ二階廊を通ると虚空を歩む心地がしたと、当時の記録にあり、
このような着想も、
あの苔寺で有名な西芳寺の堂閣僧舎の間を廻廊で
つないだ庭園建築が端緒だったともされます。


応永十五年(一四〇八、後小松天皇の行幸の節は、
『北山殿行幸記』によれば、
猿楽道阿弥の歌舞が演じられ、豪華な鎧兜・御飾具足や多数の重宝が献上されました。

さらに、
行幸で設けられた御座しきには、「御絵三幅・御剋絵四幅」をはじめ押板
(現在の付け書院、床の間・違い棚?)には様々な棚飾りの品々、
別の座敷には御剣・南錬(銀)・金欄・御料足・御小袖などの財宝類が飾られていました。

平安の昔から、
時の天皇の御幸や皇族・摂家・将軍の御成りを迎える際は、
泉殿等に室内装飾の趣向をこらす風習はすでにありましたが、

鎌倉末から南北朝にかけて室内装飾の好みは、しだいに
「唐様飾り」へと移行し、義満の北山第で、その盛行をみるに至りました。

これは天鏡閣のことを指すと思いますが、
「二階に峙て眺望を四方に排(配)す」
と記された「喫茶之亭」は、室内は唐絵で飾り立てられていたそうです。



天鏡閣の二階高欄です。
北山第天鏡閣二階高欄

当時、明との勘合貿易も盛んで明の使節や商人もきっと訪れたと思います、
義満の得意絶頂の時です。

その北山第も、
後小松天皇の北山殿行幸からわずか一カ月余を経て義満が
同第で亡くなり、夫人も応永二十六年(一四一九年)十月亡くなっています。

次は、同じく北山第の一角を占めていた
鎌倉・室町時代から流行った禅宗伽藍についても
作ってみたいと思っています。


最後に3Dの残りをアップします。
北山第天鏡閣南東アップ
南東からのズーム。







こんなに漆黒尽くしでいいのだろうか・・・とも思います。

北山第天鏡閣北東

北東、鬼門からです。
とくに鬼門除けはしていません。


以上、拙い作品ですが掲載しました。






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