3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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再考 「坂本龍馬暗殺の黒幕は誰か?」 前編

実は高杉晋作はなぜ、「NHKの大河ドラマで主役として取り上げられないのか?」

その理由を書いてみたいと思っていたのですが、
高杉のことを調べるうち、高杉と同様に、まるで役割を終えて彗星のごとく去っていった坂本龍馬の暗殺の謎がどうにも気になって調べてみました。
坂本龍馬

そしたら、共に暗殺された中岡新太郎の黒幕説まで飛び出しているなど、諸説・混乱していることを知りました。
中岡慎太郎
(中岡慎太郎)

それら各黒幕説を自分なりに整理し、その根拠と真実性を調べてみました。
その結果というか、思い至ったのは、いずれの説も明確な答えを用意してない、ということでした。

そこで、現在、唱えられている諸説を一つ一つ検証しながら、自分なりに、もう一つ違った視点から暗殺の謎を探ってみたいと思います。
坂本龍馬記念館(近江屋再現)
坂本龍馬記念館(近江屋再現)

ちなみに、坂本龍馬が当時無名かどうかについては、山内容堂の側近の寺村左膳がその日記に坂本龍馬・中岡慎太郎両名を「浪士の巨魁」と記載していることから、それなりに知られた存在だったと思われます。

なお、暗殺の実行犯についてですが、京都見廻組隊士だった今井信郎が明治3年(1870年)、函館戦争で降伏・捕囚となった際、新選組隊士であった大石鍬次郎や横倉甚五郎らから、犯人は見廻組であるという供述により、今井も近江屋事件について取調べを受けましたが、そのとき今井は、坂本・中岡暗殺に関与したと自白し、裁判により禁固刑となりました。

今井信郎
(今井信郎)

今井は明治後期以降にも詳細な供述調書が残されており、見廻組が実行犯であること。主格は佐々木只三郎で他にも数人。また、明治44年、同じ元見廻組隊士だった渡辺篤も老いて死ぬ間際に遺書で暗殺を告白している、などから、現在の歴史学上では実行犯は京都見廻組であるとの説が有力かつ定説視されているので、黒幕説の方に主軸を置き書いてみたいと思います。


<暗殺説その一 見廻り組を管轄する京都守護職の松平容保、もしくは幕府警察機関のトップである大目付・永井尚志など幕府高官黒幕説?>
永井 尚志
(永井尚志)

これについては、まず、ありえないと思います。
近江屋事件・慶応3年11月15日(1867年12月10日)で竜馬が殺されたその前日まで竜馬は永井と面会しています。その時期は大政奉還が決まった後で、竜馬の持論でもあった、徳川慶喜も参加した諸侯会議の合議制による新体制について永井に話し、永井もそれに賛同し、その場には松平容保も同席し、容保も同様に賛同しています。ですから竜馬を暗殺する動機も、必要もありません。一部の説では寺田屋事件で竜馬が逃げる際、幕吏を二人射殺しているので、そのため暗殺した、との説もありますが、そもそもそんな手配犯なら永井も会っていません。射殺の件は帳消しにしたんでしょう。また、大目付・永井は徳川慶喜の命により、新撰組・見廻組等による龍馬の捕殺禁止の通達を出していたといいます(史料・『伏見寺田屋の覚書』の中に記述)。また、2006年11月1日夜に放映されたNHKの番組『その時、歴史が動いた』の「歴史の選択」で、会津藩主の松平容保が永井尚志と共に龍馬に会っていた、との放映などもしていることから、それなりに根拠があったのだと思います。

ですから幕府高官が黒幕ではないと思います。

ただ、明治三年の見廻組隊士・今井の供述によれば、暗殺の命令は「上意下達」だったとのみ言っております。誰が命令を下したのか?、今井本人も知らなかったかもしれません。上司の佐々木只三郎も鳥羽・伏見の戦いで戦死しています。真相は藪の中ですが、一つ言えることは、幕府高官とは別のルートで暗殺を指示した者(黒幕)がいた、ということです。(管理人は別の角度から永井が絡んでいる可能性もあると思っています。後述)。

それにしても、暗殺にわざわざ偽の名刺を差し出し、天井の低い二階を見越し短刀を用意、しかも、手代の山田藤吉を一刀のもとに殺し、すかさず部屋に侵入、そして問答無用に殺しているのは普通の暗殺とは考えられません。何か私怨とも違う気がします。強い殺意をもった暗殺に思えます。


<その二、新撰組による暗殺>

これについては、大目付の永井による、事件当日、新撰組隊士が何処にいたのか?、それぞれアリバイも確認されていて、新撰組の仕業ではないことが明らかとなっています。
また、事件当日、瓢亭の下駄や残された鞘などの物証が残されていましたが、これもおかしなことです。暗殺者が下駄など履いているでしょうか?また、何故、鞘について、伊東甲子太郎の部下(御陵衛士)の証言から新選組の原田左之助だと言ったのか?、当時、新撰組と伊東甲子太郎一派とは戦争状態で、竜馬の暗殺など関わっている余裕などなかったと思います。三日後には伊東甲子太郎も新撰組に殺されています。後、「コナクソ」と刺客が言ったとされる言葉も、実は事件から40年も経ってから初めて語られた証言で信憑性に欠けています。

近藤勇も後に甲府で捕縛されたとき「見廻組がやった」と明確に関与を否定しています。それから新撰組隊士の大石鍬次郎が捕縛された際、近藤勇が「龍馬暗殺は見廻組。組頭の佐々木は天晴れだ」 と、暗殺後言っていたのを聞いたと証言しています。これら証言も含めて新撰組は白だと思います。


<その三、大政奉還そのものを反対する一部見廻り組隊士による私怨説>

大政奉還そのものは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した政治的事件ですが、それ以前から、たとえば朝廷からの密勅(戊午の密勅)が幕府を介さず水戸藩に直接下賜された、などもあり幕府は、朝廷と幕府の一致(公武合体)により、幕府の命令すなわち朝廷の命令とイコールになるよう、大政委任の再確認及び制度化を朝廷に要求しました。これが大政奉還の下地となったものです。

また大政奉還論そのものは、松平春嶽の政治顧問であった横井小楠や、大久保一翁・勝海舟ら開明的な幕臣などによって、早くから提唱されていたものです。土佐の後藤象二郎も山内容堂の命により大政奉還の建白に動いています。

つまり、大政奉還論は何も龍馬の専売特許ではなく当時の開明的な幕臣及び大名間では平和裏に政治体制を刷新(あくまで将軍が中心)する妙策として考えられていたのです。

従って、竜馬のみを眼の仇に暗殺する根拠にはなりません。

補足ですが、龍馬暗殺を狙っていた一部見廻り組隊士が、幕府間者から龍馬が近江屋に潜伏しているという情報を得て実行、そのときの指示ルートは、手代木直右衛門⇒京都見廻組与頭・佐々木只三郎⇒今井信郎だった、との説もありますが、これも、何もそんな潜伏情報を得るまでもなく龍馬は大目付・永井と白昼堂々と会っているわけですから、龍馬の投宿先など先刻承知だったと思います。
また、暗殺後、永井は新撰組のアリバイ調査もしてるぐらいですから、当然、配下の見回り組みの当日の行動・アリバイ等も確認していると思います。

<その四、 紀州藩士報復説>

これは、1867年5月26日(慶応3年4月23日)、伊予国大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で衝突。いろは丸は大破し沈没してしまいました。俗に言う「いろは丸事件」ですが、このときの賠償問題で、長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)と紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)とで交渉しましたが、最終的に紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及し、さらに、竜馬は民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせるなどして紀州藩から多額の賠償金を得ました。このことが紀州藩の反発と怨みを買い、暗殺されたというものです。

賠償金は同年11月7日に長崎で支払われ、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺されています。

暗殺の後、海援隊隊士の陸奥陽之助らなどは、「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行であると考え、紀州藩公用人の三浦休太郎を襲撃する事件(天満屋事件)が発生しましたが、タイミング的に海援隊の仲間が紀州を疑ったのも無理からぬ面はあります。それだけ怨みを買っていた、と海援隊側も思っていたんでしょうね。

でも、仮に紀州藩が黒幕だったとしても、わざわざ見廻り組の佐々木只三郎や今井らに暗殺を頼むでしょうか?当時、慶応三年2月には西郷の働きかけで、龍馬は脱藩の罪を許されて土佐藩に帰参しておりすでに浪士ではありません。見廻り組に頼めば、事が露見してしまう可能性や土佐藩との軋轢を生みかねません。また、佐々木らの勝手な判断で実行できるでしょうか?

そもそも、それだけ怨みに思っているのなら、人の手を借りず秘密裏に自藩の者たちで怨みを果たしたでしょう。また暗殺時の手際も瞬発を入れず斬るなど、怨恨というよりも、もっと明確な暗殺目的があった気がします。そういうことで紀州藩説も却下します。


<その五、薩摩藩黒幕説>

最近になって出てきた説で、しかもテレビなどでも取り上げています。
正直言って、坂本龍馬が時代を先取りしたリベラルの元祖?みたいな持ち上げ方の一方、西郷隆盛を頑迷な保守論者として貶めているような印象操作を感じます。
西郷隆盛
(西郷隆盛)

その薩摩藩黒幕説ですが、これは大政奉還を実現させたことで武力倒幕の大義名分を失った薩摩藩の西郷と大久保が、邪魔になった龍馬を殺したというものです。

これはもうコジツケ?以外の何ものでもないと思います。
当時、薩摩藩は国父(藩主の父)であった久光の強い意向により武力倒幕よりも大政奉還後の平和裏の諸侯会議で薩摩藩(久光)が主導権を握ろうと画策していました。そして、その画策がもし失敗したら倒幕も視野に入れるという和戦二面作戦をとっていました。久光自身がこんな考えですから、薩摩藩内にも倒幕反対派がいました。

このへんの状況は、土佐藩と薩摩藩の間で結ばれた薩土盟約一つをとっても、当時、様々な思惑が入り乱れていた様子を伺わせるものがあります。

この薩土盟約とは、慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬にかけ、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた政治的提携です。薩土提携などともいいますが、幕府崩壊寸前の時期になおも政局を主導する15代将軍徳川慶喜と、倒幕路線をとり始めた薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政奉還・王政復古を通じて、平和的手段で公議政体へ移行すべく提起した連携案に薩摩藩が同調したものですが、両藩の思惑の違いにより実行に移されることなく2か月半で解消されました。

連携案については、容堂の側近・後藤象次郎が、いわゆる龍馬の船中八策に賛同し、大政奉還を容堂に建白、容堂もそれを容認、薩摩藩に働きかけ結ばれたものですが、初めから同床異夢というか非現実的な盟約でした。

薩摩の西郷・大久保は、大政奉還の建白を徳川慶喜が拒否することを見越して、そこに倒幕の大義名分を求め、土佐の兵力を利用しようとしていました。土佐の後藤も、そのことは十分認識していました。では、なんで盟約が解消されたかというと、要は、久光や容堂などの殿様が過激な倒幕を嫌い、自分たちの諸侯会議であくまで幕府をリードしていこうという、いわば体制保守派なのに比べ、西郷。大久保や後藤、板垣などの藩士たちはあくまで倒幕(革新)を目指していた・・・この認識の違いが解消された理由です。もう武士の身分制度の破壊というか下級藩士たちによる体制への革命ともいえる側面があったと思います。

ということで、龍馬が邪魔というよりも、本音は殿様が邪魔ということで、薩摩黒幕説は却下です。

あの、一つ書き添えます。「大政奉還の建白を徳川慶喜が拒否することを見越して」と書きましたが、実際、慶応三年の10月13日、将軍・徳川慶喜は二条城に諸侯を招集し、大政奉還の建白を諮問にかけていますが、このとき強行に大政奉還を意見具申したのは薩摩藩家老・小松帯刀と土佐藩・後藤象次郎です。ここで不思議に思うのは、慶喜が建白を拒否することを見越していたとするならば、なにも帯刀が強行な意見を発言する必要はなかったと思います。黙っていた方が、逆に慶喜の拒否も誘いやすかったと思います。ここにも小松帯刀(家老)と西郷・大久保ら下級武士との考えの違いが仄見えてきます。


<その六、後藤象次郎黒幕説>
後藤象二郎
(後藤象二郎)
これもありえないと思います。
俗にいわれるのは、龍馬の「船中八策」を基に大政奉還策を考えたことについては口をぬぐい、自分の考えであるように山内容堂へ説明した。その結果、容堂から褒められ、千五百石加増という大ボーナスをもらい、「船中八策」を基にしていることに口をぬぐったのがバレるのを恐れ、龍馬を殺したのだと云う説です。これはもう噴飯ものです。
当時、龍馬の船中八策については、京都の土佐藩邸で後藤自身が同席した土佐藩士に龍馬の船中八策について説明してるぐらいですから、何も後藤が口をぬぐう必要などありません。

また、慶応三年2月に龍馬が脱藩の罪を許されて土佐藩に帰参したのも後藤が薩摩藩との折衝役として龍馬が必要であり、後藤側から帰参を要請しました。
大政奉還についても、龍馬は後藤に、建白がかなわなければ切腹する覚悟の象二郎に、自分も決死の思いだと伝え、「先生一身失策の為に天下の大機会を失せバ其罪天地ニ容るべからず」と激励した手紙も残っています。

以上のことからこれも却下です。

<その七、フリーメイソン犯行説>
武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙った企業体・ジャーディン・マセソン系のイギリス人・トーマス・ブレーク・グラバー、外交官・ハリー・パークス、アーネスト・サトウらにより秘密を知りすぎた?必要でなくなったので龍馬を暗殺した、との陰謀説です。作家の加治将一氏などが主張しています。

人によってはトンデモ系として相手にされてない面がありますが、どうなんでしょう?

龍馬が中心となって設立した亀山社中は日本最初?の商社として有名ですが、実際、脱藩浪士の龍馬にはそんな設立する資金はありませんでした。長崎の豪商・小曾根乾堂、そして薩摩藩がパトロンでした。薩摩藩としては直接、貿易に手を出すと他藩への売り込みなど不都合が生じるので、グラバーと薩摩藩との仲介商人として操船技術に長けた龍馬に白羽の矢を立てたのだと思います。

では、その亀山社中は貿易で莫大な利益を得たかというとそうではないですね。幕府への売り込みなど当然ダメですし、薩摩経由で長州に鉄砲などの武器を売ったのが一番大きな商いでした。その後は自前の船が沈没するなど、極度な資金繰りに困り果て、薩摩藩に泣きついて資金援助を受けています(船の提供など)。

そうした経緯から龍馬というよりも薩摩藩とグラバーとの通商関係が実態だったと思います。

もちろん、龍馬がグラバーを通して、キリスト教や欧米の政治・経済・文化などに感化された面はあると思いますが、それが即、フリーメイソンに繋がるのは飛躍しすぎだと思います。


フリーメイソンは上流階級の社交クラブのような存在であり、人によっては、それは表向きのフリーメイソン、真のメイソンは裏のメイソンであり一般には知られない秘密結社である、という側面も考えられ、その秘密性により陰謀論など生まれるのだと思います。

当時、グラバーはまだ20代のとても若い商人でした。その彼がメイソン?と疑問にさえ思えてきます。

外国に対して幕末の日本の幕府、諸侯・諸藩に共通していたのは、外国(欧米)勢力から武器の購入や軍事顧問による調練は受け入れても、お金そのものを借りることはありませんでした。

当時、欧米に借金することは治外法権の外国人居留地である租界を受け入れ、植民地化への第一歩と日本側は認識していました。上海の惨状をみんな知っていたからです。

こうした経緯から、なにも龍馬を暗殺する必要などなく、龍馬の暗殺された慶応三年11月から同年12月の王政復古の大号令までの期間、日本の社会情勢はとても流動的で、グラバーは龍馬を通じてまだまだ国内の諸藩に武器を売る機会はあったと思います。つまり、まだ龍馬は必要とされいたのです。

グラバー自身は明治以後、急速に影が薄くなります。しまいには岩崎弥太郎の三菱財閥の客分として援助された程です。

また日本人の女性と結婚して一人息子を設けていますが、
その息子さんも、とても愛着を持っていた長崎が原爆を受け、その悲惨な惨状を目の当たりにして、ショックのあまり自殺してしまいます。

そんなグラバー一家に、フリーメイソンの影は見えてきません。
強いて言うなら、グラバー自身がメイソンであることを知らされず日本に武器などの商品を売っていたかもしれません。


<その八、土佐藩の佐幕派による暗殺説>

これは、中島信文著『龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた』(彩流社)に論じられている新たな説で土佐藩の藩内抗争が根源にあったという新説です。

当時の土佐藩は佐幕派と公武合体派、倒幕派が入り乱れ、大政奉還時には土佐藩京都藩邸には、これらの派閥の藩士が混在し、実情は倒幕派よりも徳川家を中心とした公武合体的な派閥や佐幕派が多かったと言います。そして、大政奉還当時、佐幕派と公武合体派は薩摩と長州と結びついて倒幕に動いていた郷士の坂本龍馬と中岡慎太郎の存在が大きな問題だったといいます。二人が土佐藩の郷士の中心となって大政奉還後に倒幕に走るのを上層部重役の多くが嫌い恐れてもいた。そうした背景から山内容堂の意を受け、佐幕派が画策して龍馬を暗殺した、というものです。
山内容堂
(山内容堂)

この説には、確かに山内容堂には土佐勤皇党の武市半平太を切腹させた、という前科もあって容堂ならやりかねないと、思われる節もあり、諸説飛ぶ黒幕説のなかでは一番説得力がある気がします。

具体的には、容堂の側用人であった京都土佐藩邸の最高幹部である寺村左膳と寺田典膳らが密かに会津藩の手代木直右衛門や佐々木只三郎と謀議して、近江屋にいた二人を暗殺した。暗殺の対象は龍馬だけでなく中岡慎太郎の二人という黒幕説です。この論拠は寺村左膳日記の新たな分析や当時の土佐藩内の保守派がクーデターを起こす動きなどの分析から浮上してきた説です。

当時の土佐藩における上士と郷士の身分格差は非常に厳しいもので、倒幕派の乾(板垣)退助、谷干城らが佐幕派から殺されなかったのもいずれも上士だったからといわれています。また同じく上士の身分で容堂の側近として藩政をリードした佐々木高行は武市半平太とも親交があり、板垣、谷も含め郷士たちには身分の垣根を越えた寛大な立場だったといわれます。

前述した容堂は大政奉還を成就させ、徳川慶喜を中心とする合議政体の実現がねらいでしたが、その一方で、中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結んだことを聞き及ぶと、容堂はこれを追認した上で、乾らに大坂で武器300挺の買い付けを指示しています。
また、容堂は薩長の倒幕が本格的な動きを見せだすと、一転して薩長との連携に傾き、後藤象次郎を通じて薩摩と薩土盟約を結んだり、さらには獄に捕らえられていた勤王党の郷士まで赦免するなど、本音では倒幕反対の立場でしたが、その時々の情勢次第では有利な方に付くといった、なかなかに食えない殿様でした。

現に、薩長の情勢が倒幕に傾いていくと、佐幕派の重鎮であり容堂から重用された側用人の寺村左膳を京都藩邸の最高幹部から罷免しています。

また土佐藩が実質倒幕に舵を切ったのは、慶応4年1月(1868年1月)に起きた鳥羽伏見の戦いのときで、戦いが始まっても、まだ様子見をしていた容堂に痺れを切らした岩倉具視が半ば脅す形で参戦したのが実態です。

本当の意味で倒幕に一番強い意志を持っていたのは岩倉具視かもしれません。公家はずっと武士政権に牛耳られてきたのですから。

以上のような流れから龍馬の暗殺された慶応3年11月15日(1867年)の前後を龍馬と土佐藩との関係で検証してゆきますと、

まず、龍馬を土佐に戻し帰藩させたのは後藤象次郎の方であり、薩長との緊密な関係を結ぶには龍馬の存在が必要だった。

また、龍馬暗殺後の同年12月9日、薩長と岩倉具視らによるクーデターである王政復古の大号令の存在を土佐藩は知らなかった。

その間の情勢は徳川慶喜もいまだ権力を維持し佐幕に傾くか倒幕に傾くかは流動的であり土佐藩にとっては慶喜、薩長、どちらにも関係を維持しておく必要があった。

土佐藩にとって、海援隊のリーダーであり航海技術に長け貿易にも通じた竜馬は、藩の武器調達や交易による藩財政の推進に必要だった。

容堂の側近として藩政をリードした佐々木高行は龍馬と親しかった。故に逆に土佐藩にとっての龍馬の必要性を容堂に進言した可能性もある。

土佐勤王党を離れ脱藩した龍馬が郷士たちの支持をどれだけ得ていたか不明瞭である。

などが考えられ、「土佐藩の佐幕派による暗殺説」も確かに有力な説ではあると思いますが、確証まではいかないと思います。

ただ、龍馬と親しかった佐々木高行が宴会の席で龍馬が酔いに任せて言った一言が、後の暗殺に繋がったのではないか?と思われる節があるのです。

この推測は「再考 坂本竜馬暗殺の黒幕は誰か?」の後編で書いてみたいと思います。


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