3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.7 砂漠は風向きしだい イラン・アフガン編 

確か35年程まえの旅なので写真はありません。というか、一応、撮りましたけど当時はアナログでモノクロ、しかもネパールの川で溺れネガが傷んだりしてお見せできるレベルでありません。ただ、実家に残っているかもしれませんので、あったらアップしますね。

記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

35年前、ユーラシアを旅しころは、インターネットもパソコンも携帯もありませんでした。ましてや最近のブログ掲載前提のような環境もありませんでした。
いわゆるアナログの旅の世界でした。現地の新聞を見てもチンプンカンプン、もっぱら旅仲間や現地の英語がわかる人や宿の主人から情報を得てました。

当時、自分も「バカチョンカメラ(と、当時はよんでいた)」ぐらいは持っていて写真も撮りました。カメラもアナログですから今のように何百枚も撮ることはできませんでした。
自分の場合、ネパールの山中で川に溺れたとき、カメラはパー、ネガ・フィルムも一部水に濡れ、日本に帰って現像してみたら半焼きみたいな画像が多かったです。今、お見せできる写真も幾枚かは実家にあると思いますけど、やっぱり、恥ずかしいですね。アナログのボケたような写真ですから。それに自分も現地の民俗衣装を着て、首からは数珠?をぶら下げ、髪は後ろで束ねていましたから(旅の後半でヒッピーでも、ヨガの行者姿でもありません。強いていうならマハラジャの親戚?)。当時の一人旅の若者たちには、それなりにポリシーがあって、写真を撮るなど、一般観光客のすることだ、などと、変に気張ってました。

それから川に浸かったカメラは、いくら現地(インド)の人に「もう川に浸かって使い物にならないよ」と言っても、「それでも良いから売ってくれ」というので、売りましたけど、買ったときの値段(2万ほど)よりも高く売れました^^。現地の人にすれば、メイド・イン・ジャパンのカメラを持っているだけで自慢できたんですね。自分の使い古しのランニングの下着でさえも売ってくれと言いましたから。さすがに売らずにあげましたけど。

当時は現在のように物の流通環境も良くはありませんでした。ですから、なおさら、アジア地域では手に入らず、経済大国日本の物品は高嶺の花でした。
イラン・アフガン地図 

さて、vol.6で米国人の女性をエスコートする形でテヘランまで辿りつきました。テヘランは正直、革命前夜で街の市民たちの表情もなんか暗い感じというか陰鬱な気配が漂ってました。店など入ると、一応、パーレビ国王の肖像画が掲げてありましたが、埃を被っていて、手入れなどしていない風でした。いろんな意味で、街には緊張感が漂ってましたね。イラクとも特にホメイニ師が帰国後、険悪な関係になっていったんでしょうね。革命前夜とは、あんな感じなだなぁ、と気がついたのは日本に帰国してからでした。
GoogleEarthのテヘラン 
(当時はこんなに現代的ではありませんでした)
イランの人々の貌は何ともいえない表情を浮かべていましたね。確かにホメイニ革命の前夜で街の空気が張り詰めていた関係だとは思いますが、みんな、あまり喜怒哀楽を表情に出す感じではありませんでした。

当時、アメリカの影響を受けたパーレビ王制は、一方でアメリカの消費文化に慣れ親しんだ階層、もしくは若者も結構いました。お隣のトルコのようなイスラムと政治を切り離した国もありましたからね。昔から言われることですが、声の大きい人、集団が時代のキャスティングボードを握り、しまには独裁、全体主義を招くことは歴史が証明してますよね。

たまたま、イランで知り合った、アメリカからの留学帰りの若者がいましたが、自分がつい、「やっぱり、世界で一番、力を持っているのは、アメリカだね」と言ったら、突然、怒りだし行ってしまいました。

今もそうかもしれませが、イラン人に共通した感情は「アメリカ憎し」でした。じゃあ、その若者のように、なんで憎いアメリカへ留学するんだよ?、と思いましたけど、口には言えない面があったんでしょうね。ちょうど、韓国の人が「日本が好き」と表向きには言えないタブーと同じものを感じました。

話は変わりますが、イラン、特に女性は美しい人が多かった印象を持ちます。乾燥地帯で寒暖の差が厳しい国なのに、肌は白く、小顔で端正な顔立ち、そして神秘的な瞳、まさにペルシャ美人の雰囲気でした。他のアラブ系やトルコなどの女性がどちらかと言うと、ゴツい感じなのに、ホント、対照的でした(アフガニスタンはブルカを被っていてわかりません、ただ骨格はガッチリ系かも)。

イラン人女性
(ペルシャ美人)

端正な顔立ちと神秘的な瞳は、欧米の女性より美しく感じましたね。
こんなイスラムの厳格な国にも実は赤線(売春街)があったんですよ。こういった性質の話は旅仲間の間で直ぐ伝わるから笑えます。もちろん自分は行きませんし、それどころではありませんでした。いかに早くテヘランを去ろうか、そればかり考えていましたからね。

テヘランの町は観光するような所もなく近代的なビルが立ち並んでいました。道路は広く、その割に信号はなく、渡るのにとても怖い思いをしました。他の国、特に発展途上国では共通した事かもしれませが、テヘランは特別でした、ひたすら、「こんなところで死んでたまるか!」でしたね。

そうそう、テヘランまで同行した彼女は、アメリカ人のグループに合流し、自分の役目は終わりました。

もっとも、後にパキスタンで彼女には再会し、「いやぁ、懐かしいねぇ」と旧交を温めましたけど、考えてみれば、たった一ヶ月間ほどしか経っていません。旅の魔法にかかったんでしょうね。


旅仲間とも相談したんですけど、パキスタンへ行くには、アフガニスタンを横断してゆく通常のルートと、イラン南部へ下りアフガンを経由せず直接パキ(当時はそう呼んでました)に行くルートと二つありました。

自分は迷いました。イラン中南部の有名な観光都市・イスファハーンやペルシャ帝国の夢の跡・ペルセポリスもぜひ行ってみたい所と思いましたが、一方で、アフガンは中世の面影を残し、まるで日本の室町時代にタイムスリップしたような国だ、と聞いていましたから、そっちの方に惹かれ、結局、エルブールス山脈を越えてカスピ海沿いにアフガンへ行くルートをを選びました。後にパキスタンで再会した旅仲間に南ルートはどうだった?と聞くと、季節はずれの大雨に襲われ、乗っていたバスも、もう少しで流されるところだった、と命かながらの体験談を話してくれ、「あぁ、北ルートを選んで良かったなぁ」と思いましたよ。

当時は、地域紛争も治まっていて、アルカイダのような大きなテロリスト集団もいませんでした。ホント、陸路、自由に旅できる最後の頃でした。ですから、旅ものんびりした面もありました。もちろん、紛争地帯へ行けば、流れ弾に当たることもあったかもしれませんが、当時、そんなことも考えずに旅できた、いい時代でした。日本においては安定成長、アジア地域でのひとときの安定、当時、ソ連も中国も国を閉ざしていましたから、この陸路、西南アジアを行くのが唯一のルートでした。

数年前、イラクで香田さんという若者がテロリストに殺害され、一部のマスコミや市民から「なぜ、あんな危険地帯へ行ったのか?自己責任だ」と非難する声が上がりましたが、自分は、まるで若者たちの一人旅自体を全否定しかねない言動に危惧を覚えました。事なかれ主義が社会の様々な規制を生んでゆく現代は、ある意味でつまらない社会ですね。

テヘランを早々にバスで抜け、アルボルズ山脈(当時はエルブールズ山脈といってました)の急峻な坂道を上り始めました。終点のカスピ海側のマーザンダラーン州の州都・サーリーまで7時間ほどの旅です。

道路沿いは潅木も生えないほどの乾燥地帯で、それだけに白くまばゆい最高峰のダマーヴァンド山(標高5610m)を視たときは感動しましたね。後ろ髪を引かれていたイスファハーンやペルセポリスへの思いも少し癒されましたね。
ダマーヴァンド山
(ダマーヴァンド山)

分水嶺の峠を下り始めると、除々に緑が増えだし始めます。山麓に下りるころには棚田さえ現われました。緑の谷の所々には無名だけど小さな集落が静かに佇んでいて、バスを降りて尋ねてみたい気分になりました。でも、後で知ったんですが、この谷、11世紀には、イスラム教・シーア派の分派イスマーイール派(特にその一派ニザール派)による暗殺教団(俗にいうアサシン)の根拠地で谷々に城砦が築かれていた、という歴史を秘めており、行かないで良かった、と、ちょっと思いましたね(その事実はどうも俗説らしいです)。
マザーラーンダの山村
(マザーラーンダの山村)

山を下ると、そこには緑の田園地帯が広がっていました。日本のように田んぼが連なり、民家の屋根はイラン高原部のような陸屋根ではなく切妻なのも、どこか日本を感じさせる雰囲気がありました。
ここカスピ海側の平野はイランでも珍しい雨量の多い穀倉地帯なんですね。
カスピ海側の田植え
(カスピ海側の田植え風景)
カスピ海側の田と山
(カスピ海側からエルブールズ山脈)
イランで食べたインディカ米のチャーハンがとても美味しかったのを覚えています。

州都のサーリーに着くと、多くの物売りと宿の客引きが待ち構えていました。両手を合わせ頭を傾ければ、それだけで宿に案内してくれました。宿泊客の争奪戦はありましたけど。
サーリー
(サーリーの町、当時はこんなに現代的ではありませんでした)
トルコからインド国内まで、旅仲間から教えてくれたルート沿いのバス、鉄道の駅や終発着地には必ず宿の客引き、食堂があり、食べて寝る分には少しも困りませんでした。しかも運賃や宿代も安く、もう思いだせない程の値段だったと思います。食事付きで500円もしたかどうかぐらい(イランは少し高かった)。後に泊まったネパールのヒマラヤの民宿など100円以下でした。

運賃も安く丸一日走っても1000円以下でした。イスタンブールからインドまで陸路で3万円ほどでいけた記憶があります。

自分からみれば、ヨーロッパの方が治安は別にして、よっぽどか気苦労が多い旅でした。フランス、イタリア、スペインなど英語がほとんど通じませんでした(今は知りません)し、ドイツや北欧は物価が高く落ち着いて旅ができない地域でした。とにかく、すべて自分でお膳立てしなければなりませんでした。ただ、ドイツ人の話す英語はゆっくりで発音も明確でとても解りやすかったですね。

カスピ海沿いの歴史を遡ってみますと、イランのカスピ海沿いから黒海にかけての広大な地域に7世紀ごろ、遊牧と交易の民、ハザール人による「ハザール王国」が勃興し栄えました。
9世紀始めには、国毎ユダヤ教に改宗してユダヤ国家になるなど、世界史的にも類のない王国でした。

その改宗したハザール人が後に、アシュケナジー・ユダヤ人と言われるようになり、今日のイスラエル人口の7割を占めるというのは、知る人ぞ知る学説です。

カスピ海側は気候のせいか、あまり見るべき史跡もなく、サーリーを後にして、再びバス旅。
カスピ海
(カスピ海)
東へ進んだゴルガーンという都市を過ぎアフガニスタンの国境に近いマシュハドという町(当時はそんな呼び方ではなかったです)に着きました。ここは意外と大きな都市(後にテヘランに次ぐ都市だと知りました)で、イスラム、とくにシーア派の巡礼地として有名で年間数百万人という巡礼者が訪れ、8代イマーム・リダー廟をお参りするそうです。異教徒でも中に入れることが出来ましたが、そのあまりの境内と建物の巨大さと豪華さ(日本流にいうならキンピカ)に驚きました。日本でいうなら日光みたいなところですかね。
イマーム・リダー寺院
(マシュハドの8代イマーム・リダー廟)
この街で、ちょっと小休止し、アフガンへの旅の準備をしました。また、ここでは、一緒に行くグループに参加してチーム?でアフガンを横断することにしました。ビザはテヘランだったか、マシュハドだったか?どちらでとったか忘れましたが、許可がおりたのは通過ビザ、7日間のみという短さでした。

当時、アフガンは旧ソ連の傀儡政権により統治されていて、戒厳令が敷かれているなど、ちょっと緊張しました。

そして、いよいよアフガニスタンへ入国、7月前後の暑いころだったと思います。
入国して最初に着いた町はヘラートという都市でアフガンの西部の中心都市でした。
都市部に入ると、松ノ木?の街路樹が迎えてくれて、整然として落ち着いた街並み、中心にはお城、ブルータイルがとても美しいマズジェデ・ジャーメェ(金曜モスク)など、日本でいうと京都、奈良のような美しい古都でした(現在はどうなっているかわかりません)。アフガンは石油も出ず貧しい国ですが、それゆえにヘラートは古い町並(基本、日干しレンガですから古いように見えました)がまるで中世のオアシス都市を思わせる面影がありました。後に見た、南部のカンダハルや首都カブールはとても雑然としていて同じ国とは思えませんでした。
ヘラート
(ヘラートのお城と金曜モクク・再建したものだと思います)
ヘラートの宿に泊まり、町を見学しましたが、ここで接した、宿の主人を始め、食堂や雑貨屋さんのおじさんなど、みんな、とても謙虚で微笑みを絶やさず親切で、所作さえもイスラム流の優雅さがありました。イスラム教には貧者への施しをする義務があり、争いとは無縁な教えだと思います。右手に剣、左手にコーランを、と言ったのも、あくまでイスラムの教えに忠実な人たちを守る意味合いでの比喩だと思います。仏教にも仏敵から守る守護神としての金剛力士がいます。ヘラートの、このおじさんたちが本来の敬虔なイスラム教徒であり、普通の市民なんだなぁ、と思いました。それはトルコにも、イランにもない、静かで優しいイスラムの姿でした。

それが1979年、旧ソ連の空爆にさらされ、多くのひとが亡くなり、金曜モスクや城なども大きな被害を受け、静かで美しい古都・ヘラートは失われてしまいました。

旧ソ連の横暴、そして今日、世界に影響を与えているタリバンやアルカイダといった暴力的な集団、残忍なテロリストたちと、どうしても同じイスラム教徒とは思えませんし、結びつきません。
ヘラートの敬虔な市民たち、そして、あの優しく接してくれたお爺さんたちは大丈夫かなぁ・・・と今も思っています。

ヘラートを発ち、次の中継地、南部のカンダハールを尋ねました。アメリカとタリバンとの戦争で都市名がよく出てきたタリバンの根拠地の一つでもあります。

バスで向かう途中、食事タイムやトイレ休憩で幾度か停車しましたけど、乾燥した半砂漠では、掘った穴がトイレであり、そこで用を済ませました。乾燥してますから案外不潔感はありません。

ただ、たまに向かい風や一陣の風が吹き込むと、一辺にトイレの臭気が襲ってきます。その臭いといったら、乾燥している分、もろにストレートです。

記事の副題に「砂漠は風向き次第」と言ったのは、このことです^^。

トイレの後の話で恐縮ですが食べ物の話をしておきたいと思います。忘れないうちに・・・・
アフガニスタン料理店のカバ
(羊料理のカバブ)
トルコ、イランもそうかもしれませんが、この地域では羊の肉が主食の一つです。
アフガンはとくにそうで、まるでシシカバブ(羊肉の地元料理)しかないほどで、野菜なども小さく貧弱です。自分はどうにもなじめず、何を食べていたかというと、アフガン特産のメロンです。これが滅茶苦茶美味しい! 日本のマスクメロンなどその比ではありません。この地上に、こんな美味しい果実があるのか! と思ったぐらいです。値段は当時100円ほどだったと思います。後のパキスタンでもメロンは食べましたけど、もうアフガンのメロンとは似ても似つかない味でした。一応、パキスタンの名誉の為に言っておきますけど、パキスタンのオレンジはどこの国よりも美味しいと思いました。
アフガンメロン-日本・パキスタン協会
(世界で一番美味しいアフガンのメロンだと思います)

形的には、ちょうど、フットボールの球のような楕円形をしていて両手で抱えるほど大きいです。このメロンをリュックサックに入れ弁当代わりに旅した記憶があります。

後、もう一つ忘れないうちに書いておきます。

とくにアフガニスタンの男性に関することなんですが、街を歩いていて、男性同士、手を繋いで歩いている男たちの多いこと。日本でそんな風に街を歩いていたらホモに思われるでしょうね。しかも髭面同士です。
この点も、どうもアフガンの強い戦士のイメージとは結びつきません。案外、弱いかも?(失礼)、まぁ、親愛の情を交わすため、と思いますけど。ちなみに、アフガンでは男性はほとんど髭を生やしています。
その髭面もお年寄りになると、赤い髭になっている人も結構いて驚きましたね。日本なら白髪になってゆくのが普通ですから。食料事情かな?、今でもアフガンは平均寿命の低い国ですからね・・・

カンダハルはヘラートとは全然異なる街でした。一言で言うと、街には計画性が視えず、言い方は悪いですが、スラム街がそのまま大きくなった感じで、殺伐とした印象を持ちましたね。また、市民の表情も堅い感じでした。アフガンはパシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などから構成される多民族国家ですが、現地を旅すると肌で実感しましたね。タリバンが生まれた背景にも、民族間の争いやシコリがあったかもしれませんね。
カンダハールの街
(当時はこんなにりっぱではありませんでした。)
(こんな感じでした)
カンダハールの街角 

カンダハルを早々に首都・カブールへと向かいました。
この町も、首都でありながら、カンダハルに似てましたね。しかもより大きくした感じ。ときたま、首都だなぁ、と感じさせる街区もありましたけど。
カブール 

戒厳令が敷かれていたのは、このカブールでした。日中でも、兵士が監視していて、通りを歩いていると「店に近づくな!道路側を歩け」と警告され、一瞬、銃撃されるかと思いましたよ。

ヘラートで長居(といっても三日ほど)したこともあって、一週間の通過ビザも残り二日で、ぜひ行ってみたかったバーミヤーンの石窟像も、旅仲間からこの世とも思えない美しさと聞いていた、バンデ・アミール湖も、行くのは諦めました。後にタリバンによって石窟像が破壊されたときは、「あのとき行っておけば良かった」と、今も後悔しています。

ヒンズークシ山脈
(アフガンを横断するヒンズークシ山脈)
カブールの滞在もそこそこに、パキスタン西北部の中心都市・カシュガルへと、あのアレキサンダー大王も通ったカイバル峠を下って行きました。 
カイバル峠
(カイバル峠)

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