3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.10 チベットの小学校で歌おう 北インド編

確か35年程まえの旅なので写真はありません。というか、一応、撮りましたけど当時はアナログでモノクロ、しかもネパールの川で溺れネガが傷んだりしてお見せできるレベルでありません。ただ、実家に残っているかもしれませんので、あったらアップしますね
記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

年末ということで、実家に寄り昔の旅の写真とか探していたら、何と、34年前?のインド鉄道・三ヶ月間乗り放題の周遊券が出てきました。日付を見ると、78年/11月/10日、とあり、そのころインドを旅していたことがわかりました。旅立ったのが77、78年?と、あいまいだったのがこれで確定しました。1978年4月だったんですよ。あぁ、またブログの日付を訂正しなければ・・・。
インドレイルパス 
 (34年前のインド鉄道周遊パス)
と、すると、当時、78年4月にアフガニスタンで軍事革命が起こり社会主義政権が樹立。これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、翌年79年には旧ソ連軍が侵攻、アフガン紛争となり、これ以降1989年まで紛争が続きました(ウサーマ・ビン・ラーディンもこのときはアメリカの中央情報局(CIA)の援助と指導を受けていた)。そして、79年4月にはイランでパーレビ王制が倒れ、ホメイニ革命が成立、同年11月にはアメリカ大使館人質事件が発生。さらに80年9月にはイラン・イラク戦争が始まる、と地域紛争が激化する直前というか、アフガンではすでに紛争が始まっていたんですね!。当時、アフガンはソ連の傀儡政権で戒厳令も敷かれ、一週間の通貨ビザしかおりませんでした。でも、確かに首都・カブールでは戒厳令が敷かれていましたが、ヘラートも南部のカンダハールも静かで、とても紛争が起こっている風にはみえませんでした。79年のソ連介入以後、本格的な紛争になったんですかね?

当時のことをWikipediaで調べながら、もし、79年に旅立っていたら、どうなっていたことだろう?と改めて思いましたね。
それはともかくインドレイル・パスの日付を確認したことで当時のインドの旅の記憶が甦ってきました。インドで鉄道の周遊券を買ったこと自体を忘れていたんですからね。

インド北部地図
(旅のルート)
78年8月、パキスタンのラホール、ラワルピンジィを過ぎ、インドとのイミグレ(国境の出入国管理所)を通過、インド側のアムリッツワル(アムリスサル)に着きました。現在もそうだと思いますけど、このルートが唯一、インドとパキスタンを出入国できるゲートだったんですね。通過するときは緊張しました。
アムリッツワル(当時はそう呼んでました)は16世紀後半にシーク教の信徒によって建てられた街で、シーク教の総本山である黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)があることで知られます。自分も見学しましたが、果たして金閣寺とどっちがゴールド?などと眺めたものです。
アムリトサルの黄金寺院
(黄金寺院)
シーク教は他宗教にも寛容なので安心して参拝できましたね。シーク教はカーストや出家を否定し、世俗の職業に就いて、そのなかで信仰に励む教義を持っていて好感が持てますね。ただ、ヒンズー教とイスラム教に挟まれ軍事国家になっていったのは仕方がないというか残念ですね(シーク教国家はイギリスに負け解体された)。自分はアルコール類も付き合いでしか飲まないのでシーク教徒になれる?かもです^^。

インドというと、あの髭を伸ばしターバンを巻いた人たちをイメージしますが、実際にはシーク教徒の事なんですね。インドの人口からすれば少数派ですが、裕福で教育もあり、官吏や軍人、それから貿易などの商業にも従事し、少数派の割りに目立った存在ですね。インド国内を旅していてもシークの人たちは平均して背が高く体格がいいです。一般のインド人がトボけた表情なのに比べ、キリッとして堂々としています。軍人が多いのも頷けます。

ターバンですけど、頭からとると、日本のおサムライさんのように、ちょん髷が現れます。ちょっと面白かったですね。

インドはガンジス川平原部やデカン高原など中南部は鉄道が発達しているのでもっぱら鉄道で旅しました。ヒマラヤ地方は主にバスで移動しましたね。

インド北部の避暑地としても知られるカシミールの州都・スリナガルまで、ジャンムーを経由して、鉄道、そしてバスで山岳地帯の峠を越え、10時間?もバスに揺られ続けました。

ここカシミールは海抜1800メートルあり、夏場は温良な気候でインド平原の酷暑とはえらい違いです。
カシミール
(カシミール地方)
カシミールの語源は高級織物のカシミア(カシミヤ)からきていますが、カシミアはこの地域原産のカシミアヤギの毛から作られる、とのこと。

日本でいうと信州みたいな地域ですが広さが全然違います。背後にはカラコルム山脈、東部にはヒマラヤ山脈を控え、そのおかげで雨量の多い緑の高原が広がっています。田圃もたくさんみましたよ。

カシミールは1800年代中盤、イギリスの支配下におかれ、カシミール藩王国が成立しました。

ところが藩王国の王様はイスラム教徒、一般民衆はヒンズー教徒と、一種のねじれ現象が生じ、パキスタンとの国境紛争、また、中国との国境未確定と、政治的には不安定な地域です。

自分が行った1978年頃はひとまず国境紛争も小康状態で、スリナガル湖畔のダル湖にはインドから多くの富裕層や外国人が訪れ、ダル湖上に浮かぶハウスボートに泊まるのが避暑地の定番でした。スリナガルの街も大勢の人たちで賑わっていましたよ。

この地方は森林資源も豊かなことろでモスクや民家も木造家屋が意外と多かったですね。バルコニーや出窓には精緻な装飾が施され、旧市街をそぞろ歩くのも楽しいものでした。

それが、1990年代に入ると、独立・分離紛争が再び激化し、テロも続発、2006年には大規模な地震に見舞われるなど、とても政情不安定な地域になっています。観光客も激変しているとのこと。

自分が旅したころは、ホント、恵まれていたんだなぁとつくづく思います。

ここでは豊富な野菜や果実、お米、肉類、魚介類に恵まれ、何泊も泊まったハウスボートでは、まるで王様になった気分でしたね。お世話してくれたボートの女主人も、とても肌が白く、平原部のインド人とは異なっていました。今でも、インド映画の女優には、この地方の出身者が多いそうです。

郊外のムガール帝国時代の庭園や古い寺院を尋ねる道中、道路はどこへ行ってもポプラの並木道が続き、綺麗でしたねぇ・・・。またヒマラヤ偏西風の影響下、空と大地が攪拌された感じで、光り輝く穂波や青空、そして急変する雲の動き、その中で、三重もの虹が発生し、幻想的な光景に見とれた記憶があります。

ハウスボートから眺める夕焼けも美しかったです。ヒマラヤを背景にした夕焼けですから光も黄金色に近く、はるか先まで広がる夕映えに大地が染める様は今も忘れられません(夕焼けはインド西部のゴアと最南端のコモリン岬も美しかったですよ)。
ハウスボート
(ハウスボート)

筆者(スリナガル)
(ハウスボートで寛ぐ私、当時はこんな頭髪でした)
実は、そのヒマラヤ偏西風の影響で日本に梅雨をもたらし、もしヒマラヤ山脈の高さが半分だったら、日本は乾燥した国になっていた可能性がある、と言われています。

しばらく滞在した後、いよいよヒマラヤに囲まれた海抜3650mのチベット文化圏の中心都市・レーを目指して長距離バスに乗り込みました。このバスは夏の間だけ運行され、夏が過ぎると飛行機しか交通の手段がなくなるヒマラヤ高地の孤島みたいな所でした。
ラダックへの道
(ラダックの途中の景色)

途中、カルギルという町に一泊してのバス旅行でしたが、途中、氷河が迫る標高5360mもあるトンブラ峠など幾つもの高地の峠を越え、バスの車窓から眺める光景は、まるで地球の創世記を連想させる驚きの連続でした。大きく褶曲した幾層もの山の地表、そして真っ赤な岩肌の山、乾燥しきった褐色の山が入り混じり、見下ろすと、巨大な谷に硫黄の大きな塊が幾つもへばりついていました。スイスアルプスが箱庭のようにも思えましたね。

約、20時間かけて中国との国境(暫定)に近いラダック地方の中心地・レーに着きました。ここは人口1万人ほどの高原の町です。やはり空気が薄くかんじましたね。
下界とは違って、空気は澄み、遠くヒマラヤの万年雪を被った6000m級の無名峰が見渡せ、とても雄大で透明感のあるパノラマでしたね。町を取り囲むようにポプラの木や小麦畑が広がっていました。街は現在のように観光地化も、インドの影響もあまり受ず、古色を帯びたチベット様式の街並がこじんまりとかたまっていました。アフガンのヘラートにも似た素朴な美しさでしたね。町の背後にはチベットのポタラ宮をミニサイズにしたラダック王国の宮殿がそびえたっていました。一説にはポタラ宮の方がラダック宮を真似た、とも言われていますが、果たしてどうなんでしょう?

レー
(ラダックの中心地・レーの風景)

このラダック地方は、今、中国側のチベット地域が中国共産党に占拠されているため、純粋なチベット文化圏としては、ラダック地方が唯一の地帯なんですね。

つい、最近もチベットの少女が信仰の自由とチベット独立を訴え焼身自殺しましたが、とても痛ましいことです。いちにも早くチベットが開放されることを願います。

市内の安宿に泊まり、宿で知り合ったバックパッカーがなにをニヤニヤしているかと思ったら、何と、この海抜3500mの町にも赤線(売春宿)があったんですね。よう、こんな埃っぽく、高地でそんな気になれるなぁ、と半ばあきれ返りましたけど、後できくと、冷やかしで行ったとのこと、ヤレヤレです。

で、夜、夕飯を食べ、自分の部屋に戻ると急に腹が痛くなりもう下痢症状、、何度もトイレへ急行、便器を見ると、何と真っ白な便でした。後でわかったんですが高山病の症状の一つだったんですね。もう寝るしかないと思い、翌日、フラフラの状態で街に出ると、二人連れの日本人女性とばったり出会い、彼女たちに事の顛末を話すと、「じゃ、わたし達の宿へ移るといいわ、よくなるまで泊まっていたらいい」と言われ、そのお言葉に甘えることにしました。

その白い便も幾日かで収まり元気も少しづつ出てきました。彼女たちからは、雑炊風の食事とか作ってもらい、いろいろとお世話になりました。

彼女たちと寝るときは、川の字になって寝ましたけど、なぜか僕は真ん中。実は僕の右隣に好みの彼女が寝ていて、どうにも気になり、触ってみようかなと思い、手を動き出すと、反対側の彼女から咳払い?みたいな寝息が聞こえ、ヤバイと思い、さぁっと手を引っ込めました。すると右隣の彼女が心なしか寝息を荒げるので、また、その気になって、手をそっと添えようとすると、また左側の彼女がこちらに寝返りを打つ素振りをみせ、自分はあわてて手を引っ込めるなど、そんなことが深夜まで続き、「そう、自分は病人なんだよなぁ・・・」と、おとなしくすることにしました。

ほぼ回復して、
元気が出てくると街を散策したり、とあるときは、地元の小学校で学芸会?が開かれると聞いたので三人で見に行きました。で、校長先生から「日本の方?」と聞かれ「YES」と答えると、なんと日本の歌を歌ってくれといわれ、モジモジしていると二人から背中を押し出されてしまい、自分が歌うことになりました。
子供たちの前だから「日本の童謡を歌おう」と思い、「赤とんぼ」を歌ってみました。自分でいうのも何ですが、作曲して歌うなど、けっしてオンチな方じゃないと自負していましたが、緊張と高地の空気の薄さか、途中で、声が裏返ってしまい、子供たちはゲラゲラ笑うし、とんだ民間大使?でした。彼女たちも大笑いしてたので、「そんなに笑うなら、歌ってみろよ」、つい、言いたくなりましたね^^。

彼女たちとはジープを調達して近郊のゴンパを尋ねたり、レー王宮を見学しましたが、王宮の中は崩れていて進入禁止でした。今もそうですかね?
レーの町と王宮
(レーの町と王宮)

彼女たちは、さらに奥のゴンパまで泊まりで行くとのこと。元気だなぁ。一緒に行かない?、と誘われましたけど、また高山病がぶり返すといけないから、自分はスリナガルに戻るよ、と言うと、例の川の字になって寝たことを言い出し、「なんでおとなしくしていたのよ、私達待っていたのに」とクスクス笑い出し、「あぁ、すべてお見通しだっんだぁ」と、恥ずかしいやら、悔しいやら、惜しいやら、最後まで一本とられた気分でしたね^^。まぁ、そんなこともありましたけど、ちょっと後ろ髪引かれる思いでレーを後にしました。

後に、好みの方の彼女とはネパールのカトマンズの宿で再会し、「ラッキー」と喜びましたね。「今度は攻めるぞ!」と気合を入れたもんですよ^^。

帰りはインド軍の軍用車が何十台も続き、やっとのことでスリナガルに戻りました。

そして、ここで数日、旅の疲れを癒した後、
ヒマラヤを望むヒマチャルプラデシュ州を目指しました。

ヒマラヤを望むヒマチャルプラデシュ州では、英国植民地時代の避暑地・シムラを尋ねたり、それからチベット亡命政府のあるダラムサラを旅しました。
ダラムサラの町
(ダラムサラの町)
当時、自分たちのようなバックパッカーにもダライ・ラマ法王は謁見して頂ける、と聞いていたので、とくに日本人の旅人は会いに行きましたね。実際は忙しく留守がちな法王に謁見して頂ける機会はすくなく、なかには、ダラムサラにずっと滞在し、会う機会をまっていた日本人及び欧米人もいましたね。

ダラムサラには日本語の図書館や新聞もあり、また食事の方も日本人に合った、ウドンとソバのあいのこみたいな麺類があり、岩塩で味付けした麺は美味しかったですよ。

ダラムサラの次は、シムラ。
シムラはインドのヒマーチャル・プラデーシュ州の州都。

イギリス統治時代はインド帝国の「夏の首都」として、夏季には首都機能がコルカタから移転されていました。インド有数の避暑地で、地名の由来は、インド神話に登場するカーリー女神の化身の一つであるシヤーマーラー・デーヴィー、からきているそうです。
位置的にはヒマラヤ山脈の前峰にあり、標高はおよそ2000m。 世界遺産となっているカールカー=シムラー鉄道の終点でもあります。

シムラは英国の夏の首都だけあって、インドとは思えない、瀟洒な西欧風の街並みや家が多かったですね。
シムラから望むヒマラヤ
(シムラから望むヒマラヤ)
シムラを望む高台の公園があるのですが、ここには、とても裕福そうなインドの家族たちが訪れていました。その中を、現地のいかにも貧しい小間使いのインド人たちがチマチマと走り回っていましたが、その光景を観ていた自分は、お金持ちのインド人たちの視界に、かれら小間使いの人たちがまったく映ってない事に気づきました。はっきいうと人間を見る目ではなく、気づきもしない、そんな風にみえました。また小間使いの貧しい人たちも金持ちたちを見ようともしていませんでした。まるで住んでる世界が違うのと、お互いに、それを疑問にさえも抱かない風景のように見えました。これがカーストの一断面かなぁ・・・と思いました。

なぜ、インドに何千年も続くカースト制度が続いているのでしょうか?
差別は良くないことは当然でも、いまだにインドでは公にはカースト制度は廃止しても根強くのこっているのが現状です、ヒンズー教では下層カーストの人間でも行いが良ければ来世で高いカーストに生まれることができる、といわれています。そういった背景もあり、熱心に信仰しお参りすインド人が多いですね。それが裏からカーストを縛っている面があるかもしれません。

これは自分なりの考えですが、この固定された身分制度は、時々の統治者が社会と権力基盤を安定化させるための必要悪な秩序体制ではないかと思う面があります。もし、この血統や職業による秩序がなくなったら、それこそ、下克上じゃないですけど戦乱に明け暮れる社会が継続するかもしれません。

人間には諦念という観念があり、生まれたときから、自分の属する階層に生きていると、それが当たり前のことと思い、這い上がろうとする考えも意識もなく、そのカーストのなかで甘んじている面があると思います。もっというなら、カースト間では無関心が生きる術になっている。そして、それが消極的な秩序を維持している。

そんな考えを、シムラの街を行き来するお金持ちと貧しい層との間に感じました。

(最近は除々にカースト制度も崩れているそうですけど、比例してテロも増えている気がします。)

シムラを後にして、ヒマチャルプラデシュ州のさらに奥、独自の文化をもつクルー谷、その中心のマナリへ向かいました。

途中、ヒマラヤの山麓地帯をバスで走りましたが、9月頃はちょうど、モンスーンの時期ということもあって、谷間の川は濁流となっていました。また曲がりくねった道路を走るので対向車とすれ違うとき、一歩、間違えれば、もう、川床にまっしぐら、という感じでヒヤヒヤものでした。

ヒマラヤの山麓地帯はヒラヤマ杉や松が多く生え、時々5000m級の雪を被った無名峰が望めました。昔、ヒマチャルプラデシュ地域は小さな王国に別れ、今もその王宮とか残っています。しかも木造が多く屋根は平たい石で葺いていて、日本に似た親近感を覚えましたね。

広いクルー谷に出て、ホットし、目的地・マナリに着きました。
クルー谷では伝統的な帽子や民族衣装を着た人々に出会いました。男性も独自な帽子を被り、ガンジス平原部ともチベッタン(チベット族)とも違う独自な雰囲気がありました(これも現在は変わったかも)。どこの民俗系統に属するんだろう?と思いましたね。
マナリの風景
(マナリの風景)

このヒマチャルプラデシュ地域は谷筋ことに微妙に風俗が違う印象をもちました。

マナリは、海抜2000mほど、夏は温良な気候に恵まれ、やはりヒッピーたちがたむろしてました。
マナリには幾つかのトレッキングコースもあり、緑も多く、平凡な言葉ですがアルプスの高原のようでした。
ここには、オールド・マナリと言って旧市街(村)があり、ヒマラヤ杉と石葺屋根で造られた伝統的な木造家屋が残っていて、1階の石積みの厚い壁の上には、木造の2階部分が大きく張り出し、バルコニーを巡らした感じでしたね。もう現在ではトタン屋根に変わり、壁もコンクリートになっているかもしれません。

オールドマナリ
(オールドマナリの民家)
ここでは、ヒンズー教の創造神話に出てくるマヌ(ノアの箱舟みたいなもの)神を祀ったハディンバ寺院があり、珍しくも森のなかに鎮座していました。三重構造で日本の塔みたいな感じでしたね。

マナリの寺院
(ハディンバ寺院)
マナリからは本来、北方面のロータン峠を越え、ラダック地方のレーまで行けるのですが、当時は通行禁止になっていて、ロータン峠までしか行けませんでした。ロータン峠はチベット文化圏への入り口でもありました。
ロータン峠
(ロータン峠)

峠は海抜4000mもありますが、当時、峠まで行くバス(ジープだったかな?)があり、乗って行くことにしました。峠に着くと、ひとり、ポツンと降ろされ、バスは行ってしまいました。まるで取り残された気分でしたが、季節は9月、峠からレー方面を眺め、ゆっくりと下山してゆけばいいや、と思っていたら、何と、季節外れの雪が降り出し、見る間に積もってゆくじゃないですか。慌てましたね。誰もいない4000mの峠に一人だけなんですから。視界も殆ど見えず、もう、ここでお陀仏かと観念しかかったとき、偶然にも地元の羊飼いたちが使う避難小屋がありました。

さっそく小屋へ逃げ込み、ほっと一息つきました。
やがて羊飼いの人たちが入ってきました。
ありがたくも暖かいお茶やチャパティ(パン)ももらい、やっと生きた心地がしましたね。

小屋には子羊たちが入れられました。親羊たちは外の寒いなかで我慢している風でした。

夜になると、シーンと深い闇のなかで、子羊たちと、親羊たちが交互に鳴きあい、まるで励ましあっているようにも聞こえました。
羊たちの親子の情を垣間見た思いで、人間も動物も変わらないんだなぁ・・・と感慨深いものがありました。

翌朝はきれいに晴れてました。昨日の大雪が嘘のようです。
羊たちが踏み固めた道を後ろから追い無事に下山することが出来ました。助けてくれた羊飼いのおっちゃんたちには本当に頭の下がる思いでした。
ロータン峠から見るパノラマ
(ロータン峠から見るパノラマ)
途中の道には小高い丘の上に剣をささげた見張り役?みたいな人が点々といました。何する人たちでしょう?。山賊にも見えなかったし、中世の武士を見たような錯覚を覚えました。今でも、思い返すと、あれはなんだったんだろう、と首をひねるばかりです。幻想だったのかな・・・

下山して、翌日になると猛烈な目の痛みに襲われました。雪目でした。地元のお医者さんに診てもらい、そこには温泉もあって、しばらく湯治することにしました。顔もケロイド状に皮膚がただれ、ひたすら温泉で養生してましたね。

幸い、一週間ほどで目もよくなり、顔の皮膚も新しい皮膚に剥がれ代わり、ツルツルッのお肌になりました^^。

そんなことも体験したマナリを後にして、ガンジス平原の首都デリーへ、そしてネパールへと向かいました。


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コメント

団体旅行もいいもんだ 

takaさま、
お返事遅くなって申し訳ありません。

今、羅城門の3Dを作っています。朱雀大路も一部作って、羅城門との対比、遠近でどう観えるか、など1/1の原寸で比較してみたいです。

さて、

「元々ヒンドゥーとイスラムの融合と言われていましたが、やっぱり礼拝は一日三回と決められていたのでしょうか? 」

答え:どうなんでしょう?シーク教徒が三回礼拝していることじたい知りませんでした。

「質問、レーの街とかあの辺はヒンディー語ではなくチベット語とかが多かったのでしょうか? それからヒンドゥー教徒との争いとかは無かったのでしょうか?」

答え:34年前でもヒンズー教徒のインド人がレーに30%ほどはいたと思います。今ならもっと多いかと思います。争いは聞いたことありませんね。

多神教はあまり争いはないですよね。

団体旅行ですけど、
地元のガイドさんや添乗員が行く先々で細かく説明してくれるので、短時間でその国の知識が豊富になります。

一人旅は、いろいろ経験はするけど、意外と知識の方はあまりたまりません。

旅人同士の情報は旅に特化した知識になりがちでしたね。

それでは、また。


  • 梅のコージ 
  • URL 
  • 2013年01月09日 20時50分 
  • [編集]
  • [返信]

明けましておめでとうございます 

国家安寧、そして梅のコージ様のご健勝とご多幸をお祈りいたします。

本年もどうぞよろしくお願いします。
  • taka 
  • URL 
  • 2013年01月01日 09時18分 
  • [編集]
  • [返信]

明けましておめでとうございます 

taka様

改めまして 謹賀新年

今年もよろしくお願いします。

本年もお互いに良き年でありますように。
  • 梅のコージ 
  • URL 
  • 2013年01月01日 00時23分 
  • [編集]
  • [返信]

 

本年も途中からですがお世話になりました。

来年も今年同様よろしくお願いします。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月31日 13時55分 
  • [編集]
  • [返信]

 

面白く読ませてもらいました。

シク教の総本山を見たのも羨ましいですが、カシミール地方も行けたという記事を見て「いいなぁ~」なんて思ったりします。

シク教と言えばランジート・シンとインドのシン首相にタイガージェットシンが思い浮かべます。元々ヒンドゥーとイスラムの融合と言われていましたが、やっぱり礼拝は一日三回と決められていたのでしょうか?

それと地図の下の地名、アムリスサルでは無くアムリトサルです。

カシミールって地図で見ると北の方に位置していて高地なので「ゴツゴツした地域」というイメージがありましたが、緑豊かで印・パ・中が争うのも最もだと改めて認識しました。

質問、レーの街とかあの辺はヒンディー語ではなくチベット語とかが多かったのでしょうか? それからヒンドゥー教徒との争いとかは無かったのでしょうか? 助けてくれた彼女と良い仲になれなかったのは残念ですねw ネパールの顛末も楽しみにしています。

ダライ・ラマ法王猊下はフレンドリーな印象を持ちましたが、やはりそれも中共という野蛮な連中に国土を奪われたご苦労から形成された人格だと思います。

インドの特殊性はやはりカースト制度ですね。確かに仰るようにある程度の秩序性は保てるという良さがありますが、反面人材の無駄遣いという負の面もありますね。差別や階級というのは素晴らしい物です。学校や学生でもその身分によって階級がありましたね。昔は学生というのは尊敬の念を込めた身分だったと聞きましたし、軍隊では実務の能力があるものが上になる。そういう差別や階級は大いに結構で奨励するべきです。

ですが血筋の差別というのは、個の能力を阻害する日本の悪平等に匹敵する悪以外なにものでも無いですね。恐らく梅のコージさんが見たのは、バラモン・クシャトリアとアチュートの事だと思いますが、アチュートの子供でも非常に賢い子供が居ましたから、国を発展させるには思い切った政策が必要だと感じました。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月30日 14時19分 
  • [編集]
  • [返信]

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