3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.12 旅のエピローグ ゴアの海で祖国を想う

記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

ネパール東部のピラトナガルから再びインドへ入り、一路、カルカッタへ。
インドルート地図

改めて地図を見ると、「カルカッタがない!」、調べると、現在では「コルカタ」というんですね。
30数年前は殆ど、英語表記の発音で、それに慣れ親しんでいた自分には少々混乱しますね。
現在は、より現地の発音に近い地名になっているとは知りませんでした。ほかにもマドラスはチェンナイ、トリバンドラムはティルバナンタプラム、プーナはプネーと様々に呼び名が変わっていて、なんだか浦島太郎になった気分です。

それでも、立ち寄ったことのある都市を地図上にマーキングして、当時の旅を思い出しながら書いています。前、実家により34年前のインド周遊券を見つけたことを書きましたが、三ヶ月乗り放題でしかもファーストクラスと、バックパッカーの風上にも置けないインドの旅でしたが、それにはそれなりの理由がありました。

インドの大都市はどこもそうだと思いますが、駅構内はもちろん、列車のなかも、たくさんの乗客でごった返しています。扉にも屋根にもよじ登っています。
カルカッタはとくに特別な混みようでしたね。その光景を眺めていると、足が萎え、旅の気分が吹っ飛んでしまうほどでした。

そこで、旅仲間からあらかじめ聞いていた「一等車のインドレイルパスを買えば、快適な旅が出来るよ」と、言ってくれたことを思いだし、買うことにしました。

後でそれは正解だと思いましたね。一等車は乗客も少なく、のんびり窓外の景色を眺めることができました。お弁当もウェイトレス?さんが持ってきてくれました。ただし、窓は頑丈な鉄格子付きです。

カルカッタでは観光もせず、宿に泊まり駅周辺を散歩しただけですが、歩道には様々な物乞いがいました。なかには、四肢のない子供のお腹にお皿を乗せお金を物乞いしている悲惨な光景も目に入りました。とてもショックでしたけど、さらにショッキングだったのは、それを商売とし、親自身が子供の四肢を無くさせていることです。
カルカッタ旧市街
(コルカタ旧市街)
今はもうないことを祈るばかりですが、偽善とは言え、旅する自分がどれだけ恵まれているか、心に痛みを感じました。

カルカッタはバングラディシュが独立するとき、東ベンガルから何百万人という大勢のヒンズー教徒が逃れてきました。そういった背景もあり貧困の度合いが高い都市なんですね。

観光はしませんでしたが、カルカッタといえば、インド人に今でも人気の高い、インド国民軍を引きい、独立に大きく寄与したチャンドラ・ボースのことを思い出します。

インド人の、とくに知識階級に親日家が多いのも、日本がボースを支援し国民軍と共に英国と戦った戦中のことを知っているからです。昭和天皇が崩御されたとき、時のインド政府は半旗を四日間掲げ、弔意を示したそうです。

インド独立というとガンジーのことがクローズアップされますが、無抵抗主義の裏には、独立闘争を通して英国側にダメージを与えたチャンドラ・ボースの功績があったんですね。

今もインドの国会議事堂の正面にはガンジーと並んでチャンドラ・ボースの像が置かれています。

カルカッタを早々に次ぎの目的地・プリーに向かいました。
プリーはオリッサ州の海辺の町で、ここにはジャガンナート寺院(ヒンズー教で世界の主という)がありヒンズー教の四大聖地となっている町です。
プリーの浜辺
(プリーの浜辺)

町は参拝客も多く、華やかで毎日が縁日のような雰囲気ですが、海辺の方に行くと静かで、黄色い砂浜がきれいに続いています。
インドの東海岸でも指折りの景勝地です。
インド人にはリゾート地という感覚はないですが、ここも、やっぱりというか、ヒッピー達のたまり場になってます。まぁ、自分もそれに釣られてきたわけですが。

ここだけでなく、インド全体の海岸線に言えることかもしれませんが、とにかく棘科の植物が多いですね。サンダルで海辺を歩いていたりすると、気をつけないと刺さり、ときにはサンダルを突き抜けるほどです。

また、これもインド共通のことかもしれませんが、ここプリーも砂浜がトイレになっています。
ですから、棘とウンチの両方に気をつけて、下ばかり見て歩く感じです。

しかし、ネパール、そしてガンジスの平原から来た者にとっては、とても寛げる海の町です。
海辺近くには手ごろな安ホテルもあって、夜、寝るときは、屋上のベッドで星を見ながら旅仲間と語らい寝るのがとても楽しかったものです。

そんなとある日、確か北海道出身の旅仲間だったと思いますけど、バイクタクシー(オートバイのタクシー)に乗ってジキジキに行ってみようと言い出しました。ジキジキとは隠語で、いわゆる売春のことで、インドだけでなく、西はトルコまで、東は東南アジア?まで通じる国境を越えた隠語です。ですから、そういうのが好きなひとはリキシャや三輪タクシーの兄さんに「ジキジキ」といえば、直ぐ連れてってくれます。

自分は正直いって、インドくんだりまで来て、暑いし、不衛生だし、とてもそんな気にはなりませんでしたけど、お付き合いで冷やかしがてら行ってみました。

そしたら、驚きましたね!。そこは糞便の臭う狭い土面の路地に売春婦たちが言い方は悪いですけど、丸太のように路地を塞ぐ形で寝そべり、むしゃくしゃ食べていました。みんな豚(これも言い方悪いですけど)のように太り、自分たちが通っても知らん振り、仕方なく跨いで通りました。
インドのこの類の所へ行ったのは初めてですが、その、あまりの家畜小屋のような荒みきった場所と雰囲気に、流石の彼も驚き、もう、ほうほうの呈で逃げてきましたね。

インドは男尊女卑で、たとえば、嫁の持参金が少ないと、焼き殺してしまうほどの恐ろしい面が当時ありました。当時は田舎へ行けば行くほど治外法権というか、司法の手が入らない、地元での長老たちによる勝手な裁きが横行していました(今でも、そうなのかな?)。この、売春街もとても人間扱いではなく、人権蹂躙も甚だしいものがありました。

あのカルカッタの四肢のない幼い子、そして、この劣悪な環境での鬼畜な行為、
もう、34年も前のことですが、もし、今でも続いているとしたら、絶望的な空しさを感じますね。

環境面での不衛生といえば、食堂での料理にハエがたかっているのは当たり前、水も生で飲むのはとても怖いので、トルコからはずっと煮沸した湯水しか飲みませんでした。

また、当時、都市伝説のように旅仲間たちの間で伝わっていたのが象足病の噂。象足病とは字のごとく、足が象のように膨れ上がり腫れてしまう病気ですが、その発生源が水溜りの水だと、まことしやかに言われたことから、みんな雨の日など、水溜りを避けるため、ピョンピョンと飛び跳ねながら歩いていました。

後、可笑しなもので、現地のひとと同じように手指で直接食べるのも慣れてくると箸を使うより美味しくなりましたね。味覚というものは本来舌だけでなく、指先でも感じるものだと気がつきました。お握りや寿司だって指で食べますよね。またトイレでの後始末もペーパーより指と水の方がお尻に優しい感じで、これも結構気に入りました。しかも、済ませた後、すぐ洗うと、不思議と臭いが残らないし、ペーパーのカス(汚い話ですみません)もスッキリ流されますので、インド人にいわせれば、ペーハーを使う方が不潔だというのも、なるほどなぁ、と思いました。
(痔の方はお薦めです^^)。

列車で気の赴くままの旅でしたので、ルートはまた前後しますが、インド中北部のアグラから南へ120キロほど行ったところにグワリオールという町があります。ここは麓から100m程の高さに3キロ近く細長く平らな丘が続き、その上をグルリと取り囲むように雄大な城塞が聳え立っていました。列車からも人目で目立ったので、さっそく降りて見学することにしました。日本で言うと姫路城みたいな城で、幾つか見たインドの城塞のなかでも、その雄大さと、遮るもののない丘の立つ姿はとても印象的でした。おそらく、インドでも一位、二位を争う素晴らしさだと思います。
グワリオール
(グワリオール城)
城内は複雑な歴史もあって、宮殿とヒンズー寺院やモスクなどが幾つもあり、青のタイルをはめ込んだ無数の城壁の櫓?が美しかったですね。今も藩王がこの城に住んでいるそうです。ガイドブックにも載っていない穴場的な町です。ただ、地方都市なので、言葉の壁や宿に少し苦労するかもです。

インドで感じたことは、とくに石造の寺院やモスク、城塞、宮殿、墓廟、古い町などが非常に多く残り、しかも保存状態が良いことです。西部劇に出てくるようなテーブルマウンテンが幾つか望まれるデカン高原の車窓から、忽然と現れる城塞など、ワクワク感がありますね。ヨーロッパならイタリアが一番歴史史跡・観光資源が多いと感じましたけど、アジアではインドですね。

インドは第二次大戦まで600程の藩王が統治する藩王国に別れ、その上に、徳川幕府のように英国が君臨していました。インド独立後も藩王がそのまま宮殿に住んだり、旧領国に一定の影響力を残すなど、そんな背景もあり石造の無数の城塞や宮殿、離宮が残されたんですね。

後、風土的にも湿度が少なく、ヒンズー教徒も信仰する寺院が一度、他教(イスラムなど)に蹂躙されると、その寺院は捨て、また新たな寺院を建造する、また、ヒンズー教徒自体が破壊を好まない面など、幾つかの要素が重なって残っているのだと思います。

自然をみても北のヒマラヤ地域からガンジス流域の大平原、雄大なデカン高原、南部のケララ州のような東南アジアを彷彿とさせる緑のベルト地帯、そしてその背後に聳えるニルギリ山地(最高・海抜2800m)には幾つかの自然・動物保護区もあって、多様な自然に恵まれています。

ただ、広い国土なので周りきれないのが難点ですが。

ちなみにアグラからグワリオールまでの車窓から、真っ白な尖塔が無数に群立する幻想的な丘や暗褐色の重厚な石造の宮殿?など印象的な風景が続きましたけど、今になって、「インド建築案内(神谷武夫著)」で確認してみると、それは、ソナーギリのジャイナ教寺院都市で100ものイスラムの影響を受けた真っ白な寺院群が密集する都市群でした。ジャイナ教はインドでもシーク教徒よりもさらに少ない450万人ほどの少数派の宗教ですが、殺生を禁ずるなど戒律も厳しく、例えば、動物に襲われたときにも自衛のために動物を傷付けてはならない、など自分たちから見れば極端に見えますけど、森羅万象に神は宿るという多神教の教えは日本の神道にも通じる清浄さを感じますね。南インドに行くと素裸の立像など見かけますが、これもジャイナ教の影響です。今思うと、ジャイナ教の寺院建築群、たとえば、ラーナクプルのアーディナータ寺院やシャトルジンジャの山岳寺院などの最高傑作を見ておけば良かったと思います。装飾過多でコテコテのヒンズー寺院は正直あまり好きではありませんが、ジャイナ教の寺院には洗練された造形美と禁欲なるが故の清浄さがあります。
ソナーギリのジャイナ教寺院
(ソナーギリのジャイナ教寺院)
そしてもう一つの暗褐色の宮殿はダティアという町の城郭宮殿でした。

ジャイナ教の建築は素晴らしいので、聖地であり山岳寺院が展開するシャトルジンジャ寺院群を紹介します。
シャトルジンジャ山岳寺院
(インドの宗教建築の傑作・シャトルジンジャ寺院群です)

地図で確認しながら、次はデカン高原の中心都市ハイデラバードへ向かいました。中南部アーンドラ・プラデーシュ州の州都です。この都市は昔と同じ発音表記なのですぐわかりました。中心にはこの都市のシンボルである四本のミナレットから構成する高さ57mのチャール・ミナールが有名でした。近年は、ITビジネスが牽引する経済発展が著しく、街も大きく変容していると思いますが、当時はヒンズーとイスラムが入り混じった街で、旧市街もインドらしい人混みの多さと、牛たちが我が物顔でのっそり歩いてました。
ちなみに、ヒンズーでは牛は聖なるものとして食肉は禁じられていましたが、そこらじゅうの沼地や水辺にいた水牛たちは食べてもOKで、自分らからみれば同じ牛じゃんと思いましたけど、まぁ、それ以上の詮索はしませんでした。
チャール・ミナール
(チャール・ミナール)
ハイデラバードでは郊外に展開するゴルコンド城塞(1518年 - 1687ごろ)を見学するのが目的でした。この城塞は17世紀にムガール帝国に滅ぼされ廃墟となりましたけど、その規模が大きく、ツワモノどもが夢の跡、といった趣でよかったですね。城内は住民たちの集落にもなっていましたね。
ゴルコンダ要塞
(ゴルコンダ城塞)
さらに南下して、インド南部・カルナータカ州の州都であるバンガロール(当時はバンガロールといった) 。を尋ねました。ここは標高1000mほどの高原都市で当時も街並みは整然としてとても住みやすい印象を持ちましたね。当時は人口100万といわれ、将来はもっと発展するだろうなぁ・・・と思いましたけど、案の定、今ではIT関連企業が集積する大都市となりました。自分から見れば、34年前の落ち着いた町が懐かしいし、ここならずっと住んでもいいいなぁ、と思わせるインドであってインドでないような、そんな高原の都市でした。34年前は・・・。
バンガロールの公園
(バンガロールの公園)

同じカルナータカ州にあるマイソールもマイソール藩王国の首都だったところで、ここも高原都市で住みやすく、街路も縦横に計画的に建設された落ち着いた町です。町自体には古いものはあまりありませんが、藩王の建てた宮殿がとても豪華だと聞いたので見学することにしました。
マイソールのパレス
(マイソールのパレス)
確かに豪華でしたが、それが何?といった感じでヨーロッパのロココ趣味を取り入れた室内はあまり感動しませんでした。逆に当時の藩王が狩猟で捉えた動物たちの剥製が所狭しと飾られ、その悪趣味にうんざりしましたね。

インド各地には旧藩王たちの宮殿が多く残っていますが、古いオールド宮殿の方はインドらしい趣が残っていますが、近代に建てらた宮殿は英国の提督を迎え入れる為、あるいは英国におもねる為か、とにかく洋風を取り入れた宮殿が多く、正直、それらは成金趣味にみえて仕方がありませんでした。まさに独自性を失った藩王国たちの黄昏をみる思いでした。

次々と訪れた都市が並びますが、もう、ちょっと我慢してください。

マドラス(今はチェンナイ)も寄りましたが、そこはカット。当初、スリランカへ渡ろうかどうか迷ってマドラスまで来て、結局、いくのをやめました。

インド南部のタミル・ナードゥ州はムガール帝国はじめ、イスラム諸勢力をここで阻んだ経緯もあって、ヒンズー文化が純粋に残る地域で、とくにこの地域のヒンズー寺院を代表するマドゥライのミーナークシ寺院はぜひ、尋ねたい町でした。
ミナクシ寺院
(ミナクシ寺院)

ミーナークシとは「魚の目をもつ女神」という意味で、元々はタミルの土着の神だったのをヒンズー教が取り込みシバ神の神妃と同化したものだそうです。

このようにインドでは、意外と各地方で祀られていた土着神がヒンズーの神々に取り込まれていく、という神様が多く、日本の古代の神話にも通じる多彩さがあります。

前から不思議に思っていたことですが、インド亜大陸に人口10億を数える大国、しかも貧しく今だカーストに縛られ、かつ、商売でも印僑といえば狡さで知られるようなインドで、今まで軍事クーデターもなく(宗教間の争いはあった)選挙で選ばれた議会、そして政府がそれなりに機能してきたことです。

当初からガンジー、ネールの国民会議派が圧倒的な支持を得ていたという経緯もありますが、それだけでなく、多神教であるヒンズー教が各地の土着神を吸収していったように、ヒンズーによる緩やかな国民の連帯がインド流の民主主義を生み出しているのかもしれません。

ちなみに自分は、ルソーの啓蒙思想に始まった双子のイデオロギー、いわゆる民主主義と共産主義はあまり好きではありません。戦後、占領下の日本で昭和天皇が「人間宣言」をされていますが、意外と知られていないのが、宣言の最後に明治天皇が発せられた「五箇条のご誓文」を付け加えらていることです。なにも民主主義は戦後、アメリカから与えられたものではなく、もう一度、維新の原点に戻ろう、というものです。それぞれの国にはそれぞれの歴史と伝統があり、その尊重の上にたった政治が一番安定するのでは、と思います。

さて、ミーナークシ寺院ですが、境内が250m四方もあって四方を外壁で囲み、その上には日本でいう仏塔とお城の天守閣をミックスしたようなゴプラという塔が12基も建てられ、高いものでは48mもあります。

一般的にヒンズーの寺院でも、南部、こちらタミル州の方が他宗派の人でも入れることができ開放的な感じがします。北インドではヒンズー教徒以外は入れない寺院もありましたから。もちろん、入るときは素足になりますけど。

ミーナークシもそうですし、他のインド南部のヒンズー寺院にも共通して感じたのは寺院の外観よりも、内部、たとえば長く続く外・回廊や祀堂の柱や壁、天井などに彫られた、もう、これでもか、というほどの過剰な彫刻装飾と彩色の数々、幻想的というか、他では見られない異空間な構造です。まるでインディー・ジョーンズの映画に出てくる魔宮に迷った感じで、とても興味引かれましたよ。しかも、素足でお参りしますから、直接、肌で伝わる感じで、素足でお参る意味がわかりましたね。
ミナクシ寺院の回廊
(ミナクシ寺院の回廊)
インド人の信仰というよりも寺院にお布施する熱意は半端じゃないですね。日本など足元にも及びません。ヒンズー教はカーストと密接にくっついていて、功徳(お布施)を積めば積むほど来世はいいカーストに生まれるということもあって、結果的に競争みたいに過剰装飾になってしまうんですね。

日本の場合もお布施は功徳の一つとして当然ありますけど、たとえば、大名など戦国の世で多くの死者を出した罪滅ぼしとか、極楽浄土に成仏できるようにお布施を積む場合が多く、来世までの功徳のことはあまり考えていません。そこが日本との違いですが、人間やっぱり、来世のことまで宗教に縛られると必死になるものです。上位のカーストほど。その結果がヒンズーの寺院です。

もう一つ印象に残ったヒンズー寺院というかお城を紹介します。
ティルチラーパリというところにある、俗にいう「ロック・フォート」です。まさしく岩の上に建てられた城塞ですが、今は内部は寺院になっていて、参拝してお布施をすると、象に頭をなでてくれます。いやぁ、楽しかったですね。インドの人はお布施を集めるのが得意だと、思ったものです。
ロックフォート
(ロックフォート)
もうここまで来ると、インド最南端のコモリン岬はもうすぐ先です。

コモリン岬には最南端の町、カンヤクマリがあります。現地の意味で「白き処女」と言う意味です。
さすがにインド北部から南下してきて疲れたのでここでしばらく滞在しました。
カンヤクマリ
(カンヤクマリ)
ここには、同じようなバックパーカーたちが集まっていました。
不思議と北欧の女性が多く、彼女らは結構フランクで一緒に食事したり、おしゃべりしました。
日本のことが気になるらしく、いろんなことを聞かれました。
しかも自分はヒッピーらしくないお洒落なクルタを着ていたせいか、真面目派?と思われ、自分に集中して聞いてくるので、たどたどしい英語で応えるのに必死でしたね。

インドではどこへ行っても、女性はグループかカップルで旅していたので、なかなか親密になる機会がありませんでした(別にそれだけが目的ではないですよ。一人旅という孤高?の精神がありましたから)。日本人の男と欧米女性とのカップルは少なかったですね。逆に女性が日本人のパターンの方が多く、内心、「また欧米野郎に付いていきやがる」と、変な大和魂にかられてました。

でも、ここカンヤクマリでは、北欧の二人組の彼女たちと親しくなり、一緒にサンライズ、そしてサンセットを楽しんだのが良き思い出となっています。コモリン岬から眺めるインド洋そしてアラビア海の夕焼けは亜熱帯特有の、本当に黄金色に輝く素晴らしい光景でした。

カンヤクマリには真っ白な尖塔がとても印象的なキリスト教の教会がありました。

インドには不可触民といって、カーストにも入れない人々も多くいましたが、海岸部の漁師たちも、その多くが不可触民でした。魚を獲るという殺生がその理由です。
でもカースト外ということでキリスト教に入信するひとも多く、インドの海沿いをグルっと囲む形でキリスト教徒の教会が意外と目立ちます。インドの人口の5%ほどはキリスト教徒だったと思います。

ですからここカンヤクマリも白い教会と白い壁の民家が織り成す風景がインドであってインドでない雰囲気を醸し出し、インド世界に疲れたときは、ここでのんびりと過ごすのです。ゴアもそんな所ですけど。

そうそう、忘れないうちに書いておきます。ここの食べ物で、日本の「おはぎ」そっくりのものがありました。ちゃんともちもちしたご飯に粒餡が甘く包んでいました。どうしてインドに日本の「おはぎ」が?。とても美味しかったですけど、けど、なんでコモリン岬に? 日本の人が暮らしているのかなぁ? と、今、思っても不思議ですね。

そして、ここから、今度はインドの西側伝いに北上します。
まずはケララの水郷地帯まで。
ケララの水郷
(ケララの水郷)
背後にニルギリ山地を控えるケララ地方は緑も多く、東南アジアを感じさせる水郷地帯には、日本のお寺のような木造のヒンズー寺院がそこかしこに見え、舟に揺られ、のんびりと過ごしました。
ケララの木造寺院
(ケララの木造寺院)
のんびり、という言葉が出てくると、そろそろ旅の終わりを感じさせます。

でも、また、ゴアでのんびりしてしまうんですね。

ニルギリ山地には幾つかの動物自然保護区があって、その中の一つ、ペリヤール野生動物保護区を尋ねてみました。
ここは大きなダム湖の水辺にゾウ、トラ、ヒョウ、シカ、バイソンなど野生動物たちがたむろし、遊覧船に乗って動物たちをウォッチングするんです。周りは緑に囲まれ、日本の湿原風景を思い出させる雰囲気です。夜、泊まったホテルには、なんと小椋佳の歌が聞こえてきて、ホテルのスタッフが「ファンタスチック」と言うので、そうかインドでもそう聞こえるんだぁ、妙に感心したものです。
ペリヤール動物自然保護区
(ペリヤール動物自然保護区)

そして、ゴアに行きました。

もう旅が完全に滞在型になりました。もう観光など充分って感じ。
それでも、あのフランシスコ・ザビエルの眠るボム・ジェズ・バシリカや聖フランシス修道院などポルトガル植民地時代の建物と文化を見て周りました。
ポルトガルの植民地だったということもあって、ここもインドとは違う貌を持っていました。
ボム・ジェム・バシリカ
(ボム・ジェム・バシリカ)
そして、例のごとくヒッピーたちが大勢たむろしてました。

日本人もいました。

今でも思いだすのは、
ヨギ(あちらではそう呼んでいた)の修行をしていた日本人の二人。

一人は大学の講師をしていたとかで30代後半だったかな?ヒゲの似合うひとでした。
もう一人はその元講師の弟子?みたいな若い日本人でした。
なによりも驚いたのは二人とも日本人の証明であるパスポートを捨て、裸に猿股一つの身で、持つ物といえば真鍮製のお椀一つ。これで喜捨を受け修行して周っているそうです。たまにお腹が空くと、ゴアの浜辺に小さいエビを獲りにいってそのまま食べるといった感じで、自分たちには、とても真似できないなぁ・・・と思いました。

当時の時代の熱風がそうさせたのかなぁ?とも思いましたけど、彼らには彼らなりに真理を究めたかったんでしょうね。ヒゲの先生とは、今となっては、どんな会話をしたのか忘れてしまいましたが、当時、そんな生き方を択んだ日本人もいた・・・ということだけを書き留めておきます。

今は、その後の二人のご無事をただただ祈るばかりです。

インドは国民の多くが貧しいこともあって、どんな格好をしていようが誰も気に留めません。ヨガの行者も基本、自分の子供が成長し、手を離れ、家族としての責任を果たした50過ぎに行者となるのが理想的といわれ、そんな行者たちに喜捨するのが、また功徳を積むということで、インド各地の聖地を巡るたくさんの行者さんたちがいました。多くは似非行者に近い感じですが、それはそれなりにインドの風景に溶け合っていました。犬も猫も面白いことにインド人そっくりの表情や仕草をしてました。

貧しさ故の不当で非道なことも横行していて、あのヒンズーを熱心に信仰するひとたちがなぜ?と思うこともありましたが、必ずしも信仰と善悪の観念が結びつかないのは古今東西どこも一緒で、ヒンズーの教えにある、「来世にどこに生まれ変わるかは、死者の臨終のときの心のもち方が決定する、また、臨終のときに生前もっとも関心を寄せた事柄が頭に浮かび、この最後の思念が来世への運命を担っていく」という臨終感を真摯に客観的にみれるひとは幸いなるかな・・・と思いました。人事ではないですからね・・・。

ゴアはポルトガルの影響でキリスト信者も多く、地元料理も腸詰めのサラミっぽいハムや香辛料をふんだんに使った骨まで食べられる魚の蒸し料理が美味しかったですね。とくに魚の蒸し料理は後にも先にも同じ料理に出会ったことはありません。またゴアへ行けば食べられるのかな?

インドのひとたちは、あまり海水浴をする風習はなく、ゴアに幾つかあったビーチは外国人、当時は主としてヒッピーたちが占めていました。

そのなかでもアンジュナやカラングート・ビーチは多かった気がします。カフェやバンガロー風の安宿が並んでいました。自分もそこに投宿すると、さっそく海に出てみました。
カラングト・ビーチ
(カラングト・ビーチ)

すると、遠くから、まるでミロのビーナスのような可憐な少女が砂浜を蹴ってきて、僕の前を一瞬にして通り過ぎました。

ミロのビーナスと言ったのは、彼女が一衣纏わない全裸だったからです。

ここはヒッピーたちのヌーディスト・ビーチでした。

若い裸身は美しいですね。男は余分な突起物があるから、ちょっと不快ですけど^^。
いやらしさは全然なく、逆に服を着ている方が不自然でした。

自分もそのままではいけない、と思い、浜で寝そべるときはタオル掛け、泳ぐときはフル○○という折衷スタイルをとりました。というか、それが日本人パッカーたちの、それなりの流儀でした。やはりここでも、ヒッピーになりきれない日本の若者の姿がありました。というか、日本人にはヒッピーになる理由がありませんでした。戦争を知らない日本の若者だったのですから。ただ、旅の途中で、表面的に真似てみよう、そんな気持ちだったと思います。

海で泳いだときは開放感があって気持ち良かったですね。でも考えてみれば、日本は露天風呂の元祖。野外でヌードは日本人の方が専売特許だったんだけど・・・などと思ったりして浜辺で寝転んでました。

ビーチには日本の女性もいましたが、セミヌードが限界。
一生懸命、囃し立て、その気にさせようとしたのですがダメでした^^。
ここは地元インドのひとたちにとっても覗き見?の観光スポットで、ヌードをチラ見してゆく奥ゆかしさが面白かったですね。インドのひとだってガンガで沐浴するんだから、一緒に脱いで海に入ろうよ、という風にはならないのは、そこがインドと、申しておきましょう。

夕方になると、何処からとも知れずヒッピーたちが浜辺に集まってきて円座を組みマリファナ(グループ間ではマリファナが多かった)パーティーが開かれました。国籍も雑多で、マリファナを吸うのも、吸わないのも自由。ギターを弾き出す者もいれば、Meditationとは何だ?と自分に聞いてきて、内心、「そんなことわかるか!」と思いましたけど、知らないでは東洋の国の名折れだと思って、思わず答えたのが「ZEN」。その白人ヒッピーは「そうか!ありがとう」みたいな感じで妙に納得してました。もう夢うつつに入っていたんでしょうね^^。

夢うつつといえば、前に日本人パッカーがバルパライソとかで定住し日本に帰らず骨を埋めることを「沈没」と言ってましたが、それを欧米のヒッピーたちに当てはめると、ここゴアでドラッグに溺れ、半ば、廃人レベルになってゆくヒッピーたちのことを「沈没」と言っていいかもしれません。
廃人になったひとは、一応、仲間のヒッピーたちが面倒みてましたが、これも、彼らは今は無事に社会復帰してるかなぁ・・・と34年の月日を経ても気になりますね。

ゴアではいろんなエピソードがありましたが一つ。

ひとり、美人の日本女性がいて、フランス人のヒッピーたち5,6名を下僕のように引き連れ女王様気取りででインドを旅してるとのことでした。彼女の宿には日本の文庫本が数百冊?も置いてあって、僕らも、その私設図書館のお世話になりました。なんでも一応結婚していてダンナさんは売れない絵本作家とのこと。自分は自由な旅が好きなのでインドに来たそうな。そのダンナさん日本に残して大丈夫?と思いましたけど、無責任な僕ら旅人でも付いていけないような、破天荒の進んだ?考えの持ち主でした。

その彼女の宿へ、例によって、前、プリーで一緒になり赤線探訪した女好きの北海道氏が、またまたゴアで再会して、女王様が気に入ったから口説きにいく。お前も付き合えというんで、しぶしぶ付き合いました。
話す分には面白い女性ですけど、彼にどうせ調教されて下僕だぞ、それでいいのか?と諦めるよう促しましたが、彼もこりず毎日通い詰め。もちろん、僕もお付き合い。

で、ある日、僕は長い旅で頭にシラミが湧いてしまい、卵もいっぱい産み付けられて痒いことこの上なく、もう天日干しするしかないと思い、床屋さんで頭をツルツルに剃ってもらいました。
自分でいうのもなんですが結構似合ってました。まわりの現地のひとたちにも、ホンマもんのお坊さんや、とお墨付きを頂けました。

そうだ、これからはお坊さんスタイルで行こうと、例によって北海道氏と女王様の宿に行くと、「あなた右翼?帰りなさいよ!」と言うではないですか?。剃ってない前は、正直、北海道氏よりも「あなたの方がタイプだわ」と言っていた女王様がまさに豹変! 僕も怒れてすぐ出ていきました。なんで、坊主頭だと右翼なんだよ!街宣右翼のイメージに騙され過ぎ!。かれらは偽装右翼、ただの雇われヤクザだぞ、と言いたかったけど、もう怒りは収まりませんでした。

そして翌日、彼女の宿はもぬけの殻、誰もいず、たくさんの本を下僕のフランス人たちに持たせ、次の滞在地へ旅立っていました。

あの女王は何者だったんだろう?何を考えて旅してたんだろう、と、今でもわかりません。

ただ、頭剃っておいて良かったです。もし下僕の一員にされてたら、日本に帰れなかったかも?
内心、バカなフランス人たちだよなぁ、と思ったものです^^。
(北海道氏は未練たらたらでしたけど。お前が頭剃るからだと、変な言いがかりをつけてきました。変な奴^^)。

ゴアにどれほど滞在したのかもう覚えていません。でも旅も確実に終わりに近づいていました。

最後にもう一箇所、インドのどこか尋ねてみたいと思い、旅仲間に聞いてみたら、ハンピーがいいよ。といわれ、どこ?と聞くと、ゴアからそんなに遠くないカルナータカ州にあるよ。ここから200キロほど先というので、さっそく行ってみることにしました。
ハンピ
(ハンピ)

そこは、一言でいうならば、トルコのカッパキドアとインドのカジュラーホ寺院群、カンボジアのアンコール・ワットを足して三で割ったような不可思議な遺跡でした。インドでもここだけしか見られない光景でした。数キロに渡って、かつての王国の宮殿や寺院、都市遺跡が奇岩奇石のなかに不気味な静けさを漂わせながら鎮まっていました。今はもうかなり観光地化されてるみたいですが、当時は観光客もいず、遠い昔の栄華に想いを馳せたものです。

再び、ゴアに戻って、もう行くべきところはなく、ひたすらアラビア海を眺めていました。ここは夕焼けの美しい海で、温暖な冬は月日を忘れてします。
ゴアの夕焼け
(ゴアの夕焼け)
しばし、心の空虚が生じたとき、祖国・日本のことを想いました。日本の夕焼けは茜雲だったよなぁ・・・と。

戦後の混乱期、歌人(劇作家)の寺山修司が、

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

と歌いましたが、正直、自分は違和感を感じます。別に戦争に負けて戦前の価値感を否定したからといって、なにも「身捨つるほどの祖国はありや」と祖国を上から目線で歌わなくても・・・と。

そして戦後、「祖国」というごく普通の世界共通語が日本においては、右翼の言葉?視されてきたのは、とてもおかしいことだと思います。本来、祖国に右も左もないのですから。

戦後、日本は先人が営々と築いてきた歴史と伝統、精神文化を封印されたまま、方向性もなく閉塞感だけが漂っているのが現状だと思います。

以前、日本異質論が唱えられ、世界標準のグローバルスタンダードに合わせるべきだ、という論調がさかんに喧伝されましたが、こうして長期の旅をして幾つもの国を巡ると、確かに日本は異質だと思いました。

しかし、その異質さは、なにも日本が変わっている?とか遅れているとか、そういった類のものではなく、たまたま、日本人の生み出した精神文化と同じ国がなかったこと、だけだと思いました。

一歩、日本から国外へ出れば、大なり小なり、どこも弱肉強食の世界、けっして自分の非を認めない、あくまで自己主張しなければ生きていけない社会。そして、白黒がはっきりしていて、その中庸がない社会。そしてヨーロッパは個人主義、アジアは血縁主義で、自分たち以外を信用しない社会、言葉でしか意思を伝えられない社会、妥協しない社会、明らかな階級社会、これらは厳然としてある事実であり、どの国も同じ行動パターンをもっていると思いました。
目を見ても、明らかに日本人の目には少ない、血走った目、動物のような目、なんの考えもない目、鷹のような目、本能のままの目、自分を喪失した目、そんな目に多く接しました。

それは、いつでも、混沌としたラスボス、闇の社会を生みかねない恐ろしさを感じました。

世界のパワーバランスは経済力と軍事力によって裏打ちされていると思います。日本は経済力はあっても軍事力はアメリカの傘の下に頼っています。ですから、いつも外交では苦渋をなめています。日本も核をもてば、一定の外交力を持つでしょう。しかし、その一方で経済大国の日本までもが核をもったら、この地球は平和になる機会を永遠に失ってしまう・・・日本とは、そういち立ち位置にいると思います。

抽象的ですが、戦後、封印されてきた本来の日本の精神文化、文明こそ、世界に受け入れられたとき、世界は平和へと舵をきっていくのではないかと思います。

自分なりの超個人的解釈ですが、ゴアの海で、祖国のことを思い、そんなことを考えました。
もちろん、34年前の自分は、もっと漠然とした捉え方でしたが。その萌芽は芽生えていました。

長居したゴアも旅立つ日が来ました。北海道氏とも住所を交換しあい、別れました。彼こそ、まさしく欧米のヒッピーたちに昭和天皇のことを「ヒロヒトラー」と言った張本人です。

そんな彼なのに、住所まで交換しあって、お互いの旅の無事を言って別れたのは、

やっぱり、僕も、彼も同じ日本人だっからでしょう。

後はもう、ひたすら帰りの便があるパキスタンのカラチまで電車を乗り継ぐだけです。
4月に日本を発ち、すでに年を越え10ヶ月近く経とうとしています。

旅の最後に、電車で通ったインドのムンバイの手前、プーナ(プナー)という都市のことに触れておきたいと思います。

ここ、プーナこそ、当時、ヒッピーたちの教祖的存在だったバグアン・ラジニーシ教団の本拠地・アシュラムがあったところです。

ラジニーシ教団の信者は蜜柑色系のクルタを着込み、首からはラジニーシ信者の証である円形のエンブレム(メダル)をぶら下げていたので直ぐわかりました。
ラジニーシ教団
(ラジニーシ教団の講話風景)

バグワン・シュリ・ラジニーシ(1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、神秘思想家で、
古来から伝わる瞑想的な技法について紹介および解説するとともに、現代人に向けて新しい瞑想の技法を編み出し、西洋的なセラピーのテクニックも導入したり、軽快な英語での講話もあって欧米のヒッピーたちの人気を集めました。当時、ヒッピーたちも東洋思想に一種の憧れを抱いていた面も人気に拍車をかけました。

ラジニーシの周辺には、彼を慕う人たちのコミューン的な状況が生まれ、その状況のなかで、各種の瞑想的な技法、心身統合的セラピー、音楽をはじめとする多彩な芸術活動が営まれました。内容的には、東洋に伝わる古来の技法に基づくもの、禅、タオイズム、タントラ、スーフィーなどの流れをくむもの、西洋的なセラピーやヒーリングのアプローチに瞑想的な性格を加えたものなど、多彩を極めていました。

当時、邦訳本もだされ、「存在の詩」は自分も購入し読んだ事があります。日本人の信者も、この本をもってプーナ(当時はそう呼んだ)のアシュラムを訪れていました。
バグワン・ラジニーシ
(バグワン・ラジニーシ・存在の詩)
今、ウィキペディアを参考にしながら当時を振り返っています。ウィキペディアには書かれていない事項ですが、当時、ヒッピーたちの大きな関心を呼んでいた、音楽に合わせた瞑想的な踊り、そして、その延長線上にあったフリーセックスが、実はインドを旅するヒッピーも含めた若い旅人たちの大きな興味を誘っていたという事実があります。フリーセックスの話は噂に尾ひれが付き、一般社会からみれば、反道徳的な教えとして早晩、政府から迫害される運命にありました。

事実、1981年には根拠地をアメリカに移しました。しかしアメリカでも、なかなか受け入れてもらえず、幹部の裏切り、離反等もあり、急速に力を失っていきました。

インドからラジニーシが離れたことは、ヒッピームーブメントの終わりの始めを告げるものでした。

今、思うと、日本人信者が一番ラジニーシを理解し、熱心で、真摯な信者というか共鳴者だったんだなぁ、と回顧してます。

カラチの町はもう旅の終焉の通過点に過ぎませんでした。
79年の二月、カラチからPIAの旅客機に乗り帰国の途につきました。
機中でも、まだ旅の高揚感は抜けず、つるつる頭にインドのクルタという一種異様な井手達で席をしめ、スチュワーデス(当時はそう呼ばれた)も一歩引く感じでした。
PIA

やがて、日本に着き、入国管理の荷物検査を受けました。
風体が風体ですから念入りに調べられ、「そんな、どこ調べたって何もでないよ」と呟きながら、税関の係員を見ていた自分がいました。

と、同時に、自分の旅の記憶はそこでプツンと切れてました。

自分がどうやって自宅に帰ったのか、どんな思い、気持ちを抱いて家路に向かったのか、何も覚えていません。

きっと帰国した安堵感でただただ眠っていたのでしょう・・・。

私の「ユーラシア大陸一人行」は終わりました。


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