3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.8 少女の祈り パキスタン編

確か35年程まえの旅なので写真はありません。というか、一応、撮りましたけど当時はアナログでモノクロ、しかもネパールの川で溺れネガが傷んだりしてお見せできるレベルでありません。ただ、実家に残っているかもしれませんので、あったらアップしますね
記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

35年前に旅した頃は、すでに幾度か書いておりますけど、ホントに幸いと言ったら失礼だと思いますが、西南アジア地域での今日にみるような内戦、戦争、テロリストの横行もなく、日本も経済大国として認められ、アメリカもベトナム戦争が終結し、ひとときの均衡状態が保たれました。もちろん、インドとパキスタンの緊張状態やイスラエルと中東との戦争とかありましたが、自分達バックパッカーにとっては、遠い出来事のように思われ自由な旅を謳歌していました。60年代、アメリカに始まるヒップーたちのムーブメントも80年代初頭には終わりました。77年頃旅した頃はヒッピー達の最後のあだ花でした。

翌年、旧ソ連のアフガンへの侵攻から、今日まで西南アジアは治安の悪化が続き、バックパッカーたちはインドからやネパールから、東南アジアへと旅の範囲をシフトしています。

しかし、そのインドも、ネパールも、インドネシアも分離独立を求める勢力や一部過激テロリストにより年々治安が悪化し、一人旅もしずらくなりつつあるのが状況です。

35年前の状況から、どうしてこうなったのか、このvol.8のパキスタン編で自分なりに考えながら書いてみたいと思います。

2012年10月の9日の出来事ですが、パキスタン北西部のスワート渓谷で、武装勢力をブログで批判していた14歳の少女・マララ・ユスフザイさんが銃撃され、重傷を負った事件がありました。。少女は、女子教育の必要性などを訴える「活動家」として知られ、武装勢力の支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状を英BBC放送のウルドゥー語のブログにペンネームで告発を続けていました。とても勇気のある行為に世界中の人たちが衝撃を受けました。
マララ・ユスフザイ 
(マララ・ユスフザイさん)
2009年からパキスタン政府軍とパキスタンのタリバン(アフガンのタリバンとは別)との間で大規模な掃討作戦が繰り広げられました。この戦闘で、約200万人の難民がスワート地方から逃れたといいます。今も難民キャンプの状況は悲惨なものだと伝えられています。

このスワート渓谷に35年前旅しました。
アフガニスタンのカブールからカイバル峠を下り、ペシャワールで情報収集。
当時はパキスタン随一の避暑地として内外の人気があったスワート渓谷を旅し、ムガール帝国の遺産が多く残るラホールを経由してインドへ入りました。

ですから、パキスタンはスワート渓谷を中心に旅した訳です。
パキスタン北部地図


本当はスワートからさらに奥のカラコルム山脈に囲まれたフンザ(今も桃源郷といわれる景勝地)へも行きたかったのですが、当時はまだカラコルム・ハイウエーが開通しておらず、唯一、旅客機でスカルドというとこまで飛び、後は、陸路、フンザまで行くというルートでしたが、ちょうど夏の雨季のころで、飛ばない日が多く諦めました。

今、パキスタン北部で闘争が行なわれている地域は、トライバルエリア(連邦直轄部族地域)といわれ、中心地のペシャワールを除いて、パキスタン政府の統治が及ばない自治区域です。
スワート地方はその隣に位置し、今、タリバンの勢力化になっています。

この地域とアフガンのカブールまで国境を跨ぐ感じでパシュトー族が暮らしています。

35年前のことですが、当時の印象としても、西部・ヘラート州(スンナ派またはシーア派のペルシア語系タジク人中心)の住民の方が穏やかで、パシュトー族の多いカブールやパキスタン北部のひとたちの方が荒々しい感じで怖い印象を持ちましたね。タリバンもパシュトー族が中心ですね。

ペシャワールはペルシャ語で「高地の砦」と呼び、今でも崩れかけた城塞が街の中心にあります。
ペシャワールの印象は、髭面の男ばかりで、しかも街で女性を見かけることも少なく、同じイスラムでもかなり戒律が厳しい感じがしました。男が着る民族衣装もクルタといって、白一色のロングコートの巻き上げたズボンのスタイルで、白一色しかみなかったですね。
ペシャワール 

服装はシンプルですけど、
トラックなどはデコトラと言って過剰なまでの装飾が特徴で今も変わらないみたいですね。
パキスタンのデコトラ 
(今も走るデコトラ)

ペシャワールは昔、クシャーナ朝・カニシカ王(西暦120年ごろ)よって仏教の中心地として栄え、その仏教文化は後にガンダーラ美術として有名になりました。
35年前も街のバザールにはガンダーラの古美術を売り店がたくさんありましたが、ちょうど、現地で知り合った京大の講師だった人に言わせると、ほとんどが偽物だそうです。
このあたりツアーで来られる方はクレグレも気をつけて下さいよ。

ペシャワールを出て、スワート渓谷で行ったんですが、今回、今の困難なスワートの状況を知ると、正直、書くのが気に引けますが、自分にとって、パキスタンの旅=スワートなので書くことにしました。

地図のルートを確認して頂きながら進めますね。

スワートの中心都市・ミンゴラに近づくと、道路からも見えるシャンカルダール・ストゥーパがあります。ガンダーラの仏教遺跡で、直径13メートルもあり、3~4世紀に創建されたと伝わります。当時は、燦然と黄金に輝いていたそうです。
シャンカルダール・ストゥーパ 
(シャンカルダール・ストゥーパ)

ミンゴラは乾燥地帯の多いパキスタンにあって、スワート川沿いの広い谷は緑が豊かで、古くは「ウディヤーナ(庭園)」と呼ばれ、また、「ガンダーラの奥の院」と称されることもありました。
ミンゴラ 
(スワートの中心都市・ミンゴラ)


このあたりの地域はかってガンダーラと呼ばれ、南にラホールを経由してインド世界に、西はカイバル峠を通りカブールを経由して中央アジアにつながっていた古代のシルクロードの一部であり,北はパミールやヒマラヤを越えて中国西域,西チベットともつながっていました。また南西に向かうとイランを経由してバグダッドとも結ばれていた。

この東西交易の交差点に位置するパキスタン北部は人や物が移動しただけではなく,東西の文化が交錯したところであり、BC6世紀にインドで生まれた仏教はBC2世紀にはこの地域に伝わり,この道を通って中央アジアや中国世界に伝わっていきました。

BC325年にはアレクサンダー大王がカイバル峠を越えてこの地に侵入してきており,ギリシャ文化がもたらされ、それに仏教文化が融合し独自のガンダーラ美術が生まれました。スワートからさらに奥のチトラル地方には今もアレクサンダー大王の子孫といわれる部族が暮らしています。
確かに写真とか見ると、金髪碧眼の大人や子供がいて、日本の平家落人部落より信憑性がありかも?です。

なんか解説調でつまらないですかね?

実は自分にとってもパキスタンはあまりエピソードにも恵まれず、スワート渓谷の上流の町も雨季のせいか、毎日、雨や曇りに見舞われ、期待していたヒンズークシの雄大な景色もほとんど見えませんでした。カラコルム山脈とかチベット高原地帯なら毎日晴天かもしれませんが、スワート地域は10月ころがいいですね。

ミンゴラは戦後まで藩王国だったところで、その関係資料やガンダーラ美術関係の展示物が多い博物館を尋ねたりしました。

ここから、さらに北上します。途中、見かける民家、雨量が多く緑も多い地域の割りの屋根が平な「陸屋根」が多く、それでいいのかな?とか思ったりしましたね。

そして、当時、ヒッピーたちのバカンス村?と化していたマディヤンの街に着きホテルにとまりました。
マディヤン 
(当時、ヒッピーたちの避暑地になっていたマディヤン)

ここは風光明媚なところから、ヒッピー用のホテルも幾つかありました。
結構、長期に滞在するヒッピーもいて、マリファナとか吸い合っていました。

当時、パキスタン人で避暑にきたのは一部の金持ちだけで、ヒッピーたちは上得意でした。

ここで例のテヘランまでエスコートしたアメリカの彼女もアメリカグループのなかでへべれけラリッてました。ラリるというのは幻覚剤に酔うことです。久し振り!、この前はありがとう!と言ってくれましたけど、自分を覚えていてくれただけでも嬉しく思いました。ただし、勧められたハッシッシはノーサンキュウと断りました。幻覚剤系は一度だけネパールのカトマンズで「マジックマッシュルーム」を吸うというか食べたことがありましたけど、もうちょっとで病院に運ばれそうになったので、もう、コリゴリですね。

とにかく、この谷間(といっても、結構広いけど)では天候不順な日が多く、寒かったせいもあって、もう早く暖かいインドの大平原へ行きたいと思いましたね。

ちなみに、ヒッピー(元々、語源はアメリカでヒップ・尻のように汚い奴ら)たちには、三大聖地というのが当時あって、アフガニスタンのカブール(今では信じられが)、インドのゴア、ネパールのカトマンズの三ヶ所がそうでした。カブールではマリファナ(当時はハッシシと言われてた)、カトマンズではマジックマッシュルーム(幻覚キノコ)、ゴアではLSDが多かったような気がします。もっぱら長期滞在の欧米ヒッピーに多く、日本人のバックパッカーたちは興味本位に吸うひとはいても、欧米のヒッピーのように常用する人は比較的少なかったと思います。ゴアでは常用し過ぎで、廃人のようになった欧米人を何人もみました。というか自分(私)の部屋へ突然入ってきて錯乱状態になり、襲い掛かってきた人もいる。

当時の経験から、これらドラッグ、幻覚剤の常用は絶対よくないと思います。最近、アメリカ・ワシントン州で大麻の合法化がされたことは信じられません。

さて、マディヤンが欧米のヒッピーたちに占拠されているのがいやになって(半分)、さらに奥の町・カラムに行ってみました。ひょっとして美しい山々を望めるかと期待していったのですが、ここもダメ。晴れてない避暑地なんて寒いのと、何にもなくてイヤになりますね。
カラム 
(マディヤンからさらに30キロほど北上したカラムの街)

しょうがないから、近くの古ぼけた昔の城(地元の首長の城?)など視に行きました。
こちらの建物は、壁がちょっと変わっていて、日本だと柱があって壁は土壁に漆喰や縦に杉板を張るといった感じですけど、ここは(というか、インドのヒマチャルプデシュなど雨量の多いヒマラヤ南部地帯)柱などなく、スライスした板を横にして縦状に重ねていく(間には石など詰める)手法で、これだと、すごく木材が必要になります。いくら雨量が多くても、これじゃ、木材の使いすぎだと思いましたね。
カラム城 
(カラムにある城というか砦?)

また、スワート渓谷はエメラルドの山地としても有名だそうです。でも、自分には川原で見つけようなどとは一度も思いませんでしたけど。
スワットのエメラルド 
(スワートはエメラルドの山地で知られる)


せっかくだから、晴れてたら、こんな景色が見られるだよ、という写真を二枚ほど。
カラム近くの山
(晴れてればカラムの丘から、こんな絶景がみえるんですが・・・)

と、
スワートのマヒュー湖
(これも、晴れてればカラムから行けたんですけど・・・)

結局、晴天には恵まれず、スワート渓谷を後にしました。後はひたすらラホール目指してバスに揺られるだけです。

今はわかりませんが、当時、ペシャワールからイスラマバード、ラホール、そして南部の交通の要衝・カラチなどにかけての幹線道路沿いは外国人でも比較的旅しやすかったですが、それ以外の地方都市は正直言って、とても閉鎖的というか外国人を寄せ付けない雰囲気がありました。あの全世界何処にでもあるという中華料理の店さえも見当たらなく食にも困りました。まだ、今のように「パキスタン料理」という定型化されたメニューもありませんでした。とのかく、もう完全なイスラム社会で、食べるものから、着る物から、趣味、娯楽、言語も含めて、外国人にはなじめないまったく異文化の世界にも見えました。目つきも鋭いですからね。髭男ばかりですし。で、ホモは多い?。

ラホールの観光したらすぐインドに入ろうと思いましたね。

ラホールでは有名なムガール帝国の城、
ラホール城のアーラムギーリ 

それから、これも有名なバードシャーヒー・モスクで、
バードシャーヒー・モスク

ここでは、ちょっとアッラーのお祈りの真似をしたら、男たちに取り囲まれ、イミテーションはやめろ!とえらい剣幕で怒ってきて、ホウホウの呈でモスクを出て行きました。

パキスタンは親日といいますけど、どうも怒りやすく、お金にうるさい気がしましたね。日本にくるパキスタン人の所業とかみてると余計そう思いますね。やはり、当時のヘラートのおじさんたちが懐かしいですね。

まぁ、そんなことを考えながら、インドへの唯一の窓口・ラワルピンジィーを目指しました。

おっと、大事なこと書くの忘れてました。

前、見たかった、ラホール博物館の「苦行するブッダ」みましたよ。

ブッダの苦行は悟りへの道ではないと悟る、その前の人間としてのブッダが苦しむ姿が迫力をもって迫ってきましたね。
苦行するブッダ



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コメント

コメント 

taka様 
コメントありがとうございます。

自分の旅したころの事をネットで調べると、ホント、後、一年遅れていたら、アフガンも行けなかったかも、二年遅れていたらイランも行けなかったかもしれない・・・そんな直前の時期に行けたんだなぁ、と、今更ながら感慨に耽っています。

ヘラートは、ホントに、オアシス都市はこんな町の事を言うんだなぁ、思いました。今も懐かしく、現在の状況をみると怒りがこみ上げてきます。

30年以上も前だと、指で学生時代まで数えて、未だに77年?、78年?と首をひねってしまう程ですが、あのような事件が発生したことで、逆に自分が旅した年次がわかるというのは皮肉なものです。

それと自分は今、56歳になりますけど、ネットの世界で多少なりとも若くなりたい?、と、乙男みたいな気持ちになってしまい、今、とても恥じているところです。

多少なりとも、自分の中に残っている良心のカケラが疼いているところ、takeさんからコメントいただけたこと、うれしく思います。もっと正直な自分になろうと反省してます。

さて、ご質問の件ですが、

「ペシャワールは戒律が厳しそうな感じで書いていますが、やはり偽者の仏教遺物とか販売できる程の寛容さは当時は持ち合わせていたような印象を見受けたのですがそういう感じだったのでしょうか? 」

答:商人はどこもそんなものですよ。バザールなどそれを楽しんでいる風情がありましたから。

「アレクサンドロス大王の遠征の子孫というのは信憑性がありますが、もともと金髪碧眼というのはギリシア人(アテネ市民やスパルタ市民)は少ないのです。ですから、どこでアングロ・サクソンが混ざったのか? そこの所でも興味がわきますね。ちなみに一般研究でもナチスの研究でも実証されていますがアーリア人というのは元々はインド源流で、パシュトー人もアーリア人の源流の一種です。」

答:インドでも北部のカシミール地方は肌も白いですよ。あちらの人は赤毛の人もいるし、元々、アーリア人の遺伝子に 金髪碧眼があったかもしれません。それとアレキサンダー大王はマケドニア出身ですし、北方からの兵士の招集もあったかもしれません。

「三大聖地にゴアが入っているとは驚きました。質問ですが、欧米系のヒッピー達というのは現地に永住して子供を設けて住み着くという事もあったのでしょうか?」

答:それは無いと思います。ヒッピーといえどもインド人に対する偏見、蔑視はありましたから。日本の終戦時のGHQみたいに、やり逃げ(下品ですみません)はあったと思います。また、あちらの女性は男性に対して結婚以外は受け入れない強い気風があります。と。いうか、そうしたら親に殺されてしまいます。バルパライソは自由で、実際に永住した日本人はいたということです。
ゴアはポルガトルの植民地でしたし、インドの海岸部は意外とキリスト教徒が多いんです。魚といえども殺生する民はカースト外だったからです。

  • 梅のコージ 
  • URL 
  • 2012年12月27日 23時49分 
  • [編集]
  • [返信]

 

まいど楽しく読ませていただいております。

あの当時は今ではとても行けそうにも無い所に行けたという事で、本当に羨ましくおもいますね。

ペシャワールは戒律が厳しそうな感じで書いていますが、やはり偽者の仏教遺物とか販売できる程の寛容さは当時は持ち合わせていたような印象を見受けたのですがそういう感じだったのでしょうか?

アレクサンドロス大王の遠征の子孫というのは信憑性がありますが、もともと金髪碧眼というのはギリシア人(アテネ市民やスパルタ市民)は少ないのです。ですから、どこでアングロ・サクソンが混ざったのか? そこの所でも興味がわきますね。ちなみに一般研究でもナチスの研究でも実証されていますがアーリア人というのは元々はインド源流で、パシュトー人もアーリア人の源流の一種です。

ミンゴラといえばこの間も自爆テロがありましたが、あの頃は自由に行けたのですね~ やはり夏場というのは虫も多いですし、雨季に行くというのはあの地域では最悪の選択だったかもしれませんね。

三大聖地にゴアが入っているとは驚きました。質問ですが、欧米系のヒッピー達というのは現地に永住して子供を設けて住み着くという事もあったのでしょうか? そこの所はすごく興味があります。ちなみにゴアで驚いたというのは、『ボーンシリーズ』という映画がありまして私的には一番好きなスパイ映画ですが、CIAの殺し屋ジェイソン・ボーンが愛する女性と身を隠した先がゴアという設定だったので。映画の設定としては、欧米人でも割りと考え付く地名だったのかな? と思いました。

苦行する仏陀、迫力のある芸術的な仏像ですね。東南アジア諸国、中共、朝鮮、日本国にある綺麗な(というよりは綺麗事と言うべきでしょうか?)仏像とはやはり趣きが違いますね。

本来パキスタンはパンジャーブ人が主流ですから穏健なはずなんですが、やはり馬鹿なイスラム教徒の影響が精神的に大きな影響を及ぼしているのですね。本来イスラム教というのは世界でも1・2を争う素晴しい宗教のはずなんですよね。死肉をあさったりする酷い価値観を変えさせ、女性は顔では無く才能であるという考えを持ち、正統派カリフの時代にはバクダッドにギリシア・ローマ哲学の本や彫刻等もある程異文化に寛容だったそうです。

今のイスラム教徒は、昔の魔女裁判等をやっていたキリスト教徒の狂気に近いと言えるでしょうね。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月27日 15時14分 
  • [編集]
  • [返信]

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