3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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新島八重と一枚の古写真

一枚の古い写真を巡って調べていたら新島八重と出会いました。

その古写真とは、幕末、摂家・九条家の河原町別邸と思われる写真です。
京都府立第二高等女学校古写真
(九条家河原町別邸と思われる古写真)

この写真は国立国会図書館が所蔵する写真で、以前から気になっていた写真でした。明確に「九条家」の河原町別邸とは確認できなかったからです。

しかし、今回、改めて幕末の御所周辺地図と現在の地図及び所在地の住所など調べるうち、ほぼ九条家の河原町別邸と確定するに至りました。

それと新島八重とどういう関係があるかは追って書きますので。

同河原町別邸は幕末の地図で見ると、現在の京都市上京区土手町通丸田町下る駒の町にありました。
幕末御所周辺地図
(幕末御所周辺地図)

地図右下にピンクで囲ったところです。
ここには鴨川にそって、九条家、そして南に鷹司、近衛、有栖川宮の各別邸(下屋敷?)がありました。

そして、現在の地図に置き換えてみます。
御所近辺地図
(現在の御所近辺地図)

ピンクで囲った駒の町周辺が河原町別邸の跡地にあたります。左上、御所にそっては新島襄の旧邸があります。

ここ、九条家河原町別邸の跡地を遡っていきますと、
明治5年(1872年)、別邸が払い下げられ、 その地に新英学級及女紅場という女性のための学校が創立されました。
女紅場とは、1870年代に、女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸を授けた教育機関のことで、「女紅」とは「女工」とも表記し、女子の裁縫・手芸・染色などを指しました。幕末に民間で行われた裁縫塾に公教育の要素を組み合わせたもので、特に細民と呼ばれた下層社会の子女や芸妓・娼妓に必要最低限の教育を与えることを目的としていました。しかし後には女子教育制度の整備に伴って華族や士族の子女のために設置された学校も女紅場と呼ばれるようになりました。明治4年、京都で全国に先駆けて開校された「新英学級及女紅場(のち京都府立京都第一高等女学校となり場所を移転して現在の京都府立鴨沂高等学校へと変遷)」はその代表的な例です。

女紅場址の碑
(女紅場址の碑、駒の町の九条家河原町別邸のあった地)


そして、ここで新島八重の登場です。
新島八重
(新島八重)

八重は明治4年(1871年)、当時、京都府顧問となっていた兄の山本覚馬を頼って京都に引越し、翌年、兄の推薦により京都女紅場(前述の新英学級及女紅場)の権舎長・教道試補となり女子教育の教鞭をとりました。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで後々茶道に親しむようになり、生涯の支えとなりました。

八重は、兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約しましたが、当時、新島のキリスト教主義の学校建設に反対した僧侶・神官たちの反対嘆願署名活動もあって、婚約直後、突如、八重は女紅場を解雇された経緯がありました。

のちに夫である新島襄の開校した同志社英学校でも教師を努め、学生たちから鵺とか烈婦とか称されるようになったのはNHKでも紹介済みのことです。

さて、八重の去った女紅場ですが、
明治33年(1900年8月)、 九条殿河原町邸より、現在の京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町(京都御苑の通りを隔てたすぐ東)の現校地に移転され、そのとき茶室と正門が河原町邸より移築されました。その後、明治37年には京都府立京都第一高等女学校と改称されました。
鴨沂高等学校門(旧九条家河原町別邸の門)
(鴨沂高等学校門となっている旧九条家河原町別邸の門)

現在は校名も鴨沂高等学校とないっています。

この門ですが、以前から九条家から移築された門であることは知っていましたが、御苑内にあった本邸の門かどうかあまり深く詮索していませんでした。京都市内には他の藩邸や公家、宮家の門とか幾つか残っていますから。
京都府立第一高等女学校古写真
(京都府立第一高等女学校古写真)

現在の鴨沂高等学校の門とそっくりですよね。当たり前ですよね。移築したんですから。

で、冒頭、紹介した幕末の九条家河原町別邸の邸内の写真ではないか?と思われたけれども確証が得られなかった経緯を説明します。

一つの混乱が生じたのです。

というのも、明治33年(1900年8月)に、英学級及女紅場が河原町邸より現在の鴨沂高等学校の地に転居されて以後、その跡地には明治37年(1904年2月)、新たに京都府立第二高等女学校(現在の朱雀高等学校)が開校されていたのです!。

冒頭の古写真には、説明書きがあって、ただ、明治33年に開校された第二高等女学校、とだけ記載されていたのです。

整理しますと、
第一高等女学校の古写真には、河原町の旧九条家別邸に開校された、と説明書きされていましたが、第二高等女学校の古写真には九条家別邸跡地の記載はなく、ただ、開校された年次だけが記載されてました。

この時点で、まさか第一高等女学校の跡地に第二高等女学校が開校されていたとは知らず、古写真を見ても、どこか公家風の邸宅だなぁ・・・ぐらいにしか思っていませんでした。

しかし、今回、それらの経緯を知り、第二高等女学校の古写真も河原町別邸を写したものであり、しかも門を潜った玄関及び邸内の写真だったことがわかりました。

同古写真を見てみますと、今、唯一残る公家屋敷・冷泉家の住宅に似た雰囲気があります。
玄関及びそれに続く棟も軒が下に反った公家好みの「むくり屋根」になっています。それから、さらに細かく後ろの建物を見ていくと、妻飾り(懸魚)も冷泉家の台所棟の妻飾りとそっくりです。
冷泉家台所棟の妻飾り
(冷泉家台所棟の妻飾り)

以上のような観点から、この邸内を写した写真は九条家の河原町別邸の写真にほぼ間違いないと確信しました。

確信したとおりの屋敷であれば、幕末の公家住宅を写した貴重な写真です!

今回、このことが解ったことが大きな収穫でした。

それと鴨沂高等学校には同別邸から茶室も移築されています。
その写真が同校のHPに載っていたので掲載します。
鴨沂高等学校和室
(鴨沂高等学校和室)

現在も同校の茶道部の生徒さんたちが使っているとのこと。
だいぶ改築されていますが。
これも、もし、移築された茶室であれば、幕末の公家屋敷の貴重な遺構です。
確認されたら、元の状態に修築し、文化財として後世まで残していくと、良いなぁと思います。

以上、新島八重と一枚の古写真の顛末でした。


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