3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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公家・清閑寺家邸の指図(間取り)をアップしました。

ちょっとお久し振りのお公家さん特集ですが、公家の清閑寺家の江戸期のお宅を3Dで製作することにしました。
今、手元には、いろんな所から入手した江戸期のお公家さんの屋敷図を宮家も含めて二十数家分所持していますが、今回はその中から清閑寺家を取り上げてみることにしました。いろんな面を含めて同家は中の下といったクラスのお公家さんですが、そのクラスのお公家さんのお宅がどんなものか?自分なりにまとめてみたいと思ってます。

清閑寺邸の公家町の位置
(清閑寺家邸のあった公家町での位置)

清閑寺(せいがんじ)家は、本姓は藤原北家勧修寺流支流の藤原高藤の後裔で、吉田経長の子、資房によって創設されました。室町時代に一時期中絶しましたが、江戸時代になって中御門資胤の子・共房が入って再興しました。

家格は「名家」で、羽林家と同等、半家より上のクラスです。やはり中の下クラスでしょうか?名家には28家あります。江戸時代の石高は180石。公家としては、やはり中の下ですかね(ご子孫の方?もし読んでたらすみませんね)。明治維新後、華族として伯爵を授けられました。

ちなみに収入の180石ですが、諸説いろんな算定方法があると思いますが、今回は、1石(一人が一年間に食べる量)=一両として換算すると、一両=13万円(現在価値に置き換え)として180×13万で計2340万円になります。現在ですと、これだけの年収があれば羨ましがられますね。

しかし、お公家さんともなると体面や体裁、家来も抱えなければならないですし、出仕するためには、それなりに費用がかかります。いつも思うのですが、ホント、その石高でお公家さん出来たの?と不思議に思うことがあります。いろいろ副収入(家業や親戚筋の大名からの用立て、町人・商人への暖簾貸し代等)もあって、家来も実際には今でいう非常勤の者が多かったとも聞きますが・・・。

ちなみにお米の価値ですが、今の人が年間150キロもお米を食べるとは思いませんけど、古来?より一人1石分、年間一応150キロ食べるものとして現在の米価に置き換えると、現在の米価は60Kg=15、000円程度ですから1石(150Kg)では3.5万~4万円といったところでしょうか。で、単純に180石×4万だと年収720万・・・。上述した2340万の三分の一です。いかに江戸期の諸物価の価値を現在に置き換えることの難しさがわかりますね。まぁ、昔の方がお米の価値があったんですけどね。

戻ります、清閑寺家の門流は一条家になります。門流とは、摂家(5家)と一般公家が 家来・家礼関係を結ぶもので、摂関家に家礼として出入りすることで、その摂家に伝わる政治や学芸などの礼式を学ぶことできると、というものですが、後に、一種の従者的身分を意味する語として使われるようになったものです。実際には持ちつ持たれりの関係だったみたいですが。家礼を一番多く抱えていたのは近衛家で48家、少ないのは二条家で4家のみでした。また、どこの家礼にも属さない公家も40家ほどあったようです。

清閑寺家で比較的知られるのは、 清閑寺熙房(せいかんじ ひろふさ、寛永10年1633年)~貞享3年(1686年)で江戸時代前期の公卿。明正天皇(109代)・後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位権大納言まで昇りました。娘には五代将軍・徳川綱吉の側室になった者もいます。後、エピソードとしては、熙房の嫡男の清閑寺熙定が、浅野長矩の吉良義央に対する殿中刃傷があった元禄14年(1701年)3月の年始答礼の際に霊元上皇の院使として江戸へ下向していたことで比較的知られています。

さて、清閑寺家のお屋敷ですが、京都府総合資料館が蔵する江戸初期に描かれたと思われる同家の4分割指図(複写)からアップします。
(清閑寺邸の4分割した元図・京都府総合資料館蔵)

この元図を大岡敏昭氏が著書「日本の住まい その源流を探る」(相模書房)のなかで取り上げていて、解りやすく書き起こした間取り図が載っていましたので引用させて頂きます。
清閑寺邸間取り図(大岡敏昭)
(大岡敏昭氏による書き起こした間取り図)


同書は日本の住まいを現代から中世・古代に遡って描き、また中国の住まいも現代から中世・古代まで遡ることにより、温故知新というか、現代の住まいに活かそうという、とてもコンパクトにまとめた良書です。お薦めの本です。 

日本の住まい その源流を探る
(日本の住まい その源流を探る・大岡敏昭著)

一応、管理人も京都府総合資料館の原本の指図(複写)を持っていますが、癖?のある、くずし文字など素人の自分にはわからない部分も、同氏による書き起こしでわかる面があって、とても参考になり助かりました。

で、自分が作成した間取り図がこれです。 

清閑寺邸の指図
(管理人が作成した清閑寺邸指図)

気ままな素人のブログという事もあって、ちょっと遊びというか、想像を加えて書き込んだ部分もあります。
敷地が353坪。延べ建坪が174坪ほどになります。これも当時の公家屋敷としては中の下クラスでしょうか。

例によって興味本位ですが、この敷地、建坪を現在のお値段に換算してみます。ただし、かなり大雑把ですのであしからず。

まず敷地ですが、御所周辺は今も一等地で地価は高いです。特に通りに面した繁華街など1㎡あたり百万をこえる場所もありますが、とりあえず平均を取って坪60万、で、60万×353坪=2億1180万円!、家の方はちょっと高めに設定して坪80万、174坪×80万=1億3920万、敷地も含めると3億5100万の豪邸!になります。

年収2340万円あっても、この豪邸を建てるのは、かなり無理では?と思うのですが、その辺のカラクリやいかに、ですね^^。

当時、江戸時代、公家の屋敷敷地は朝廷というよりも幕府からの拝領地で実質タダ。永年貸し出しみたいなものです。固定資産税も当然かかりません。家についてはどうでしょう?、火災の類焼などで焼けた場合は支度金が出ています。当然、当時は火災保険などなかったですから幕府経由朝廷からの支度金の下賜ということになります。もし火元だったら? お仕置きで二等地に配置換えかな?、家の保全とかは公家の自費ですけどね。でも、それさえも時には嫁に出した嫁ぎ先からの支援金?に頼ったこともあったでしょうね。
公家のなかには、次々と町人地を買い増して貸すなど不動産事業をしていた公家もいて、一様ではなかったですけど。

火災保険のことですけど、江戸時代、江戸ではよく火事が起こりました。江戸っ子には慣れたことかもしれませんが、確かに大工とかの稼ぎ時にもなるし、復興景気の面もあったでしょうが、じゃ、家屋敷を失った町人や商人は再建する費用をどう工面したんでしょう?火災保険か低利の金貸し?または幕府から長期の借り入れが出来た?、当時は銀行みたいな所に預金を預けておくということはできたのかな?
たまに聞く話は、当時、裕福な商人など地下に大きな地下室というか甕を埋めていて、いざという時は、その甕に全財産を入れ、火事から防いだ、ともききますが。

その辺、わかる方がいたら教えてください^^。

ところで、先ほど清閑寺家の敷地は353坪と書きましたが、念のため、明治4年作成の「華族建家坪数控」の清閑寺家の項を開いたら、何と敷地600坪、建家延べ215坪で、かつ、正門は東となっているじゃないですか!。

京都府総合資料館が蔵している清閑寺家指図は江戸初期の寛永19年(1642)~延宝5年(1677)の間に建てられた屋敷の指図と思われ、表門も西側に記載され、奥行も東43mと東西に長い敷地となっています。

敷地でいうと幕末の方が2倍。改めて幕末の公家町地図を見ると、御所の北東、猿が辻に近い野々宮家の隣で、しかも清閑寺家の東側は小路になっていて正門を東側にもってくるのも頷けます。敷地も南北に長くなっています。
江戸初期に対し屋敷地(拝領地)が替わっていたんですね。しかも倍の広さで、出世しましたね^^。

せっかくですから、「華族建家坪数控」の清閑寺のページをアップしますね。

幕末清閑寺邸坪数控1
(幕末清閑寺邸坪数 その一)
もう一枚、
幕末清閑寺邸坪数控2
(幕末清閑寺邸坪数 その二)

幕末の指図が残っていれば、そちらで3D製作を目指したんですが残念です。

ということで、江戸初期の指図に戻ります。

西正門は長屋門造りとなっています。これが上層の公家になると四足門とかになり、摂家あたりになると唐門クラスになります。
門を潜って正面が玄関、板間から踏み板を上がるという武家風の式台となっています。これが室町の頃の上層公家であれば、中門を通って寝殿の縁床へ輿で土を踏まず上がれる、という感じだったんですけど、近世にはいって武家の影響を受けるようになったんですね。以前も書きましたけど、中門が塀重門(板塀の門)に変わっているんですね。指図中にも記載してます。

書院となっているところが接客空間であり公的な座敷です。室町の足利義政の頃派生した主殿造りにも似た、同じ屋根のもと、接客や仏事、いおりのある居間、寝室等を兼ねた一つの完結した室内となっています。敷地が狭いという面もありますが現代風?でもありますね。

近世になると、公家といえども床の間と違い棚のある書院造りが主流になります。ただ、屋根は、反りが下になった瀟洒な「むくり」屋根などに公家風の好みを感じます。

今回の指図をみて思ったのは江戸初期の頃は屋根は杮葺、室内の床は板間が多いことです。同じ清閑寺家でも幕末の方の家建坪は200坪すべて瓦葺になっています。瓦の方が耐久性がよく、単価の方も普及するに連れ安くなったということだと思いますが。その一方で、江戸時代の武家や公家の収入である石高は一定、それに対して諸物価は幕末になるほど高騰してゆく・・・、結果、家計のやりくりに困り、金と維持管理に手間がかかる割りに耐用年数の短い杮葺から瓦に変わっていった、そんな側面もあると思います。あの二条城の二の丸御殿も完成時は桧皮葺でした。お公家さんだったら瀟洒な杮葺の方を好むと思うし、実際、唯一残る公家屋敷である冷泉家の近年の修理工事でも瓦葺から元の杮葺に戻しています。もっと、くどく言うならば、二条城本丸に移された桂宮邸も創建時は杮葺でした。

一方、板間の方は時代が下るほど畳に変わってます。中期以降は女中・下男など使用人の部屋も畳になってます。

清閑寺家の屋敷はそんなに広くはないですけど、接客空間と奥向きの家族空間が明確に分かれているなど、敷地の特徴を目いっぱい活かしたコンパクトな間取りに感心させられます。

後、台所など水周りは北、本宅に付属した瓦葺の部屋は蔵造りですかね?貴重品を置いていたかも。奥向きには細長い7畳の板間や茶湯のある9畳の板間など、どんな使い方をしたんでしょう?かまどが土間と料理の間の二箇所にありますけど、使用人と主人家族用に分かれていたのでしょうか?

などなど、指図上だけではわからないことがいろいろありますね。

以上、指図編でした。

・今回、参照した書籍:大岡敏昭氏著「日本の住まい その源流を探る」(相模書房)


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