3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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よみがえる金閣・北山第の全貌

あの、金閣及び北山第(北山殿)を3Dで再現しようと思っているのですが、
そのためには、まずは北山第の全貌というか、ある程度の概要を掴めないと出来ない、
ということで今回の記事では、

「よみがえる金閣・北山第の全貌」と、大層なタイトル名を付けてしまいました・・・

正直、金閣・北山第については具体的な指図(建築間取り図面)などなく、
当時の公家などが金閣に滞在したときの見聞日記を参考に、
文面から類推するしかありません。

中には、建物名しか書かれていない記述もあって正確な全容を掴むのは、
ほとんど可能性に近いです。

かといって、それでは夢もヘチマもありませんので、
最近まで、碩学の先生方が研究発表した文献や資料に基づいて製作することにしました。

従って、かなり自分の想像が入っていますが、
それでも、ある程度までは裏付に基づいて作ろう、という姿勢なので、

「ファンタジーに近いかも知れないけど、真実もある?」

みたいな構成になりますね。


ちなみに、義満の北山第から約100年後の義政の銀閣・東山殿については、
手書きの指図なども残っていて、それに基づいた復元指図やイラストもあります。
でも、3Dは少ないかもです。
金閣写真 


まずは今回参考・引用させていただいた文献・書籍をご紹介します。


・京都の歴史 第三巻 近世の胎動 京都市編

・日本中世住宅の研究 川上 貢著 中央公論美術出版

・日本庭園の植栽史 飛田範夫著 京都大学学術出版会

・日本建築の特質 日本建築史論集 太田博太郎著 岩波書店

・日本庭園の見方 宮元健次著 学芸出版社

・京都市埋蔵文化財研究所編 防災防犯施設工事に伴う発掘調査 1994年

・日本居住史 小沢朝江 水沼淑子共著 吉川弘文館

金閣と銀閣 赤松俊秀 川上 貢共著 淡交新社

・町家の茶室 中村利則 淡交社

・鹿苑寺と西園寺 思文閣出版 鹿苑寺編

・日本の庭園美2 鹿苑寺金閣 集英社

・日本建築史基礎資料集成 中央公論美術出版

・図解 社寺建築 社寺図例編  鶉 功 (著) 理工学社 

等、参考にさせて頂きました。
諸先生方に感謝申し上げます。

さて、応永四年(一三九八)義満は、将軍職を子の義持にゆずり、
北山山荘の造営にかかりました。

応永十五年(一四〇八)の三月八日、この日、義満は後小松天皇の行幸を仰ぎ
天皇の滞在は二十日間におよぶという異例さで、とても盛儀だったと当時の日記にもあります。

このころが金閣・北山第の最盛期で堂塔伽藍もそろった時でした。

(まさか、その一ヶ月後、義満が亡くなるとは・・・諸行無常です)

当時、相国寺の七重大塔と並び立つ壮麗な建造物でした。

北山第の地は元は西園寺公経が元仁元年(一一三四)一二月に創立供養した西園寺を中心に、
同氏の菩提所そして山荘として経営されもので、その盛時には南亭と北亭に分れる居住施設や幾多の仏堂がならびたつ、
鎌倉後半期の最高な公家屋敷及び別業・堂塔伽藍でした。

それが、鎌倉北条氏滅亡後、西園寺氏も落ちぶれて、西園寺(北山殿)も経営維持にも困り果て、

そこで義満が譲り受けたものでした。


西園寺家の北山殿 
(西園寺家の北山殿寝殿及び中門廊指図、日本中世住宅の研究・川上貢著から引用)


創建当時の北山第の広さは方二町半、今のメートルで東西南北に270m四方、坪数でいうと2万2000坪程という広壮さで、さらに背後の大文字山などを含めるともっと広いでしょうね。
ですから、現在の金閣寺の境内よりも広く、また境内地も今よりも、もっと南側に広がっていました。
そして入り口・参拝路も現在の東口からではなく南面からでした。 クリックすると拡大します。
金閣・北山第航空写真
(現在の金閣寺周辺の航空写真)


今も金閣寺から南に150mほど下がった所に町名として「衣笠総門町」がありますが、
そのあたりが当時の正門だったようです(川上 貢先生によると)。

また、その衣笠総門町から北に100mほど上ったところに「衣笠馬場町」の町名があり、
これも当時の北山第の馬場だったようです。

この馬場ですが、
約110mほどの長さの両サイドには桜の並木が植えられ春はさぞかし綺麗だったでしょうね。


ちなみに、日本庭園の植栽史(飛田範夫著)を読むと、
現在の金閣を取り巻く鏡湖池の周辺の山々は赤松が多いですが、
当時の僧が書いた『蔭涼軒日録』にはカエデ類が多く、紅葉が錦のごとくと、
称揚された様子が書かれてあり、義満の好みだったんでしょうね。

それが、
応仁の乱中にカエデが切られ、鏡湖池の南岸にあったイチイガシと二つの中島のカエデも
伐採され、それから現在の赤松を主体にした苑池に変わったとのこと。
クリックすると拡大します。
金閣・北山第の復元想像図
(金閣・北山第の復元想像図)

では堂塔伽藍の紹介に移ります。
堂宇の言い方や諸説あって想像の部分もありますが、自分なりにまとめてみました。

大きく分けて、

金閣があり義満が住持した北御所、

義満の正室・日野康子が住んだ南御所。

さらに南に隣接する崇賢門院の御所がありました。
崇賢門院は後円融院の生母、後小松天皇の祖母にあたり、義満の生母紀良子と姉妹の関係にありました。
この崇賢門院御所の東に先ほど書いた馬場、それ南に下った所の総門がありました。
そして北御所の北東に七重大塔をはじめとした禅宗伽藍。この伽藍群については文献にも登場する七重大塔を除いて
他はみんな想像です。ただ、京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査によれば、この地域から出土した瓦は大型品の丸瓦・平瓦がほとんどで本瓦葺きの建物群があったことがわかります。
 
従って、三門・仏殿・法堂が直列に並ぶ禅宗伽藍が聳え立ち、その周辺には方丈や宝蔵、七重塔などが散在していた可能性も十分想定できます。

ただ、当時、義満はすでに、高さ109mの七重塔を伴った大伽藍である相国寺を建立していますから、
そんなに大規模ではなかったと思います。

現に、北山第の方の七重大塔は高さ13丈、約40m程の規模だったと云われ(日本庭園の見方 宮元健次先生から引用)、
相国寺より結構低いです。 クリックすると拡大します。

金閣寺境内発掘調査図
(金閣寺境内発掘調査図・京都市埋蔵文化財研究所編)


で、中心である北御所ですが、
東方の四足門を入ると中門があり、中門廊・蔵人所(今でいう官僚の事務所)、公卿座が南面する寝殿につらなっていました。
鏡湖池のすぐそばに立つ寝殿の規模は、『迎陽記』『門葉記』等の記載によれば、
桁行七間、梁行五間の規模。メートル換算しますと南面する東西方向が約20m、南北が15mほど?
実際、当時の柱間の寸法は現在のように一間が1.82mという風には決まっておらず、
建物によって微妙に長さが違っていました。
よって、室町時代は一間が2m~3mの範囲内なので、ここの寝殿は柱間を広くとりました。
中央に間口五間、深さ一間の塗籠風の空間がありました。 クリックすると拡大します。

北山第御所寝殿間取り 
(北山第御所寝殿間取り、京都の歴史 第三巻 近世の胎動より引用)

宮元健次先生の説では寝殿は八棟造だったとも言われています。
八棟造というと、近世の東照宮とかの権現造りを想像してしまうのですが、どうなんでしょう。破風が屋根に並んでいたのかなぁ・・・?。

そして寝殿の北(管理人の類推)には小御所。
寝殿が天皇を向かえての公式な御所であるのに対して、
小御所は内々の儀式等に使ったと思われます。

さらにその北には常御所があったのでは?と思っています。
義満の私的な住まいです。

寝殿や小御所は正面は蔀戸(寝殿造りの定番)ですが、
北半は遣戸になっていて、いわば寝殿造りと書院造、二つの構成を南北に配分している形は、
そこに過渡的な住宅の動向を反映させた面があります。

でも、寝殿や小御所には複廊(左右に二つ並ぶ廊下)で繋ぐ公卿座(公家等の控え間)や中門廊、
透廊(壁のない柱だけの渡り廊下)が取り巻いており、そこは、まさに平安の寝殿造りを踏襲していました。

透廊や複廊など、当時の土御門内裏でさえありませんでしたから。
この北山第が、ある意味寝殿造りの最後を飾る御所でした。それ以降は、ひたすら書院造りが続きました。
こう考えると義満の公家好みがよくわかりますね。
室町幕府が公家風だったのもなるほどです。

池中の金閣(舎利殿)には二階廊で結ぶ天鏡閣、その北に泉殿があったと思われますが、おそらく鏡湖池を眺望する北西の湖畔沿いに雁行する形で並んでいたのでは、と思われます。

京都市埋蔵文化財研究所編の「防災防犯施設工事に伴う発掘調査」によれば金閣の北東位置から三棟の建物跡が見つかっています。
合いの渡り廊を挟んで南北に二棟です。南側の一棟は北に長いですから会所の可能性もあり得ます。
そうすると、北御所には天鏡閣と並ぶ二つの会所が存在したともいえます。 クリックすると拡大します。

金閣寺発掘現場D・B区 
(金閣寺発掘現場・京都市埋蔵文化財研究所編)


室町将軍の花の御所には三棟の会所が存在した時もありましたから、十分考えられます。

クリックすると拡大します。
室町花の御所指図 
(将軍・足利義教の花の御所指図・日本居住史 小沢朝江、 水沼淑子共著から引用)

自分的には明の唐風が好きだった義満は明の使節をもてなす為の天鏡閣は中国の楼閣風に朱色に塗り、もう一つの会所は和風に設え、欄干や柱には飾り金具や黒漆を塗るなど豪華さも演出していた・・・と想像してしまいます^-^。

そのほか、常御所、鏡湖池の西南に護摩堂、寝殿の南西に戯法堂、常御所の東北山上には看雲亭がありました。

南御所についてつけ加えますと、北御所ほどに明らかでないですが、東面して東門、その内側に東中門があり、東中 門廊に接続し、寝殿と東中門廊のあいだを二棟廊が繋いでいた、とのこと。
寝殿はその東西の桁行長は五間であったと見倣され、北御所寝殿に比較して二間小さいです。

多分、崇賢門院御所も同じ規模だったと思われます。

北山第の最も華やかだった時期は、応永十五年(一四〇八)三月八日、義満が後小松天皇(一休さんのお父さん)の行幸を迎えた日です。 後小松天皇の滞在は二十日間にも及んだというまさに義満絶頂の時でした。
このときの盛儀には、
行幸にそなえ、わざわざ早咲きの桜並木を植え、地上には五色の砂を鱗形に敷いて、
そのなかに金銀の造花をまき散らし、縁に銀の筋金を入れた
と伝えられています。
また、会所の15間30畳間では猿楽道阿弥の歌舞が演じられ、「御飾具足」や多数の重宝が献上され、
15間ある広間の押板には「御絵三幅・御剋絵四幅」をはじめ御剣・南錬(銀)・金欄・御料足、さらに唐物の座敷飾りなど、
ぜいを尽くした限りだったとのこと。

まさに義満は、こうした黄金趣味を北山殿にも発揮することによって、その威光を天下に誇示しようとしたのでしょうね。

足利義満像 
(足利義満画像)

しかし、この絢爛豪華な北山第も、後小松天皇の行幸が終わって、その一月後の同年五月六日義満が51歳で急死してしまうと、 後継の将軍・足利義持はここを維持せず、解体の憂き目にあってしまいます。

まず、北御所の寝殿は南禅院に、寝殿の東の公卿間は建仁寺へ移され、南御所や御会所も撤去されました。う懺法堂は等持院へ、
あの天鏡閣は南禅寺に運ばれてしまいます。
この他、天鏡閣の北の泉殿や御会所、東北の山上にあった看雲亭も失われてしまいます。

義満がつくりあげた北山殿の豪華な姿も、わずか二〇余年の短命で地上から消滅したのです。

なんというか幾ら権力者でも儚いですね・・・。

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