3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.5 真性ヒッピーに涙 イタリア ギリシャ編 

確か35年程まえの旅なので写真はありません。というか、一応、撮りましたけど当時はアナログでモノクロ、しかもネパールの川で溺れネガが傷んだりしてお見せできるレベルでありません。ただ、実家に残っているかもしれませんので、あったらアップしますね。
記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

一ヶ月、二ヶ月前?のことだったかな?TVで海外で暮らすユニークな日本人特集を放映してました。そのなかで、とても印象的だった夫婦がいました。

南米チリの、パタゴニア、首都のサンチアゴから数週間かけて、バスや船、時にジープを使って、氷河の名残のフイヨルド地帯を超え、チリ最果ての町に住む、日本人妻を尋ねる旅でした。その小さな町のさらに郊外、電気も通らない粗末なバラック建ての小屋に夫婦は住んでいました。ぬかるむ道に足をとられつつ、やっと取材クルーたちはたどり着きました。

パタゴニア

パイネ国立公園
(パタゴニアのパイネ国立公園)
出迎えたのは40前後の日本人の奥さん、化粧ッ化のない細身の女性でした。ダンナさんは60過ぎかな?白人の長髪で髭に覆われた仙人のような人でした。

何をして暮らしているのか?わからない感じで、奥さんもやつれた感じでした。ただその仙人?さんは超然としている感じでした。
奥さんは仙人の彼と東京で出会い結婚したそうですけど、そのころ、奥さんはいろいろ悩みを抱え、そんなとき、彼の優しさに惹かれ、「この人についていこう」と思い、とうとう、この地球の最果ての地に来てしまいました。今、奥さんの心情に去来するものは何だろう?悔いるときもあるのかなぁ?・・・。見ているこちらが不安になるような情景でした。

仙人の彼は、世界中を回ってここの自然が一番気に入って定着したそうですけど、
とても貧しい生活のなかで、普通に見れば、この二人は世捨て人の成れの果て?に映ったかもしれません。

取材クルーたちは、ユニークで面白い日本人を取材するつもりだったと思いますけど、どんな思いで取材したことでしょう?・・・。きっと複雑な思いだったでしょう。

自分は、その彼を見ていて、ふと、感じるものがありました。

彼はまさしく70年代から80年代中期にかけて、欧米を中心にムーブメントを起こしたヒッピーの生き残りでした。

現在、60~65才の年代がその中心でした。

そのヒッピーたちも一時のムーブメントが過ぎ去ると、潮を引くように、それぞれの母国の現実社会の中へ戻っていきました。彼らの多くは中流家庭の出身で、それなりにインテリで、彼らを向かえ入れる職場も社会もありました。今、その彼らが社会の中枢を、あるいはリタイアして年金生活に入っています。まるでヒッピー時代のことなど無かったかのように・・・。

「真性ヒッピー」という言葉がもしあるならば、彼のような人のことを言うのだろうなぁ、と思いました。

何か彼に名状しがたい畏敬の念を感じ、「成れの果て」とつぶやいた自分自身を恥じました。

さて、旅の話に戻ります。

(文中の写真は主にwikipediaから引用させて頂きました)

グラナダから一緒に旅することになった彼女とは、前回書いたバルセロナを後にしてフランスに入り、コートダジュールと呼ばれる地中海沿いの幾つかの街を尋ねました。一人だったら、こんなところ来ませんが二人だったので、アンティーブの街のピカソ美術館とか見て回りました。

コート・ダジュール 

ピカソ美術館


リゾート地帯を去り、いよいよイタリアへ入国です。
腰をすえたのはトリノ。ここはイタリアであってそうでない街の貌をしていました。歴史上、この地域はヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアの領有を巡って争った地域で、取ったり取られたりした関係か、このトリノの街も、どこか小パリを思わせるエレガントで整然とした街並みが落ち着きを見せていました。歩いていても、とても気持ちが良かったです。
トリノ

これは、自分の印象ですが、イタリア北西部のロンバルディア平原はホントに起伏がなく霧の多い平原でした。後に尋ねたトスカーナ地方とは全然違いました。また人口の地密度も高く、ずっと線路沿いに家並みが続くのは自分の回ったヨーロッパのなかでも珍しく思いました。日本では当たり前かもしれませんが。

ここトリノで、いよいよ彼女と東か西かどちらへ向かうか決めることになりました。自分はインドまで陸路行きたかったので東、彼女はイスタンブールまで行くか迷っていましたが、結局、パリに行くことに決めました。それは正解だったと思います。彼女はちょっと小金持ち系の雰囲気があり、パリに行っても冷たくあしらわれることはないと思ったからです。

彼女とは、一人旅の流儀として、住所の交換とかしましたけど、その後、会うことはありませんでした。
もし、日本の街ですれ違っても見向きもされなかったかもしれません。
それほど、旅の高揚感はマジックストーリーを生むものなんですね。

一人旅と言っても、時には群れたり、グループで旅したりと、その国の情勢や地域の特殊性に応じて旅していました。時には山賊が出る地域とか、警察がいろいろ賄賂を要求する都市(たとえば宿のベッドにわざと麻薬を置いておいて賄賂を出さないと逮捕するとか)といった場合、また、ずっと一人旅だと疲れます。そんなとき、小休止する一人旅の定宿が要所要所にあって、そこで情報交換や旅の疲れを癒したものです。

トリノで別れた後、途中、ミラノの大聖堂の彫刻装飾に埋め尽くされ、空高く尖塔が聳えるその巨大さ圧倒されました。

そして、前から行ってみたかったイタリア北部の東アルプスにあるドロミテ山塊の中心地・コルティーナ・ダンペッツォへ行ってみました。ノコギリの刃のような切り立った峰が連なるアルプスでも異色の山塊です。でも、なんで日本語では"山塊"と呼ぶんですかね?山脈ならわかるんですが。行ったのは5月始めごろだったと思いますが、スキー場へ向かうケーブルカーで上った記憶があります。山で降りた先は、雪も深く、それから先は行けませんでした。最高峰マルモラーダが見えたかどうか今は記憶にはありません。でも、よく晴れ渡った青空にドロミテが一望に見えたことだけは覚えています。
コルティーナ・ダンペッツォ 

ドロミテ山塊 

ドロミテを後にし、イタリア側のチロル地方の中心・ボルツァーノに戻りました。ちなみにチロルと呼ばれる地域は東部アルプスのオーストリア側とイタリア側にまたがる地域です。このチロル地方は昔からスイスとオーストリア、イタリアを結ぶアルプス街道の一つとして行き交う人で賑わい、また幾多の戦争の通り道でもあった関係から、山の所々に城郭が目印のように残っている地域でもありました。もっとも城の多くは廃墟でしたが。ちなみにヨーロッパの城や教会の廃墟でも気をつけないといけないのは羊と牛の糞でした。ここチロル地方でも、やっぱり同じでした。廃墟には良質な草が生えているんですかね?でも、まだヨーロッパはいい方ですよ。アジアでは家畜どころか人糞に悩まされた地域というか場所が多々ありましたから。さらに、もっとビックリしたのは、ある白人女性が○○から残していったモノ!。それを見た自分はもうトラウマ状態になってしまいました。

イタリア北部地図
     (イタリア北部地図)

それはともかく、山好き兼城好きでもあった自分は、しばらく、このチロル地方を旅することにしました。

ボルツァーノから北上するとメラノという山間盆地の小さな街があります。
そこからさらに西上すると、アルプスに囲まれ、オーストリアとの国境沿いに位置するムタ湖・レジア湖があり、そこを目指して日帰りトレッキングすることにしました。
チロルの山

で、ちょっと記憶があいまいなのですが、その湖に到達できたのかどうか?どうも覚えがありません。ということは多分、到達できなかったんでしょうね。ただこの山道も羊の糞でいっぱいだったことはだけは覚えています。

おぼろげなトレッキングからの帰り、バスだったかな、車中から城壁に囲まれた小さな村を見つけました。行ってみたくなってバスを降り、その村の門を潜りました。当時は何の観光化もされず、チロルの山奥にひっそりと佇んでいました。城壁都市のカルカッソンヌをとても小さくした感じのかわいらしい村でした。こんな小さな村にりっぱな城壁と門で囲まれていたこと自体がとても不思議な感じでした。もうメルヘンの世界でした。ボディーランゲージで宿を聞いたら一軒だけペンションがあると聞き、そこに泊まることにしました。気が付いたら一週間もそこにいました。

その中世から飛び出してきたような村からはチロルアルプスが目の前に広がり、まるで自分ひとりが独占しているような錯覚を覚えました。

そうだ、村の名前を言うのを忘れていました。確かグロレンツアと言いました。いまではチロルのメルヘン村として観光化していますが、当時はホントに手付かずの村でした。
グロレンツァ 
(グロレンツア)
一週間滞在したペンションの女主人は、なんでも子供を若いころ亡くしたそうで、一介の異国の旅人である自分を、まるで自分の子のように世話し、もてなしてくれました。

ヨーロッパを旅して、有名な観光地を幾つか回りました。でも、今になっても、このチロルの村、グロレンツアとペンションのおばあさんが一番懐かしく思い出されます。

村の城壁内はとても小さいので、毎日同じ村人と出会いました。ときにはワインをよばれたり、自宅に招かれたり、村に一軒?だけの居酒屋でオヤジさんたちに付き合わされたりしました。

この村で英気を養って一週間後、村を旅立つ日、おばあさんから日本に帰ったら必ず手紙を書いて寄こしておくれ、と住所を書いた紙を渡してくれました。おばあさんの目には、うっすらと涙が滲んでいました。若くして亡くなったわが子とダブって映ったのかもしれません。

でも、後にネパールの山の中の川で溺れ流されたとき、その紙を水まみれにし、文字も読めず、手紙を送ることができませんでした・・・。

チロルに別れを告げ、トスカーナに向かう途中、ベネツィアにも寄りました。この街も美しい街でした。湿地帯の木の杭の上に建設された街は見事に美しく調和・凝縮され、街自体の印象で言うならば、ヨーロッパ周遊のなかで一番美しい都市だと思いました。
ベネチア 

そして憧れだったイタリア中部のトスカーナ地方の街を幾つか旅しました。
季節はちょうど5月の中旬、木々は新緑の緑に溢れ、丘の上の、ルネッサンスを生み出した、かつての都市国家群たちが、とてもまぶしく目に入りました。
トスカーナ地図 

トスカーナはイタリアの春の輝きだと思いました。
トスカーナの町 

イタリアは国家としての統一国家は近代になってからのことです。
それまでは幾十もの都市国家に分かれていました。

なぜ、ルネッサンスがイタリアで花開いたのだろう?

そんな疑問を抱いたとき、トスカーナのことを思い描いてみました。

ひょっとして分裂した都市国家だったからこそルネッサンスが芽生えたのでは?と考えてみました。諸侯たちは、現代でたとえるなら、巨額のお金を持ったコレクターのようなものです。当時、オークションで手に入れた名画を誇示するかのように、諸侯たちは、芸術家を集めては、絵画や彫刻、建築、文芸と様々な分野で競い合わせ、名品を生み出してゆきました。それが富と権力を示す原資にもなったと思います。

そして、その蓄積がルネッサンスに結びついた一つの要因では・・・と考えてみました。

もちろん理由はそれだけではなく、意外とイタリアがカソリックの国だったという面が作用したかもしれません。カソリックは厳しい戒律を伴いながら、一方でとても世俗的な面がありますから。もし、イタリアがプロテスタントの国だったら、文芸復興はもっと遅れていたかもしれません。

それから、各都市国家の規模も小さからず、大きからず、程よい規模がかえって文芸に力を入れる素地があったようにも思います。

そんなことを、つらつら考えながら、

トスカーナの丘や盆地に程よく並んだ都市国家群を見ていると、トスカーナの地形もまた、ルネッサンスを生む風土を宿していたのかな?、と改めて思ったりしました。

トスカーナを過ぎ、いよいよローマです。ローマへ向かう車中、思ったのは、イタリアの観光資源の豊富さです。ヨーロッパを周ったなかでもイタリアは断トツでした(主観)。

他の国が王侯の宮殿やレトロな旧市街、ロマンチック街道やロワールの城館群など、比較的近世の歴史建造物が観光のメインですけど、イタリアへ行くと、言い方は悪いですけど、お城など霞んでしまいます。フィレンツエやトスカーナを中心としたルネッサンス期の建築や絵画などの文化、さらに古代ローマ帝国の中心だったフォロ・ロマーノなどイタリア全国に散らばる古代遺跡など、観光対象の層が厚いと思いました。ローマ市内に入っても大理石を豊富に使ったサン・ピエトロ大聖堂のようなバロック様式から、古代ローマ様式、イタリアンゴシックからルネッサンス、ロマネスク様式など多様に富んだ街並みを見ていると、ローマが「永遠の都」といわれる所以を実感しました(個人的には千年の京・京都こそ永遠の京だと思いますけど)。

ローマでは、いろんな所を見学しましたけど、固有名詞の羅列になってしまうので省きます。

とにかく、もしヨーロッパで一国だけ周るとしたら、迷わずイタリアを選ぶでしょう。

ローマに数日滞在した後、イタリア半島の背骨ともいえるアペニン山脈、その最高峰であるグラン・サッソ(2,912m)などを周遊した後、フェリーでギリシャに向かうために、イタリア南部のアドリア海に面した港町ブリンディジ(長靴半島の踵の部分)に向かいました。

ここは港と船以外とくに見るものはない平凡な街でした。

そして地中海クルーズとまではいきませんが、眠るように波静かな地中海を東へと航行。ギリシャに近づくにつれて、エーゲ海の青い海と月面を思わせる紅くエキセントリックな島嶼群が迎えてくれました。
エーゲ海地図 

ここでまた思うのですけど、幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人たちが残した記録をみると、一様に瀬戸内海の美しさを称えています。日本人からすれば、なぜ、そんなに?、と思うほどの絶賛振りです。日本人が古来から美の一つの基準としていた「白砂青松」。当時、瀬戸内海は、「白砂青松」の島嶼群と海辺の景色に溢れ、外国人たちの目にも新鮮な美しさに観えたんでしょうね。日本人は、もっと瀬戸内海を大事にするべきでした。エーゲ海にはないものが、そして瀬戸内にはないものが、それぞれの海にあった気がします。

エーゲ海

港町・パトナに着くと、そこはギリシャでした。フェリーから下船し、アテネ行きの駅舎を探しましたが、さっぱりわかりません。街の看板や表示物など、ありとあらゆる文字が、ΣやΩになどのギリシャ文字。現在のアルファベットの語源と言われる文字表記ですが、せめて英語など併記してあれば助かるのですが、ホント、キリル文字オンリーで、なんとかたどり着いたアテネでも同じ。

正直、こんなに途方に暮れた国はありませんでした。アフガンの方がよっぽどかわかった程です。

とても、あちこちを観光しよういう気分(気力)にはなれませんでした。

今もそうなんですかね?

それでも、有名なパルテノン神殿の丘だけは何処からでも見えたので神殿目指して歩きました。

パルテノンに着くと、そこからはアテネ市街が一望の下に見渡せ、地図を見ながら確認したりしました。
パルテノン神殿 

アテネの街の印象ですけど、もっと歴史を感じさせる古い街かな?と思っていたのですが、実際には、振興街区と所々古い街路が入り混じった猥雑で埃っぽい印象を持ちました。後で気がついたんですけど、この埃っぽさは隣の小アジア(トルコ)から始まるユーラシア大陸内奥部の吹きすさぶ砂塵と埃の予兆でした。

眼下の街を眺めていると、後ろから「写真を撮って頂けませんか?」という声が聞こえました。振りかえると、若いとは言えない(かといって年配でもない、要は年上のお姉さん)日本人女性でした。

写真を撮ってあげると、例によって即製の旅仲間誕生。パルテノンを後にして市内を観光。アテネに詳しい彼女のおかげでアテネを迷わずに巡ることができました。

彼女はここギリシャが長年の憧れで一人旅とのこと。自分がこれからトルコ、インドを旅すると言うと、目をパチクリして驚いてました。内心、そんなに驚くことかなぁ?と思いましたけど、アジア地域に興味のない人からすれば、なんで、そんな危険な所へ行くの?、と思うんでしょうね。

お姉さんと呼んでいい年齢の彼女にはレストランでもお世話になりました。ホテルも探してくれました。二日後、自分はイスタンブール行きの電車に乗り、お別れしました。

いよいよ、アジアへの玄関口、イスタンブールは、もう自分の手の届くところにありました。次回はいろんな意味で思い出深いイスタンブール、トルコ編です。


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コメント

本題 

さて、梅のコージさんはトリノに行ったんですね。イタリアで凄く憧れている地方です。イタリア統一運動を成し遂げたサヴォイア王家、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世をはじめガリバルディ、カヴール、マッツィーニを生み出した土地(出身地は違いますがw)ですから是非にも行って体感してみたいですね。

質問、トリノで別れたとの事ですが、彼女と一緒にパリに行こうと思った事はありませんでした? 旅先とか遭難とかの危険な所とかだと身近の人と恋愛感情になりやすい、という話は聞きましたけど。

それと向こうの気候はどんな感じでした? 例えば日本と比べて暑いとか寒く感じだとかそういうのはありませんか?

向こうの山だと放牧が多いですから、家畜の糞だらけというのは仕方ないのかもしれませんがやはり何とかして欲しいですね~ そこの所は考え方が根本的に違うのでしょうか? まあ、ルイス・フロイスも日本について「清潔な国」とビックリしているくらいですから、元々そこは気にしないのかも知れませんが。

そうそう、チロルのおばあさんの住所は未だに解からずじまいですか?

ヴェネツィアは美しい水の都ですよね~ イタリアを考える時、ヴェネツィア共和国とトスカーナ大公国とどちらが裕福だったのだろうか? と妄想してしまいます。

さてルネッサンスと分裂国家についてですが非常に興味深いですね。確かにあの問題国家中国も、大いに発展して基礎が出来た原動力は百家争鳴と言われた春秋戦国時代でしたから。ただイタリア諸侯及びドイツ諸侯を独立した国家と見るか? それともローマ・カトリック及び神聖ローマ帝国領の内臣の所領と見るか? で、見方は変わるでしょうね。

ですがドイツ諸侯と違いイタリア諸侯は裕福でありながらローマ皇帝がイタリアから出ない所に不満がたまる原因があったのかも知れませんね。ローマも一度行ってみたい所ですね。基本的に古代ローマ帝国も大好き、特にユリウス・カエサルやアウグストゥスを尊敬していますから。

ギリシアのキリル文字はギリシア人にとっては誇りですから一様にキリル文字であっても不思儀ではありません。現在は観光地ではキチンと主要言語では表記されているそうです。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月20日 11時56分 
  • [編集]
  • [返信]

テレビについて 

お母様の接触事故という事ですが、お体とかは大丈夫でしょうか? 車というのは本当に危険なので気をつけないといけませんね。何事もないようお祈り申し上げます。

今回、まさかTVの話題から入るとは思いもしませんでした。しかも私も観た番組です。「真性ヒッピー」とは上手い言葉ですが私もまさに同感ですね。彼は自分の信念を曲げていないのである意味立派ですが、やはり自分を根本的に勘違いしているように思えました。

安保闘争や左派運動、その中心となっているのは学生でした。では自分で働いて学業に勤しんだのか? と言えば、運動家もヒッピーもそうではありません。親にお金を出してもらい、裕福な生活をして余分な事を考える時間を持っていたのが殆んどです。

当時は中学を卒業して集団就職しなければならなかった人達が圧倒的大多数であり、労働者の味方や権利を標榜していたその当の労働者は家族の命運を背負い、人生の大半を自己の楽しみを犠牲にして故郷の家族の為に、そして国家の為に一生懸命生きていました。

労働者は高校生から責任という考えを持っていましたが、彼等は大学生にもなっていつまでも子供で責任という考えが全く無かったみたいです。だからこそ彼等は味方と思い込んでいた労働者から見捨てられる結果になったのでしょう。彼等から見れば、人のお金で努力もしないで好き勝手に騒ぎを起こす人種にしか見えなかったでしょう。

その年代以降は未だに責任という感覚が抜けているように見えます。件のテレビの男性は家族に対する責任という感覚が抜けていますし、今社会で上の方になっている方々等も一般企業から官僚まで責任を全く取らない状態になっています。もちろん私と同年代の人達は言うまでもありません。

あの頃の歴史を学んだ時に、今の無責任社会になった日本の現状について「ああ こうなるべくしてこうなったんだな」と納得出来ましたね。安倍新首相の教育改革に期待したいですね。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月20日 11時00分 
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  • [返信]

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