3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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明治維新、京都の諸藩邸はどこに消えてしまったんだろう?

今、「八重の桜」でさかんに会津だ、薩摩だ、長州・土佐だと京都各藩の藩邸が画面や、あるいはセリフの中で出ていますが、当時、御用屋敷(単純な取次ぎ所)も含めて200藩ほど、正式な藩邸クラスでなら100ほどの藩邸が京にひしめいていたといいますが、それら多くの藩邸は明治になってから忽然と消えてしまいました。

今日、明確に藩邸遺構と思われる建物は京都にはゼロ!。一つある平安神宮のそばの旧京都守護職の屋敷門も正確には幕府のお役所門でした。
京都守護職屋敷門
(京都守護職屋敷門) 

たまに引き合いに出される幕末・福井藩邸の跡だった京都国際ホテルの顔ともいえる屋敷門も実は梶井宮家の門です。
梶井宮家門(福井藩邸跡・京都国際ホテル)
(福井藩邸跡・京都国際ホテルに立つ旧梶井宮家門)
何百もあったのに、しかも戦災にあってない京都で、なぜ皆無?、残っていたら、きっと観光スポットになっていたのに、あぁ・・・もったいないことだよなぁ・・・。

ということで、
今回は、どんな経緯で京都藩邸が消えてしまったのか自分なりに調べてみることにしました。

記事にするにあたっては、京都総合資料館で発行している「総合資料館だより」の明治の京都藩邸処分(歴史資料課・行政文書担当 礒 航)、

それと、京都市編「京都の歴史・第七章 維新の激動」の二つの資料を主に参考(というかそのまま引用に近いです)にさせて頂きました。


では、取りあえず本題のまた本題から入っていきますが、果たして当時、幕末の京都には各藩邸や幕府の役所、御所・公家関係、社寺関係など、どんな状態で入り乱れ散在していたのか?

それを知るために、まずは当時のマップを掲載します
引用(けっこう前に刊行された学研の歴史ものムックからのです)。

ちなみに、各場所はそれぞれ色分けされています。

藩邸    ⇒ 黄色  (わかりにくいですよね、黄色です)

幕府諸機関 ⇒ 赤色

神社・仏閣 ⇒ 緑色

公家屋敷  ⇒ 青色(現在の京都御苑内はカット)

では、メインの洛中から何れもクリックすると拡大します。
幕末京都マップ洛中
(幕末京都マップ洛中)
どうですか?
当時の各勢力の位置関係が一目瞭然です。学研さんの労作ですね。藩邸では、さすがに薩摩や会津藩邸が大きいですね。ちなみに薩摩藩邸は広さ約5805坪、その中に主要棟9棟、そして多くの土蔵があったそうです。それと現在の京都府庁にあった京都守護職屋敷も広いですね、3万坪もあったそうです。二条城周りはさすがに赤が目立ちます。賀茂川に沿っては多くの宮家や公家、諸藩の別邸が目立ちます。平安の白川上皇も賀茂川の洪水にはとても悩まされたといいますが、川沿いで洪水対策大丈夫だったんですかね?

やはりというか、京都盆地特有の夏の暑さが洪水に勝ったかも?・・・です。

そうそう、相国寺も広いですね!当時は7万坪もあって現在の6倍ほどあったんですね。現在でも十分広いと思うのに・・・。

次に、洛北の東方面、
幕末京都マップ洛北東
(幕末京都マップ洛北の東)
こちらでは尾張、土佐藩邸が広いですね。それと、当初、守護職会津藩の本陣となった黒谷(金戒光明寺)の寺域も超広いですね。当時、知恩院とともに幕府の厚い庇護を受けた浄土宗の本山だったからでしょうね。当然、現在ではかなり縮小されてます。

次、洛北の西側です。
幕末京都マップ洛北西
(幕末京都マップ洛北の西)
洛外では北方面に桑名藩・松平邸が大きく立ちはだかっていますね。
ここは日本海に通じる山陰道、播磨国への篠山街道に通じる京への重要な関門。松平容保とは実兄弟の仲で、京都所司代として容保を支えた桑名藩主・松平定敬がここに藩邸を定めたのも旨なるかな、ですね。それと大徳寺の寺域も広いですね。当時、塔頭が55寺もありましたが、明治新政府の上地令で大幅に縮小、塔頭も現在は20程に減ってしまいます。それでも十分広いですけどね。

次は洛南に移って東側、
幕末京都マップ洛南東
(幕末京都マップ洛南の東)
ここでは加賀の前田候がさすが広いですね。
でも位置的に洛外で山科に近く、何かあったら、いつでも滋賀から加賀へ帰れるような位置ですね。
なんというか、前田の中立的、洞ヶ峠を決め込む・・・的な立ち位置がわかる感じです。それと東北諸藩の藩邸が存在するのも特色ですね。
東北は江戸期を通じ京都藩邸がもっとも少なかった地域ですからね。

ではマップの最後、洛南の西側、
幕末京都マップ洛南西
(幕末京都マップ洛南の西)
この地域は肥後の細川、津の藤堂家が大きいかな。他はあまり藩邸もありませんね。島原が目立つほどです^-^。

以上ざっとマップを見てきました。

が、地図の後は絵的なもの?がいいかと思いますんで幾つか紹介します。

まずは当時、京都においては所司代や町奉行、そして、その上に京都守護職が幕府権力として
存在していましたが、それに関係するもの二つほど、
幕末京都所司代跡
(幕末京都所司代)
白壁・海鼠壁の多聞櫓(長屋)が取り巻いてるのが京都所司代の屋敷。そして、その下の右が同所司代の門、左が町奉行所の門。 いずれも、京都市編「京都の歴史・第七章 維新の激動」から引用したものです。

そして同じく引用した京都守護職屋敷の指図。ここはいわば幕府の京都における官邸みたいな場所でした。
京都守護職屋敷指図
(京都守護職屋敷指図)
指図で見てもわかる通り、3万坪の土地に四周を高い二階建ての白壁・海鼠壁の多聞長屋で取り囲んでいました。
長屋の中は多くの武士たちの住居で、二階には100畳を越える広さの部屋もあったそうです。
玄関へは栗石を敷き詰め、玄関の天井も鏡天井といった豪華で威容を誇った屋敷でした。
当時、かなり費用もかかったそうですが、無理してでも幕府の権威を見せつけようとしたんですね。

それが今は何も残っていません。
せめて現京都府公舎の周りを一部だけでも門や長屋を残せばよかったのに・・・・と、思うのは後世の人間だからかな。当時は文明開化で幕府の象徴的な建物など消したかったでしょうし。

でも、あの東大の赤門一つとってもシンボル的な大きな存在となっています。そう思うと、やっぱりもったいなかったですね・・・。残してほしかった。

さて、せっかくの機会ですから、元々武家の少ない公家や寺社、町衆の文化都市・京都が 幕末の動乱で街中がどのような変貌を遂げていったか、その一端を書きますね。

まずは、当時、将軍上洛や長州征伐で大勢の諸侯・武士が京へ集まりましたが、そのときの 本陣図を掲載します。
幕末諸大名本陣地
(幕末諸大名本陣地)
京都の寺院は、多くが全国寺院の本山として、信仰と観光の対象でしたが幕末は諸大名が相次いで本陣とするに至って、寺院のもつ意味も変わっていきました。
政治の世界からは切りはなされていた寺院が、 武士の側にくみこまれることによって、政治的意味を担ってきたわけということなのですが、まだ都市景観としての変化は顕著ではありませんでした。

それが、いよいよ維新の回天による緊迫状況が生じてくると、各藩が競うように京屋敷の規模を拡大し、 一大名で二カ所あるいは三カ所に屋敷を設ける藩も出てきました。

そうした藩邸の建設は、たとえば、京の町衆に親しまれて来た道路が突然消えたりするなど、 半ば強引に町衆から家と土地と仕事まで収用する形で進められ、 京の町も大きく変貌してゆきました。

そうしたことから、蛤御門の変で多くの町が類焼し、
被災後も再建したくても弱まった町衆の力では経済的にも負担に堪えられず、 町の再開発も遅々として進まなかったのが幕末の実態でした。

また、当時、多いときは6万人もの諸藩の武士が投宿するにあたっても自藩邸だけでは収容しきれず、 多くが市中の寺院や会所、町屋に分宿しました。

たとえば、当時の文献によれば、
讃州丸亀藩京極氏の家来の場合は、 三百九十一名が二十一カ所に分宿していますが、
その二、 三を拾ってみますと、 丸太町通烏丸西入ル町の伊勢屋六兵衛借家に十五名、丸太町両替町西入ル町の藤屋源助の家に三名、 烏丸通丸太町丹波屋長兵衛の借家鍵屋富吉宅に五十七名、 油小路丸太町上ル宝請寺に七十一名というように、泊まる方も泊める方もたいへんだったでしょうね・・・。

と、ほんの一端ですけど、当時の京中の実態を書いてみました。

さて、ようやく藩邸処分の件に移ろうと思いましたが、
せっかくですから、例によって、ちょこっと幾つかの藩邸跡の写真や絵図、指図などを載せますね。

因幡藩池田家京都藩邸指図
(因幡藩池田家京都藩邸指図)
因幡藩の京都藩邸で,その内部の構造を詳細にうかがいえる数少な指図の一つです。
図はいずれも鳥取県立博物館所蔵の絵図から復元したものです(引用:京都市編「京都の歴史・第七章 維新の激動」)。

一町四方(120m四方)にわたる広い屋敷(ちょうど平安初期の貴族の屋敷地と同じ)には、
畳数を記した部屋のみでも366畳を数ます。因州がこの京都藩邸の建設をはじめたのは、文久3年(1863)のこと。 油小路下立売下ノレの本邸が手狭なため,新邸の建設となったものです。上図は完成した藩邸の中心部の拡大図。この広大な新邸では、のちに京都府で活躍する松田正人らの因州藩士たちが、西南雄藩の志士たちを助け国事に奔走した、とのこと。

次に、
尾張藩邸の写真
(伏見尾張藩邸の写真)
伏見にあった尾張藩邸の写真です。明治以後は伏見第二小学校の校舎として使われました。写真は明治後期の頃のものです。
尾張藩邸図(伏見第二小学校)
(旧尾張藩邸図 伏見第二小学校へ転用)
上記旧伏見尾張藩邸の絵図です。 絵図には火の見櫓(物見櫓)が見えますが、これは当時、幕府が諸藩に勧めたこともあって、いわば幕末の定番建築でした。
彦根藩京都藩邸図
(彦根藩京都藩邸図)
彦根藩京都藩邸です。
彦根藩は酒井・掘家らとならび幕府の要職大老を独占するほどの雄藩でした。
外国船の来航により京都の政情があわただしくなると、その実力と地の利をかわれて京都警護の任につきました。
しかし、大老・井伊直弼の失脚後は威信も失墜し、京都警衛の任も会津にとってかわられた経緯があります。
山家藩邸指図
(山家藩邸指図)
山家藩(やまがはん)は、丹波国何鹿郡山家周辺を領有した藩。藩庁は山家陣屋(現在の京都府綾部市広瀬町)。
藩主家の谷家は公家の園家を通して皇室との縁が深く、現皇室にも谷家の血が入っているとのこと。
藩祖・谷衛友は織田信長・豊臣秀吉に仕え、丹波国山家にて1万6000石を領し、後に子に分地して一万石の大名として明治まで続きました。明治以後は子爵。

では、ようやく藩邸処分の件について本文に入ります。

明治時代になって中央政府が東京に移ると、
京都にあった藩邸は急速にその必要性を失うこととなりました。

財政難に苦しむ諸藩では複数ある藩邸の管理に手が回らなくなり、明治2年頃には京都・大阪の藩邸の多くが荒れるに任せた状態となっていました。

そうしたことから、明治政府は、京都府からの建言を容れて、明治3年2月、残された藩邸の再開発を命じる太政官布告を発布しました。
この布告は、
京都ニ有之候諸藩 之邸宅地所、近来往々荒蕪ニ相成候場所不少趣、 右ハ全ク地力ヲ廃棄シ候儀ニ付、不用之向ハ桑 茶等植付地力ヲ尽候様可致、不及其儀分ハ売払 候歟、又ハ上地致候歟、孰レトモ取極、早々京都府ヘ可申出事」という内容のもので、

藩邸内に桑茶等の農作物を植えることで土地を有効に活用し、またそれが不可能な場合は土地自体を売り払うか政府へ上納するか、いずれかの対処を早急に行うように、との通達です。
つまり、使用されていない土地を公共のために用い、富国政策の一端とすることが政府のねらいだったようです。
また京都の町組からも土地利用の要望が京都府に寄せられていました。

これを受けて、
各藩それぞれの対応が京都府に届けられました。京都府庁文書の中の「諸藩邸上地件」(明3-19)には、全国約300藩にも及ぶ当時の届が綴じられていますが、各藩の対応はやはり一様にはいかなかったようです。

こうした状況に不都合を感じた政府は、ついに明治5年正月、諸藩邸を全て現状のまま上邸することとする太政官布告を出しま した。これにより、各藩邸の受け取りにあたることとなった京都府が、同年5月、政府租税寮に上邸の経過報告をした文書が、京都府庁文書「旧藩々邸奉還並売却件」(明4-27-1)の中に 残されています。

ここには、京都府内の綾部・舞鶴を含む 全国で41の藩邸が上邸済みと記されており、それぞれの藩邸地はその後、一部が「御用邸」として勧業場や学校等に利用されましたが、他は全て入札等により民間へ払い下げられることとなりました。

一方この時、上邸未済とされた福知山を含む13邸も上邸御達後夫々及掛合置候得共、未何等之返答無之、追而可請取分と注記されており、おそらく前の41邸と同様にして、最終的には民間へ渡ったものと思われます。

また、 おそらく、ここに記された54邸以外の藩邸も、これ以前にそれぞれ借金返済等のため譲渡・売り払いがされていたようです。

こうして京都に数多く存在した藩邸は、旧弊を廃した明治の急速な新政策の中で姿を消していったのです。

現在、その藩邸跡は教育機関や公共施設、銀行や新聞社、あるいは町屋などに変わっていて、
もう昔の片鱗は何も残っていません。

当時、解体されて売り払われた建物の部材は高級材でしっかりした建材でしたから、 おそらく転売後も大いに活用され、街中のお寺や神社、町屋などに移築され、門として、建屋として、また、その一部としてひっそりと誰にも知られず残っているものもあると思います。

東京など、意外と、大名・旗本屋敷の移築遺構の来歴が残っています。

寺社名鑑などの名簿にも、たまに移築された武家屋敷や城郭等の堂宇の由緒が書かれていることがあります。

京都の場合、公家屋敷などを移築した遺構は何件か自分も把握していますが、

幕府機関や藩邸などの武家屋敷の移築遺構についてはほとんど聞いたことがありません。

自分が知らないだけかもしれませんが、
残念ながら自分は京都在住ではないので中々調べることができません。

今後、それら移築遺構が朽ち果てる前に調査され、遺構として確認されることを切に望むものです。 

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