3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ユーラシア大陸一人行 vol.4 パリには行くな? 中・南欧編

確か35年程まえの旅なので写真はありません。というか、一応、撮りましたけど当時はアナログでモノクロ、しかもネパールの川で溺れネガが傷んだりしてお見せできるレベルでありません。ただ、実家に残っているかもしれませんので、あったらアップしますね。
記事中の写真はWikipedia、Google Earth、publicサイトから引用させて頂きました。

vol.4では中・南欧編を書きたいと思いますが、最近、一つ気になったニュースがあったので、そのことについて、ちょっと書いてみたいと思います。なんか最近は「3D京都」でなくなっている?面がありますが、ご容赦を。パラレル的に「平安京 羅城門」の資料も揃い、いつでも3Dスタンバイできるようになっていますからご心配なく。

さて、その気になるニュースですが、
日本経済新聞の12月8日付の記事「真珠湾攻撃の通告遅れ 大使館の怠慢説に反証 通信記録を九大教授発見 外務省の故意か」という見出しの記事です。
従来の通説ですと、在ワシントン大使館の翻訳が遅れ、職務怠慢によって通告が1時間遅れ、米国に「だまし討ち」と非難され、アメリカの開戦参加のきっかけにもなったという問題で、通告文書の修正を指示する日本から大使館への電報が半日以上も経て発信されていたことを示す傍受記録が米国で見つかった、という記事です。

最近は、従来まで陰謀説の段階だった、開戦前からルーベルト大統領は日本の開戦の動きを知っていて、当時、開戦に消極的だった米議会に開戦の機運を促すため、わざと、真珠湾を攻撃させた、という説ですけど、これも最近、アメリカ側の外交文書の開示により、陰謀説でなく本当だった、という真実が明らかにされつつあります。そういった状況のなか、今回のニュースは自分にとっては、一つの衝撃でした。

なぜ、日本外務省は修正指示電報を15時間も遅らせて在ワシントン大使館に打ったのか?
その疑問がどうしても残ります。

それで、思い出したのが、数年前マスコミ紙上をにぎわせた「富田メモ」です。同メモは、元宮内庁長官の富田朝彦がつけていたとされるメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)に書かれていた、とされる昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言です。メモによれば、昭和天皇は「A級が合祀され、その上、 松岡、白鳥までもが」、と言う文面が、本当か?偽造か?、とうとう最後まで明らかにされることはありませんでした。そのときもニュースの初電は日経でした。日本経済新聞は何かを掴んでいるんでしょうね。

戦後、その、日本から大使館への電報が半日以上も経て発信した当事者や在ワシントン大使館の職員も次官になるなど出世しています。半面、多くのユダヤ難民を救った杉原千畝氏などは閑職に追いやられています。

昭和天皇が戦後、その外務省の故意の行為を知り、あの「富田メモ」に書かれた?ように、外交官だった松岡や白鳥がA級戦犯であるにもかかわらず、靖国に合祀されることに大きな怒りを示され、それから靖国に参拝されなくなった、との説も、その理由はA級戦犯だからというよりも(当時、それ以前から戦犯云々に関係なく陛下はご親拝されていた)、その一部の外交官たちの日本国民に対する裏切り、スパイ行為にとても大きな怒りを示された・・・の、かと、推測してしまいます。その外交官が外務省の誰かとは申しませんが・・・。

ただ言えるのは、日本、アメリカどちらにも隠れコミンテルン(共産主義)が多く存在したことです。

戦争での300万と言われる多くの犠牲者、また特攻隊で亡くなられた4000名にも上る若者たち。

彼らのことを思うと、一日も早く、真実が明らかにされることを、切に願うものです。

南欧編がちょっと、どこかへ行ってすみません。

30数年前の旅のときも、多くのヒッピー、及びその予備軍の旅人たちに出会いましたが、その多くは考え的にアナキーズム(無政府主義)もしくは左翼的、それと紙一重の間違ったヨガ思想(ラジアン・ラジニーシによる一種の無政府的な自由主義、フリーセックス、大麻、マリファナなどの横行)などに被れていました。あるときなど、白人の旅人たちに対して、昭和天皇のことを「ヒロヒトラー」と言う同胞がいたりして、その無知さ加減にとても怒りを覚えたものです。

でも、可笑しなもんですね。そんな彼らとも、一緒に旅をしていると、お互いに情報を交換し合い、普段は戦友のように仲良く接していたんですから。

旅とは、ある意味、いろんな、しがらみ、イデオロギーを脱ぎ捨てて、ひとときの休戦協定を結ぶようなものかもしれません・・・。

さて、オーストリアからスイスに行きましたが、ウィーンは駅周辺を散歩しただけでした。当時は、あまり大都市には興味なく歴史的な建造物や田舎町、大いなる自然に惹かれていました。今思うと、パリやウィーンなど立ち寄り、いろんな美術品に接すれば良かったなぁ・・・と思います。

当時、旅していたバックパッカーたちの間で一つの決まり文句がありました。「パリには絶対行くな!」でした。それもあって自分は行きませんでした。フランス、特にパリといえば、個人主義が強い都市で知られますが、貧乏旅行している若者たちには冷たい街でした。なんとなく、お高くとまっていると言うか、金の切れ目が縁の切れ目?的な感じでした。ですから未だにパリがどんな街かは知りません。

後にインドで出会った旅人たちが、旅を、自由を満喫していたのも、インドが貧しかったからです。貧しい地域へ貧乏な旅人たちが行けば、何の気兼ねもなく滞在できたからです。何も現地の人から受け入れてくれた訳ではありません。ただ無関心でした。ヨガだ、東洋思想だ、インド哲学だ、メディテーション(瞑想)だ、自由だ!、と言ったって、それらは、すべて後付で、ただ単に金もかけずに旅できる、のんびりと滞在できる・・・それが本音でした(自分も含めて)。インドは他の国にはない不思議な包容感がありました。なぜかは、また、旅の途中で書いてみたいと思います。現時点では、まとめきれてないからです。

ところで、欧州でもアジア地域でも、バックパツカー達には出生国による変な差別というかクラス分けがありました。要するに旅をするとき、どれだけ信用できるか?です。

日本はドイツと並んでトップ。どこへ行っても日本人だとわかれば安心してくれました。ドミトリー(大部屋)に泊まっても、お金を「外で盗られるとヤバイから預かっておいてくれないか?」なんていわれるぐらいです。まさに菊のご紋入りの日本国パスポートは信用と信頼の証しでした。

次は北欧の旅人たち、後の国は正直言って大小の差こそあれこそ、あまり信用はされませんでした。アメリカもヒッピー発祥の地?だったせいか大国の割りに信用されませんでした。

南欧なんか、スペインやポルトガルなど旅人自体に出会ったことがありません。
フランス人やイタリアの旅人が大部屋に入ってくると一瞬にして緊張感が走りました^^。

で、旅の続きですけど、
スイスは長い間の憧れでした。そこにアルプスがあるからです。
同じアルプスでもスイス側とイタリア側では違っていました。イタリア側の方が乾燥していました。
またスイスのなかでも首都ベルン側のアイガー、メンヒ、ユングフラウユングフラウなどの聳えるベルナーオーバーラント地域と山を隔てたヴァレー谷背後(イタリアと接する山岳地帯)に聳えるマッターホンとでは、ヴァレー谷の方が乾燥していました。緑が少ないんです。そのせいか谷にはブドウ畑が広がっていましたね。
ツェルマットから見たマッターホーン 

アルプスは確かに絵になるし綺麗ですけど、いつものごとく近くに寄って見てみると、意外と表土は浅く、それが高木が育ちぬくい環境の一つかもしれません。また大昔、氷河期の影響を受けたせいか植物相の少なさも感じました。また羊や牛による影響も大きいです。なぜなら、羊や牛たちが嫌いな野草、低潅木しか残らないからです。

あのアルプスのハイジの草原のような光景も、そんな背景があるかもです。もちろん、長年の牧夫たちの石を除いたりの努力の賜物とは思いますけど。

後に見たヒマラヤの壮大さ、民俗の多様さと較べると、正直、自分にはヒマラヤが好きになりましたね。

短期の観光にはアルプスはいいかも。

また、改めて日本の山の湿潤に満ちたビロードのような山肌に懐かしさを覚えたのも一つの収穫でした。

で、フランスに入ります。
上記のごとくパリには寄らず、フランス外縁部を旅しました。フランスはローカルがいいですね。農業国というだけあって、ブドウ畑や小麦畑がどこまでも続き、氷河期の名残である、緩やかな傾斜を描いた丘と平野がどこまでも連なっています。日本で言うと、北海道の富良野を何倍にも大きくした感じです。

城郭都市で知られるカルカッソンヌにも行きましたけど、途中、見たピレネー山脈も良かったですね。この地域へ行くと、他の地域とちがって、ちょっと乾燥した大地が続きます。岩などが大地に露出していて、けっして豊かな大地ではなかったですけど、無責任な旅人からすれば、それが、よりローカルな古色を帯びた村や街並みに見えて良かったです。一度、レンタカーでフランスの田舎を廻ってみたいものです。
カルカソンヌ 

後、ロワールの古城群もいいですね。城というよりも城館ですけど。
優美に満ちていて、もし、フランスにこのロワール地域がなかったら、ちょっと無骨なものになっていたかもしれません。でも、よくフランス革命を生き残りましたね。近代になって補修を加えた城もかなりあるのではと思います。
ロワール渓谷の古城の一つシ 

フランスでも、日本の元和の一国一城令のような廃城令が近世にだされ多くの城、いわゆる城館ではなく、フォート、城塞が壊されました。ですから日本でみる、いわゆる「お城」のようなタイプは少なく、実態は荘園領主や、貴族たちのカントリーハウスが多いですね。だからそれらも含めると数万にもなるそうです。

日本でも江戸期、三階建て以上禁止の禁令が出さなければ、地方の庄屋など、小振りな天守閣など建てたかもしれませんね。

フランスを一回りした後、スペインに入りました。
やはりというか他のヨーロッパ地域と比べより乾燥していました。また人口密度も低く、電車に乗っていても、あまり人に出会いませんでした。またフランスやドイツのような明確な新旧の市街の区別がなく、ちょっと日本の街に似た雑然さがありました。メセタといわれる中央高原は2000m級の峠を越えても、どこからが山と高原の境か?区別がつかない程、起伏がゆったりしてました。ただ、ポルトガル側に面した山の方は結構急傾斜でした。たまに、スペインではアルカサールといわれる城砦に出会いますが、スペインのは、より城塞に近い城が多いですね。

途中、ローマ時代の水道橋が残るゼゴビアやトレドを訪れました。ゼゴビアでは水道橋の直ぐ側のペンションに泊まりました。どんな夕食が出されたか忘れてしまいました。イタリアとはちょっと違う感じでしたけど。スペインは宿が安いので安心して予約なしで旅できました。
ゼゴビア

セゴビアには、シンデデラ城のモデルになったとも言われる優美なアルカサル・宮殿がありました。1474年にはここでイサベル1世がカスティーリャ王位に就いている歴史的な城でもあります。
セゴビアのアルカサル 

個人的に女王イサベル1世は好きですね。
イザベル一世 

後に訪れたグラナダのアルハンブラ宮殿は、元を辿れば、イベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都としたナスル朝の宮殿であり城郭でした。
1492年、カトリックのレコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の失地回復活動)によってグラナダは陥落しましたが、そのとき降伏した最後のナスル朝の王ムハンマド11世は奪われたアルハンブラの城を何度も振りかえって見ては、泣きながら去って行ったと伝わります。
アルハンブラ宮殿

そのとき、無血開城に導き、また、降伏後もアルハンブラ宮殿をそのまま残すよう指示したのがイサベル1世でした。女王はイスラムとの融和政策をとり、その結果、今日に残るイスラムの建築や文化が、スペインが他のヨーロッパとは違う独自性を生み出し、今も多くの観光客を魅了しています。
また、イスラム圏のひとにとっても、かつてイベリア半島の一角にイスラム王国を築いた史実は誇りでもあり、アルハンブラ宮殿はキリスト教とイスラム教との融和の象徴だと思います。

訪れたアルハンブラ宮殿は初めて見るイスラム装飾に溢れとても新鮮に映りました。イサベル1世が残そうと思ったのもうなづけます。

このころは日本人はあんまり来なかったのか?郊外の子供たちに「チーノ、チーノ!」と言われました。後で気づいたんですけど、中国人の蔑称だったんですね。中華料理はどこへ行ってもありますから。

でも、「チーノ」と言った子供たちもジプシー、いわゆるロマ人の子供たちでした。かれらロマ人は漂白の民であり、ユダヤの影に隠れてなんですが、昔から差別されてきました。ナチの手で虐殺もされてきました。

でも、そのロマ人が歌い踊ったのがフラメンコであり、ここでもスペインは差別されてきたロマ人の音楽と歌によって世界の人々を魅了するスペインの民族音楽となったのは、皮肉と捉えていいのでしょうか?

グラナダはモロッコへの玄関口でもありました。
さぁ、グラナダを去ろうと駅で電車を待ったいたら日本人のグループと遭遇、モロッコ帰りだと言う。その
なかの一人の女性が「ここからグループと別れるから、エスコートして?」と言ってくるじゃないですか!

突然のことで、ちょっと、びっくりしましたけど、もう見る間にグループは別れ、彼女と一緒に電車に乗ることになりました。モロッコへ旅するぐらいですから、こちらがエスコートしてほしいほどの外見、気の強そうなシャープな女性でした。案の定、「あなた、しっかりエスコートしてよ。あなたみたいなタイプなら、安心して夜、コンパーメントで寝れるわ」・・・とまで言われ、何と捉えていいか、複雑な気持ちでした。

ちなみに当時モロッコは、アジア・中東・インドを旅しようとする若者たち、とくに女性たちにとって、その前準備、トレーニングの場としての位置付けがありました。ですから、けっこう女性のモロッコ帰りもいたんですよ。

で、夜になって、身の上話とかして、彼女はすやすやと寝てしまいました。
気丈そうな彼女も、その寝顔は優しかったです。僕は僕なりに彼女を守って行こうと思いました。

彼女とは、途中、バルセロナにたちより、今は世界遺産にもなっている旧市街やガゥディーの建築作品とか見て周りました。そしてイタリアまで一緒に行きました。
サグラダ・ファミリア

中・南欧編はこのへんにしておきます。というかまだイタリアが残っているか・・・

旅の手記って、結構長くなるものですね。あぁ・・・・「3D京都が遠ざかってゆく・・・」。


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コメント

インドまでなかなか辿りつきません・・・ 

taka様。
いつも解説ありがとうございます^^。
先日、母が軽い接触事故を起こし、その後始末に終われ返信が遅れました。申し訳ありません。

さて、イザベラ女王の異端審問の件で思い出したのは、
中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家でもあったヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。中世、最高の知性といわれた女性ですけど、その敬虔な彼女でも、たとえば修道院でさえも、貴族と庶民の差別、階級差を当然のごとく認めていたのですから、当時の感覚は今とは違っていたんでしょうね。

ご質問の、
「ところで質問ですが、梅のコージさんはお金は何を持って行きました? 当時は、まあ今でもですが㌦帝国で欧州でも㌦決済が出来ますが、㌦でしょうか? それともドイツではDEM(ドイツマルク)に、オーストリア共和国に行けばATS(オーストリアシリング)に両替していたのでしょうか?」

ですけど、当時も機軸通貨は米ドルであり、世界で一番通用すると言われたアメリカン・エキスプレスのトラベラーズ・チェック、今の小切手みたいなものですけど、それを腹巻の内ポケットに入れていました。盗まれてても再発行できました。パスポートなども首からぶら下げたポシェット?に入れ、下着の中に入れていました。

「それと欧州では置き引きが多いそうですが、当時ユースに宿泊して身の危険を感じた事はないのでしょうか?」


ユースではありませんでしたけど、一度、イタリアの夜行列車で寝ているすきに1万円ほど盗まれたことはありました。

「質問、南仏では何泊くらいしたのでしょうか? それとフランスのワインは飲みました? それから、ジプシーの集落とかに泊まろうと思った事はありましたか?」

カルカッソンヌやコート・ダジュールのアンティーブなど四、五日間ほどですかね。ドイツやオーストリア、スイス、フランスなどは一等席のコンパートメントが乗り放題だったので国境越えの夜行に乗ったりして宿代をうかしていました。本格的な旅はスペインに入ってからです。

ワインはスペインに入ってから酒豪の女性に手ほどき?を受けました。フランスではイタリアへ向かうコート・ダジュールのアンティーブなどで。味は忘れました。香りが日本と違う感じがしたような覚えがあります。
自分的にはフランスパンとハム、牛乳、ピクルスがあれば満足でしたから。

ジプシーさんたちは洞穴などに住んでいる人もいて、近づかず泊まる機会はありませんでした。


それにしても、張景子氏という女性はけしからんですね。プライドとかないのかな?

後に初めて中国を訪ねたとき、現地の人の、あの血走った目つきが今も忘れられません。

それでは、おやすみなさい。
  • 梅のコージ 
  • URL 
  • 2012年12月19日 22時47分 
  • [編集]
  • [返信]

日本はともかく 

独や北欧の人も結構信用があるんですね。それは驚きました。やはり独や北欧といった国々は日本同様特殊なのでしょうね。菊の御紋のパスポートは信用第一でしょう。人の物を盗るという犯罪行為をおこなう人は少ないですし、受けた約束はキチンと守る民族ですからね。

以前東アジア研究家の張景子氏がこういう事を言っていました、「日本のパスポートは世界で一番信用がある。どこ行っても入管の審査は甘いし。だから私は日本人なんか嫌いだけど日本に帰化した。日本に帰化したのは便利だからであって私が中国人である事に変わりはない」って。それくらい信用があるという事ですね。

南仏を北海道に例えたのは見事ですね。南仏は意外ですが緯度でいえば北海道よりやや上という位置ですから、北海道の様な雰囲気になったのでしょうね。

アルハンブラ宮殿は美しいですよね。キリストイスラム文化を融合した建築はまさに芸術的だと思います。この建物を異教徒の物という理由で破壊せずに後世にまで残し、アメリカ大陸を発見したコロンブスを支援したイザベラ女王は素晴しい名君だと言えますが、一方でイザベラ女王とその側近ドミニコ会のトルケマーダは異教徒や他修派から当時最も恐れられた異端審問のやり手というのですから人間の精神構造は複雑ですよね。彼女の一族の子孫が居れば是非会いたいですね~

パリに行くな、という噂がパッカーの間で広がっていたというのは驚きました。パリ市民というのはどこか中華意識と似ていて他を馬鹿にしている部分があるようで、治安が悪く所得が低いと言われる19区ですらそんな感じだそうですから、その噂はある意味的を得ているかも知れません。

質問、南仏では何泊くらいしたのでしょうか? それとフランスのワインは飲みました? それから、ジプシーの集落とかに泊まろうと思った事はありましたか?
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月18日 10時43分 
  • [編集]
  • [返信]

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