3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.6 ガラタ橋でまた、会いましょう トルコ編

確か35年程まえの旅なので写真はありません。というか、一応、撮りましたけど当時はアナログでモノクロ、しかもネパールの川で溺れネガが傷んだりしてお見せできるレベルでありません。ただ、実家に残っているかもしれませんので、あったらアップしますね。

記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

vol.5に続きます。
アテネを後に一路、イスタンブールへ。
途中、確かギリシャ東部の都市・テッサロニキで電車を乗り換えた記憶があります。イスタンブールまで何時間かかったか忘れてしまいました。
トルコ西部地図

最初、ヨーロッパ側のカラキョイ駅に着いたと思います。
宿は金角湾を望むガラタ橋の近くでした。
この安宿も旅人たちの情報から泊まることにしました。

ガラタ橋はイスタンブールの旧市街とを結ぶ橋で、二重構造になっていて上は道路、下はレストラン街や物資の船着き場、また様々な露天商が軒を連ねていました。金角湾は本流のボスポラス海峡へと繋がる支流の湾でした。
ガラタ橋

この橋から眺めた光景は今でも強く印象に残っています。旧市街に望むモスクの尖塔、イスラム・ビザンチン様式とヨーロッパ風の街が渾然一体となって、時に、行き交う汽船の汽笛、そしてコーランの声明が街に響き渡り、橋の下ではチャーイ(紅茶)や水タバコをくゆらす人、そして行き交う猥雑な声々が、それさえも耳にノスタルジーを感じさせる都市でした。
イスタンブール市街図

東洋と西洋とが出会うイスタンブール、これほどオリエントな魅力に満ちた都市は、世界の何処にもないでしょう。私の忘れられない一番好きな街です。

宿で旅装を解くと、さっそく旅人たちとの語らいの輪が広がります。大部屋でしたから。

ヨーロッパから来た若者は、アジアから旅してきた旅人から、アジアの最新情報を収集し、また、一人旅の女性は、一緒に行くグループを組んだり、即席のカップルを組んだりしてアジアへの旅に備えました。

ヨーロッパでは一人旅の女性も見かけましたが、ここイスタンブールから東へは一人で行く女性は皆無と言っていい程でした。後に、それが本当に正解であった事に出くわしました。その話はイランとの国境が近づいたらお話します。

白いシーツで寝れるのもここが最後、インドまで南京虫との戦いです。アジアから戻った旅人は、久し振りの白いシーツにホッとして、旅の疲れを癒していました。当時は貧乏旅行の安宿では、白いシーツが東洋と西洋との分かれ目でした。

旅仲間たちとは市内、とくに旧市街を見て周りました。

有名なアヤ・ソフィアやブルーモスク、トプカヒ宮殿ではハーレムがどんな所が興味深深で見学しました。正直、ハーレムには期待倒れでした。修復もされず、くすんで、何の華やぎも感じませんでした。オスマン帝国の皇子たちは、自分が皇帝になると、兄弟たちでさえ殺すか、一生、牢獄に閉じ込めておくのが慣わし?となっていました。裏切りを恐れていたのです。そんな陰惨な歴史を秘めた夢の跡でした。
アヤソフィア 
(アヤ・ソフィア)
トプカプ宮殿のハレム 
(トプカピのハーレム)
海上から見たトプカプ宮殿

動物園も行きました。でも、檻にいたのは赤い目をした猫ばかり。いかにトルコ人が猫好きでも、猫尽くしの動物園なんて初めてでした^^。

また夜はガラタ橋の対岸にあるガラタ塔でベリーダンスを観たり、これは今なら顰蹙を買うかもしれませんが、ガラタ塔の裏通りには、市公認の赤線(売春街)がありました。社会勉強だと思って、連れだって行くのですが、初めて見る飾り窓の女性たちは、ハーレムのような妖しい雰囲気があって、つい、吸い込まれそうになりました。そして吸い込まれていった仲間もいました。私?、それはまさか・・・。
ガラタ塔

そうそう、有名なグランド・バザールも行きましたよ。オリエンタルな商品が所狭しと並び、怒号や駆け引きの声が飛び交い、旅人には、迷宮をさまようようなスリリングさがありました。
グランドバザール

後、一応、トルコは99%イスラム教の人たちですが、ビールもワインも普通に飲んでました。緩やかなイスラム国家でしたね。そんなせいか、トルコの映画はどんなものかと映画館で観ていると、突然、画面が切り替わり、何とポルノ映画を流し始めました。びっくりしましたね。で、しばらく流していると、ドカドカと警察らしき人たちが入ってきて普通の映画に戻りました。で、しばらくすると、またポルノが・・・といった感じで、トルコの人って面白い人たちだなぁ、と思いましたよ^^。

でも、一方で旅人たちにはわからなかったのですが、当時、反政府抵抗運動をしていたグループ(クルド人かも)が地下に潜って抵抗してました。街には、実は秘密警察が目を光らせていたんですね。

それを知ったのはvol.1で書いた色川大吉氏の「ユーラシア大陸思索行」に出てくる少年でした。
少年は日本に憧れを持っていて、なんとか日本に行って勉強したいと思ってました。そこへ偶然、トルコへ来た色川氏とイスタンブールで出会い、少年の強い願いを聞いた色川氏は少年を援助し、を日本に送ってあげました。少年はその後日本で勉学に励み、やがて青年となってトルコに戻ってきました。

公園で仲間と話していると、その青年が「日本人の方ですか?」と聞いてきて、会話を交わすうち、その青年が、あの思索行に出てきた少年とわかりました。

偶然とはいえ、彼に会えたことはどても驚きでした。会話も弾みましたが、最後に彼が回りを見渡し、人がいないことを確認すると、「実はイスタンブールには大勢の秘密警察が張っていて、思ったことも自由にしゃべれないの現実なんですよ。こうして日本語で話しているから実情を言えるんです」と話してくれ、トルコの裏の貌を知った感じで、ちょっとイメージが崩れました。その後、彼は、また日本へ行くと話し、去っていきました。

そんなことが続いたので、疲れると、ガラタ橋の下でチャーイを飲み、時間が経つのも忘れ街の余韻にしたっていました。トルコ料理は豆やトマト、茄子、魚肉などの具をオリーブ油で煮詰めた料理がとても美味しかったです。パンなども、本場・フランスよりも美味しかったですね。多分、世界一かも?
チャーイ 
(チャーイ)
トルコ料理 

宿での出来事を一つ、

ある深夜、大部屋で寝ていると、突然、二段ベットの上で寝ていた南米帰りの日本人が床に落っこちてしまいました。突然の大音響に自分たちは、スワ!地震かと、思いましたけど、どうも人が落ちたらしいと、覗き込んでみると、その南米帰りの日本人の方でした。大丈夫か心配だったんで、声をかけても、何もなかったのごとく、いびきをかいて寝ていました。しょうがないから朝まで、そのままにしておきましたけど、朝起きて本人曰く、なんにも覚えていない・・・とのこと。

何と強靭な肉体と精神だ!、と感心しましたけど、彼は南米のペルーから移民生活に見切りをつけ、日本に帰る途中でした。

彼みたいなツワモノでも、南米、とくにペルーへの移民は過酷だったんだろうなぁ・・・と、考えさせられた出来事でした。

宿には、通称、「山羊さん」と呼ばれていた30過ぎの日本人の方がいました。顎に山羊のような髭を生やしていたからです。山羊さんはかれこれ7年も世界中を旅した猛者で、仲間から大御所視されてました。

山羊さんからは、いろんなことを聞かせてくれましたが、お話する前に関連する話を一つ、

当時、貧乏旅行の旅仲間で、一つの暗黙の決まり?があって、30になったら母国へ帰ろう、という合言葉がありました。直接、言葉には出しませんでしたけど、仲間からの視線を感じると、「自分も潮時だなぁ」と、帰って行ったんです。そうしないと、もう実社会に戻れなくなってしまうからです。

でも、その山羊さんは何処吹く風、旅を続けていました。

そんな山羊さんから聞いたいろいろな話、後になって他の旅仲間からも確認した話でした。

当時、ユーラシアの旅に飽きた旅人はアフリカのケニアの首都・ナイロビを目指しました。
ナイロビは赤道に近いけど海抜が高いので過ごしやすい都市でした。ここに旅人(ヒッピー)たちのコミューンがありました。そこで、例によってマリファナなど吸っていましたが、もう一つの理由がありました。ナイロビの女性はアフリカの黒人系のなかでも美人が多いことで知られました。そして自由な気風もあり、ナイロビ美人と懇ろ(死語ですかね?)になる人も結構いました。

そして、ナイロビに飽きると、次は何処?と聞くと、それは南米、当時も治安の非常に悪かったコロンビアを抜け、チリに至り、港町・バルパライソがその目的地でした。ひょっとして最終目的地だっかもしれません。そこで沈没(当時、母国外で骨を埋めることをそう呼んでました)した旅人たちもいたからです。

旅をしていると、段々とより刺激のある旅を求めるようになります。
南米が、そのスリリングな旅を提供してくれる地域でした。

事前に情報を得ているので、コロンビアに入ったら必ず適度な現金を懐に入れ旅してました。そうすると、待ったましたとばかり盗人たちが表れ羽交い絞めにされて、ナイフで金を出せと脅迫されます。そのとき、すかさず懐から現金を差し出すのです。すると盗人たちは離れてゆきます。もし、適度な現金を持っていなかったら刺されます。その確率は70%と、山羊さんは言ってました。事実、山羊さんも盗人に遭遇して、現金を渡し命拾いしたそうです。

そして、まるで関所を抜けた開放感を味わうように最終目的地・チリのバルパライソへバスを乗り継ぎ向かいます。

バルパライソは南米でも指折りの港町で多くの船と船乗りたちが立ち寄る街でした。坂の多い美しい街で近年、世界遺産にも登録されています。ちなみにバルパライソとは、日本語に訳すと「天国の谷」というんだそうです。そんな都市ですから、飲み屋や売春街が多くありました。一般の市民たちにも自由で情熱的な気風がありました。そして、ここも美人の港町として知られてました。
バルパライソ

なぜかバルパライソでは日本人が人気あり、もてたそうです。
お行儀が良かったからかもしれません。

山羊さんも、そこで沈没しかけました。でも、山羊のような、あごひげが身を助けたのか?東洋の仙人みたいに思われ、「ここは自分のいる場所じゃない」と、ここイスタンブールにやってきた訳です。

バルパライソは、ある意味で、30を過ぎて、日本に帰る居場所もなく、現実に引き戻されることを嫌がった老バックパッカー(と言っても30過ぎ)たちが、伴侶と出会い、終の棲家とした町かもしれません。

今も、その人たち、と、二世たちが暮らしていることでしょう。

イスタンブールには十日ほど滞在しました。

当時、イランはホメイニ革命前夜で、イラクとも戦争の始まる前夜(1980年勃発)でした。
自分たちは、そんなことが起ころうとは気づきもせず能天気に旅してました。

山羊さんたちとも別れ、一人出発しました。途中、一箇所、エフェソスの古代遺跡群だけは見たかったので、イズミール経由でアンカラへ向かうことにしました。

エフェソスには有名なアルテミス神殿の跡(古代、世界の七不思議のひとつ)や列柱道路、劇場や図書館跡など古代の都市が丸ごと遺跡として残っていて、夢の跡を散策し感傷に耽りました。
エフェソスの旅行ガイド
エフェソス (トリップアドバイザー提供)
                         

そして、アンカラでイランのビザを取得しました。トルコ中部のアナトリア高原を東へと進み、エルズルムなどの都市を過ぎ、次の目的地、イランの国境近くの広大な湖・ヴァン湖へと辿りつきました。
アナトリア高原
(アナトリア高原の風景)

ニーデ県にあるデミルカズク
(アナトリア南部のトロス山脈の最高峰・デミルカズク山)

ワン湖
(ヴァン湖)

ここは大きな塩湖で、塩分の濃度が高いせいか、とても青い美しい湖でした。その湖上を連絡船で周遊し、彼方にはシュプハン山を望んだり、小さいアルメニア教会跡を尋ねたり、また古の領主の城を歩いたりしました。湖畔の町では、日本人が珍しいのか、100m歩く間で三回もチャイを飲んでいけと言われ、しみじみトルコは親日な国だなぁ、と思いました。
イスハク・パシャの宮殿
(イサクパシャ宮殿)

近代トルコの建国の父・ケマル・アタチュルクの書斎には、常に明治天皇の写真が飾られていたそうです。東洋の小国・日本がロシアに勝ったことが、同じアジアの民として、とても感動したそうです。

そして、ヴァンの町からイランへの国境越えの夜行列車に乗りました。

このとき、車中でショッキングな出来事に遭遇しました。座席は個室でしたが、車掌が回ってきて、何を言うかと思ったら、何と、隣の個室に乗車しているヤンキー娘をモノにしたいから手伝ってくれ、と言ってきたんです!。で、手伝ってくれたら、テヘランまでの乗車賃をタダ(キャッシュで戻してくれる?)にしてやる、と言われ、もう、ビックリしましたね。普通なら、ありえない事です。

もちろん、断りましたけど、隣の個室にアメリカ人の女性が一人でいること自体にも驚きました。

間髪をいれず、隣の個室をノックし、彼女に事の顛末を説明しました。
もう、驚いてましたね彼女は!。そのままでは心配なので、自分がテヘランまで同乗し、車掌から守ってあげることにしました。

そんな出来事があり、あのアララト山もじっくり望むこともなく、
彼女と二人、テヘランへ向かいました。
アララト山
(アララト山)

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taka様
いつもコメントありがとうございます。

実、この旅、30数年も前のことで、年数を勘違いしてしまい、その結果、矛盾した内容の所も生じ、途中で記事を訂正しようかどうか迷っていましたが、takaさんから改めて指摘されたので訂正することにしました。訂正したこの記事が、自分の正しい内容です。再度、ご覧ください。
申し訳ありませんでした。

 

イスタンブールは独特の雰囲気がありますよね。あの都市こそまさにイスラム・キリスト融合文化の結晶であり、なおかつ寛容なオスマン帝国そのものを現していますね。

質問、今現在アヤ・ソフィアの入場料は20TLですが、当時の入場料とかはどうだったのでしょうか? またトプカプ宮殿の中に入ってもハーレムに入るには別途15TLが必要ですが、当時別途料金はやはり発生したのでしょうか?

オスマン帝国は王では無く皇帝です。例えばスレイマン大帝(ラテン語読みでソロモン)の場合は立法帝(カーヌーニー)と呼ばれている事からも明らかですし、コンスタンティノープルを征服した後はローマ帝国の後継者を自認している事、政治と神権双方のトップであるカリフの称号を持つ事、ウィーン包囲時にハプスブルクに送った書簡で自らをインペラトル(ラテン語で皇帝)としている事等から皇帝であると認められます。

ガラタ塔の裏通りの売春宿って歴史的なものなのかな~ 当時から売春宿だったんですね。オリエント美女、私だったら100%吸い込まれています。白人美女、オリエント美女に誘われたら抗う精神力なんて持ち合わせていませんw その点、梅のコージさんはシッカリしているな~ と関心してしまいます。

外国の旅で同じ国の人に会った時はやはり話が弾むんですね。仲間から聞いた話の範囲で良いのですが、実際パルパライソって日本人パッカーも多く永住しているものなんでしょうか? 今でこそパルパライソは気軽にいけますが、確か共産政権誕生に対する為にピノチェト大統領の独裁が始まったばかりだと思うのですが。住んだとしても共産ゲリラと軍隊の間で大変そうな感じですが。

アナトリア高原、ヴァン湖、美しい景色でしたが、有名なカッパドキアの遺跡は行かなかったのですね。あそこも見る価値はありますよ。

トルコの親日度というのは嬉しい話です。確かに日露戦争で大日本帝国軍が勝利したのも大きいですが、和歌山沖で沈没したエルトゥールル号沈没事件に対する救出活動も大きいでしょう。救出するだけでなく弔慰金も送った事で日本ブームが置き、日土友好の架け橋となった山田寅次郎も士官学校で教鞭をとってその生徒がケマル・アタチュルクというのも大きかったでしょうね。日本のその精神をクルド人やアルメニア人に対する対応にも学んでくれればと思いますが。

アメリカ人女性、良く守れましたね。車掌からクスリだのなんだのと警察を呼んだりとか嫌がらせはされなかったのでしょうか?
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月23日 12時01分 
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