3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

Entries

再考 「坂本龍馬暗殺の黒幕は誰か?」 後編

前編の最後部分で「龍馬と親しかった佐々木高行が宴会の席で龍馬が酔いに任せて言った一言が、後の暗殺に繋がったのではないか?と思われる節があるのです。」と書きましたが、

その佐々木高行と龍馬が親しくなったきっかけの一つがイカルス号水夫殺人事件です。
同事件は、慶応3年(1867)7月6日深夜、長崎の花街、遊女屋引田屋の裏路地で、英国軍艦イカルス号の水夫、ロバート・フォードと、ジョン・ホッチングスが殺害された事件です。

その犯人探しの過程で、「現場から、白木綿筒袖を着た侍が抜刀して走り去った」との目撃証言から土佐海援隊士に嫌疑がかかりました。

そのとき、強行に犯人の捕縛、賠償金要求をした駐日英国公使のパークスとの折衝に奔走したのが龍馬、そして佐々木高行で、談合のなかで土佐藩の嫌疑は晴れました。実際の犯人は福岡藩士・金子才吉で金子は事件後自刃しています。
佐々木高行
(佐々木高行)

このようなことから、二人は親しくなり、ほぼ毎日のように長崎の遊郭・丸山に繰り出しては呑み語り、胸襟を開く仲になったといいます。

そんなある夜、龍馬の口から『此度薩長と共にせる計画(大政奉還)が失敗に帰したならば、耶蘇教(キリスト教)を以って人心を扇動し、其のドサクサまぎれに幕府を倒して終ふ』と、酔いもまかせて、ふと佐々木に本音?を漏らしたといい、佐々木は、「自分は之には大いに反対を奏した」と、後に語っています。 (佐々木老候昔日談24)。

龍馬は、どうも当時異端とされたキリスト教をも、倒幕の手段に利用しようと考えていた節があるのです。

龍馬の有名な言葉「日本を洗濯してもうそう」も、ひょっとしてキリスト教で日本を洗礼し変革してしまおう!との意味合い?だったかもしれません。

その佐々木高行ですが、維新後、1884年(明治17年)、維新以来の功績によって伯爵を授かり、翌年からは内閣制度開始とともに閣外に去って宮中顧問官、ついで枢密顧問官をつとめました。1890年(明治23年)には吉井友実や千家尊福らと神祇院再興運動を進めましたが採用されず、後には西村茂樹らと敬神・尊王・愛国思想の普及に尽くす運動を推進。1896年(明治29年)には、関係者の強い要望によって、当時経営状態が悪化していた皇典講究所の第2代所長に就任し、再建に尽力しました。1909年(明治42年)には、その功もあり侯爵にのぼり、1910年(明治43年)病没しました。

以上の経歴からも佐々木は尊王・復古神道の強力な論者であり、明治以後、鹿鳴館に代表される西洋への過度な傾倒に反発し、日本古来の伝統を訴えた保守の代表格でした。

当時、土佐藩の維新の第一の功労者といわれた後藤象二郎でも伯爵止まりでしたから、侯爵を授けられた佐々木の厚遇振りが伺えるし、その厚遇振りの背景も気になるところです。

さて、佐々木高行の経歴をざっと書きましたが、
では、それが、龍馬暗殺とどう繋がるのか?その背景を探り、いよいよ本題に入ります。

幕末維新前夜の慶応3年(1867)、突如として江戸から西国にかけて沸き起こった「ええじゃないか」騒動は一度は聞いた方も多いと思いと思います。
ええじゃないか騒動
(ええじゃないか騒動)


その「ええじゃないか」騒動の発端が最初に確認できた記録が三河吉田(愛知県豊橋市)の羽田八幡宮宮司の羽田野敬雄の日記です。羽田野敬雄は神官であるとともに、三河の有力な国学者でした。三河地方は、国学者の活動が盛んで、伊勢信仰も民衆のあいだに根づよく浸透していたといいます。
波多野敬雄
(波多野敬雄)

羽田野敬雄が記した『萬歳書留控』の慶応3年7月24日の記事の中に、吉田城下近くに伊勢皇太神宮のお札が降り、その後も吉田城下に降札は相次いだとのこと。これをきっかけに歌え踊れ飲めの、いわゆる「ええじゃないか」騒動が熱狂的に全国に広がります。

この騒動は偶然が生んだというよりも、騒動を画策した黒幕がいたと思います。状況証拠からみて、羽田野敬雄であり、その指示を出したのが江戸期を通じて白川家とともに神官の支配権を握っていた公家・吉田神道家(勢力的には吉田神道家が群を抜いていた)だと思います。

たとえば、慶応4年(明治元年、1868)正月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まると、吉田家は配下の神職に上京を呼びかけて京都に集め、約200人からなる神威隊という隊を結成して宮中内の警衛などを行わせました。そのなかで羽田野敬雄も地元の神職10名で上京し、宮中の内侍所(賢所、神鏡を安置)の警衛を任されています。

こうしてみると「ええじゃないか」騒動は、幕末に乗じた、いわば復古神道の再興運動ではなかったかと思います。

そしてその復古神道に大きな影響を与えたのが江戸後期の神道学者・平田篤胤です。

平田篤胤
(平田篤胤)

篤胤は、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))にかけ活躍した江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者で、出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となりました。復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられ、篤胤の学説は水戸学同様幕末の尊皇攘夷の支柱ともなりました。

また、篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらしました。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えました。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していました。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していて彼の学問体系は知識の広さのために不自然な融合を示し、複雑で錯綜したものとなっています。篤胤の復古神道は平田神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興にもつながりました。

平田篤胤の業績については、平成16年に国立歴史民俗博物館での特別企画「明治維新と平田国学」で展示され、展示内容からわかったことは、篤胤は全国の門下生による広汎なネットワークを駆使して情報収集を行い、幕末には、その門下生は4000人にも広がり、たとえば、当時、秘密であったはずのロシアからの外交文書などを手に入れるなど、その情報ネッワークは幕臣から諸大名、神官、武家、町人、庄屋と様々な階層に行き渡っていた一大情報組織であり、いわば、幕末維新・王政復古の隠れた演出者たちでした。当然、それらには吉田神道家も深く関わっていたと思います。

「游呂舎字用例考」
(「游呂舎字用例考」様々なロシア語文書と訳を収めたもの-国立歴史博物館展示品)

そこであくまで管理人の推測ですが、冒頭に書いた、佐々木高行が龍馬の口から聞いたという『此度薩長と共にせる計画(大政奉還)が失敗に帰したならば、耶蘇教(キリスト教)を以って人心を扇動し、其のドサクサまぎれに幕府を倒して終ふ』との言動に危機感を感じた佐々木高行が秘密裏に吉田神道家?(あるいは篤胤門下のネットワーク)に龍馬のその言動を知らせる。その言動は明らかに復古神道と相容れず、またキリスト教を利用した外国勢力による国家侵略をも危惧し、篤胤門下の諜報ネットワークを通じて龍馬暗殺が実行された・・・?

いわば、幕府や志士たちなど、あらゆる階層に網の目のように張りめぐされた篤胤門下の諜報ネットワークそのものが龍馬暗殺の黒幕であり、それこそ大目付の永井も篤胤門下だったかもしれないという、表に出ない裏からの暗殺命令であり、実行犯に今井信郎が指名された・・・という推測が成り立ちます。

佐々木高行なども急先鋒な復古神道の信奉者であり篤胤門下のネットワークの一人だった可能性も強いと思います。

以上は自分なりの黒幕説です。

ここで一つ、信長暗殺から江戸期、そして幕末にいたる吉田神道家?とその配下のネットワーク、あるいは国学信奉者のネットワーク、さらに、たとえば表面には出てこない「ええじゃないか騒動」を仕掛けた組織など、日本史の底流には、いまだ明かされない一つのバックアップ組織が存在した可能性があると思います。

信長を暗殺した明智光秀についても、背後で光秀を誘導した黒幕として朝廷説が挙げられ、分けても公家の吉田兼見は、ちょうど信長の暗殺された前後の日記が故意?に削除されているなど不審な行動もあり、秀吉から喚問も受けていますが不問に付されています。

また江戸期の 天明七年(1787)六月に、天皇がお住まいの御所の築地塀周りを巡りお参りする「千度参り」が突如として起こり、何万人ともいう数の人々が祈願したといいます。

これは当時、天明の大飢饉による米価高騰と庶民の苦しみに対して幕府が有効な手立てを行なわず、幕府は頼りにならない、天皇様にお願いするしかない・・・ということで始まった大衆運動で、それこそ神社のように賽銭が奉納され、そこには団子を売るなどの屋台まで現れ大賑わいだったいいます。

こうしたことから朝廷も見逃しに出来ず、幕府に対して蔵米の供出などを命じ、幕府もそれに応え小康を得ています。

ある意味、このときが、幕末の王政復古に繋がる天皇・朝廷の幕府に対する復権のきっかけであり、ターニングポイントになったと管理人は思っています。

この千度参りにも、裏での演出者がいたと思います。
それはやはり復古神道のネットワークであり、朝廷に取って代わろうとした信長暗殺にも繋がる日本史の底流に流れるバックアップ組織だったと思うのです。
 
また、江戸期を通じて幾度もあった伊勢への「おかげ参り」も、多いときは500万人もの人が参拝しましたが、こうした大衆運動にもひょっとして上記バックアップ組織が関わっていたかもしれません。

最後に明治以後の龍馬の妻だった・お龍の足跡を述べます。
お龍は龍馬亡き後、龍馬の実家の坂本家に身を寄せますが馴染めず土佐を去ります。その後再婚して夫に先立たれ後は長屋暮らしになり酒に溺れるなどあまり幸せだったとはいえない境遇でした。また西郷隆盛の庇護などありましたが、他の志士などにはほとんど援助されなかったといいます。お龍の性格も災いしたといいます。

その一方、高杉晋作の愛人だった「おうの」は、高杉が死ぬと正妻でない為に家に残れず、下関に住んでもとの芸者に戻って奔放に暮らしました。
しかし、高杉を信奉する井上馨や伊藤博文らはこれを高杉を汚すものだとして憤り、無理矢理おうのの髪を斬って出家させ、高杉の墓守として東行庵に住まわせました。
山県有朋は長州を去る際に住まいを梅処尼に与え、伊藤博文・井上馨や木戸孝允らも彼女を援助し続けたそうです。

この二人の女性の生き方をみても、微妙に晋作と龍馬の当時の立ち位置がわかるような気がします。

また、龍馬の子孫・一族についても、明治以後、一族を挙げて北海道に移住し、キリスト教に基づく生活や自由民権運動を行うなど、キリスト者の生き方を選択しています。

ひょっとして龍馬もキリスト教に対してシンパシーを感じていたのかもしれません。あるいは江戸期を通じて極端な身分差別をされてきた郷士と上士たちの反目、そうした土佐という風土自体にキリスト教の萌芽があったとも考えられます。

以上、自分なりの推測論でした。


下のバナーをクリックして頂けると嬉しいです。

ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!





記事のコメントも、「拍手」もお願いします。とても励みになるんですよ!!


注記:ブログ掲載の3D作品及びパース図については、著作権法に基づき、事前の承諾なく他への転載、利用をお断りしております。どうかご協力をお願い致します。
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントありがとうございます 

さぶろた-様

コメントありがとうございます。

平田篤胤については膨大な著述を前にして表面的に捉えるだけでしたが、より詳細な内容を教授頂きありがとうございます。

また、土佐の隠れキリシタンの件も情報ありがとうございます。

山の民とはサンカのことかなぁ?と思いますが、昔は戸籍がなかったと言われますが、現代でもそんな人いるんですかね・・・?

後、てき屋と寺社の関係とか興味尽きないですね。

                     梅のコージ
  • 梅のコージ 
  • URL 
  • 2013年04月04日 21時20分 
  • [編集]
  • [返信]

土佐とキリスト教 

長宗我部元親の時の戸次川(大野川)の戦いで、キリスト教大名の応援をして、長宗我部は負けてます。
仁淀川河口から少し上にいった右岸に「八十」ヤソと言う字地名がありそこには小さなヤソ神社があります。土佐にも一時期隠れキリシタンがいたのかもしれません。

バックアップのネットワークを広げた元は、霊能真柱が好まれてたこと。山で暮らす民には口コミですでに幽明一如の信仰は、救いのように広く広がってたと思います。

伊予大洲藩が天皇の東京行幸の先頭になったのは、彦根藩伊井家のような小藩に権威指南役を与えるやり方だと思いますが、平田篤胤の養子の鐵胤や矢野玄道が出た藩だったから選ばれた理由ももあるかもしれないな、と思ってます。
  • さぶろた 
  • URL 
  • 2013年04月04日 17時17分 
  • [編集]
  • [返信]

コメントの投稿

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

トラックバック

トラックバック URL
»»この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

左サイドMenu

たまに短歌

2017年5月8日更新

※ 短歌集はカテゴリー欄にあります。

タグ一覧


全記事(数)表示

全タイトルを表示

※表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

今日の運勢

今日の言葉

京都お役立ち情報

アンケート

ご意見・メールお寄せください

名前:
メール:
件名:
本文:

マーケット情報

プロフィール

梅村京一朗

Author:梅村京一朗
(けいいちろう)、
寝つきの悪い夜は、いにしえの京を想いながら寝ます。すると鼓の音のように京の日々歳々が甦ってきます。・・・浅き夢みし男のブログ語りです。

ブログ内検索

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

ブロぐるめLite


写真提供 ホットペッパー.jp
Powered byリクルートWEBサービス
developed by 遊ぶブログ

右サイドメニュー

最新記事

カテゴリー

  ※ 表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

人気ページランキング

開始日:2016/11/6

ブログパーツ

キーワード別記事リスト

最新コメント

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

検索・買物に利用して下さい

人気ブログランキング

FC2カウンター