3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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YouTubeに古代出雲大社神殿をアップしました。

YouTubeに古代出雲大社神殿をアップしました。

久し振りの動画ですが見てやってください。

神代が終わって人間の時代になろうとした上古、神殿の高さは32丈、96mもあったと伝わっていますが、
その姿形はわかっておりません。幻の神殿なのです。

ピラミッドのパクリと思われるかもしれませんが、そうではありません。
古代文明の黎明期にとって、そのピラミッドは神と人を繋ぐ共通の装置だったのです。

エジプトのピラミッド、メソポタミア文明のジグラート、マヤ文明のチチェン・イッツァ、テオティワカン、そして八雲立つ出雲。ときに太陽を、ときに月はそれらを照らし、人々を畏怖たらしめたのです。

YouTubeの動画ですが、一つお願いがあります。
実はYouTubeの作品をブログから視聴した場合、YouTubeの視聴回数にカウントされません。

ですので、YouTubeのサイトの方でも見て頂くとありがたいです。同サイトで直接見た方がクリアに映っていると思います。

アップした動画のファイルサイズが720×576pでHDサイズ。
テレビのBSが1920×1080pだそうですから、鮮明度が今一つかも。
YouTubeでは1280×720を推薦してますね。
一度アップすると非公開にはできるけど削除はできないのですかね?
もっと鮮明度を上げればよかった・・・反省。

それでは、どうぞ見てください。




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何と公家屋敷の玄関先を撮った古写真があった!

久し振りに、京都府立京都学・歴彩館(京都府総合資料館から名称が変わりました)の所蔵する『京の記憶アーカイブ』を覗いてみたら新しく目にする御殿、公家屋敷関係の古写真があったので紹介がてら載せます。
すでに見られた方はパスしてください。
最近は国立国会図書館をはじめ各地の図書館・資料館で古文書の電子コレクション化が進みネットでも一部見られるようになりました。

では、まず、今回取り上げる屋敷の古写真の位置を航空写真上に示します。
航空写真(公家古写真位置図)
公家屋敷等の古写真を示す図。

例によって赤く囲った所が屋敷の古写真です。

上(北)の方から写真載せます。
同志社女学校-二条家
現在の同志社女子大学の前身・同志社女学校のあった旧二条家の屋敷門です。

門はいわゆる冠木門といわれるタイプですが、これがそのまま二条家の表門であったかどうかは不明です。門の後ろには番所風の建物が見えます。その奥には当時建てられた校舎が写っています。
塀が摂家の跡にしては簡素ですね。別角度から撮った写真が同志社女子大学のHPに載ってます。遠くに御殿も写っています。
京都御所は江戸時代6度の火災に見舞われていますが、江戸初期の万治四年(一六六一)一月の火災時は、時の関白二条光平邸が火元で内裏始め、仙洞御所、女院御所。それから公家屋敷も119棟、社寺、町屋も558軒焼けてます。火災後の復興では譲位した後西上皇の仙洞御所を建てるため二条家は現在の同志社女子大学の位置へ移転。、公家町の外へ出ました。口さがない人は二条家は「関白でありながら」火元になった、と半ば火事の責任を取らされる形で公家町の外へ追いやられた・・・とも言ってますがどうなんでしょう?確かに摂家で同公家町の外に屋敷を構えたのは二条家だけですけどね。

でも公家町の北の境って今の今出川通で正解なんでしょうか?明治10年の「大内保存事業」で現在の京都御苑の区画が定まりましたが、幕末には公家町外にたくさんの公家、そして宮家の邸宅がありました。

二条家の西、冷泉家を挟んで5軒目あたり徳大寺家邸がありました。ここは明治に入って華族會館の京都分館が置かれた所です。
旧華族会館分館門
華族會館の京都分館が置かれた徳大寺邸の門(正確には旧閑院宮邸の門)。

現在でも門だけ残っていますがさすがに旧宮家の門だけあって立派です。明治12年、同會館が徳大寺邸に定まったときに閑院宮邸からこの表門と玄関・車寄せが移築されています。
大正6年には大幅な増改築が行われ写真のような二階建ての豪壮な会館が出来上がります。
(当ブログの記事”霞会館京都支所のこと”でも取り上げていますので良かったら読んでみてください)。

同志社啓真館(旧華族会館)2
和風二階建ての華族會館。

二階には貴賓室があり天皇陛下はじめ皇族方の来臨にも対応できる仕様になってました。

そしてもう一枚の写真の大きな玄関・車寄せ!
同志社啓真館(旧華族会館)1
玄関・車寄せ。

さすがにこの車寄せは閑院宮邸から移築したものではなく上記大正6年の増改築時に新築したものと思われます。豪壮な入母屋の二階建ては330坪もあり、当時は目立ってたでしょうね。

戦後、同會館は同志社大学が譲り受け二階建て建屋は「啓真館」という名称で引き継がれました。ただ残念なことに昭和47年、図書館建設のため解体され今は残っていません。

話は変わりますが、ここ烏丸今出川の交差点の北東角は幕末、公家・竹内家の屋敷でした。で、その右隣が徳大寺邸。會館の立ち上げ時にも、増築時にも、交差点の手前から見た古写真にも竹内の「竹」も出てきませんけどどうなったんでしょう。道路の拡幅や會館の拡張で消えたのかな。なんか徳大寺家の影に隠れてかわいそうです。いくら半家といえども。

烏丸今出川の交差点から少し南に下がり、通りに接した屋敷が公家・石井家の屋敷です。
写っているのは玄関回りですね。


公家屋敷(石井家)
公家・石井家邸。玄関先から撮った公家屋敷は初めて見ました!

玄関の柱には雨どいが取り付けてあって、どう見ても明治に入ってから撮影されたものと思われます。
撮影者は石井行昌。そうです、石井家の当主です。行昌氏が生まれたのは1876年、明治9年です。ということは、この写真に写る玄関は同氏が成人してから撮ったものということですから、少なくとも明治30年を下ることはないかと・・・。京都御苑内ではなかったから残っていたんですね。

石井行昌氏がもうちょっと早く生まれていれば、カメラ好きの徳川慶喜や慶勝(尾張徳川家)さんに並ぶ公家カメラマンとして、もっと幕末維新の京都や公家屋敷を撮りまくり歴史に名を残したかも知れないのに、と残念がるのは私の勝手な早合点ですかね 苦笑。
でも、公家の邸内、玄関先から撮った古写真など一枚も見たことありません。建築史的な面からも、とても貴重な一枚だと思います(他にもどこかの蔵に残っているかも、多分)。

次は御苑の中に入ります。京都迎賓館の上、北あたりに幕末あった准后里御殿の古写真です。
京都府師範学校(准后里御殿)1
准后里御殿の古写真。

准后(じゅごう)とは、朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた方への称号名です。幕末だと誰が相当したのか? 皇女和宮様の妹にあたる淑子内親王も准后の称号を与えられましたが後に桂宮家を継いでいるので違う。想定できるのは、孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母(実母ではない)にあたる九条 夙子(くじょう あさこ)、英照皇太后様かな。江戸時代を通じて、典侍を頂点に御所の高位の女官は自分の屋敷・里御殿を拝領していました。公家町図にもたまに載っている「局」がそれにあたります。里帰りというか退職後の屋敷です。禄150石を賜る女官もいて公家も顔負けです。

もう一枚。
京都府師範学校(准后里御殿)2
准后里御殿の古写真 その弐。

准后里御殿は明治になってから 京都府師範学校として利用されそのため写真も残ったと思います。ただ、学校ですから結構改築されています。門廻りの塀はコンクリートかな?郵便ポストもあります。ホント、あっと言う間に面影は変わってしまうんですね。教室の窓あたりも薄っすら写っています。

最後は御所、公家町の南端、丸太町通を鴨川に進んだ川沿いにあった九条家の河原町御殿の古写真。
英学校及び女紅場-旧九条殿河原町邸
ここも明治初期、英学校及び女紅場(女子のための普通教育、職業訓練の女学校)として転用されたものです。写真で見ると二階建ての長屋と薬医門が見えます。長屋の窓ももう改造されてますね。お隣には近衛家の河原邸があって、近衛家の方の指図は持っていますが九条家のは持ってません。ですので、指図と見比べることが出来ないのが残念。

この鴨川沿いには多くの公家や宮家、藩邸そして下屋敷などが立ち並んでいましたが、不思議と同川の左岸(下流に沿って)にはほとんどありませんでした。右岸より左岸の方が位は上?なのに。やっぱり京童にとっては鴨川を渡ったら洛外ということで、みんな無理してでも洛中が良かったのかな。しかし、防火上の事を考えれば本宅はともかく別宅や下屋敷は洛外に置いた方がイザというときの避難場所にいいのでは?と思いますけどね。と、思いきや、あの江戸時代、京都を焼き尽くした天明の大火の火元は鴨川の東、東山だった!。燃え盛る紅蓮の炎は鴨川さえも防ぎきれない・・・ということか・・・。
今夜はこんなところで。


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『文久改正内裏御絵図』を落札しました!

昨夜11時、ヤフオクで『文久改正内裏御絵図』を落札しました! 
落札額

落札額は5500円。

最初は2000円から始まって最後は5500円。無事落札できました。
入札
入札はほぼ6人ほどの間でデッドヒートし、最終は1万円越えかな、と思いましたが越えずになにより。絵図って結構人気あるんですかね。

落札した絵図は、ちょうど「新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった!」で、証拠材料の一つに使った絵図ですからグットタイミング! 「京都市歴史資料館」の蔵元図に比べれば色落ち、剥離、欠けなど保存レベルは低いですが、それでも当時の生本物・木版刷なので嬉しいですね。サイズも36×50cmと大きいので判読もバッチリ、見て楽しい絵図。(まだ受け取ってないですけど)。
同資料館のに比べれば、左に添え書きしてある禁裏・公家町外の一覧図がないのは残念ですが、とにかく、偶然に生の幕末に触れた感じで良かった!

禁裏御所附近絵図■36×50cm■木版彩色
こんな感じ。

この禁裏・公家町絵図は江戸期を通じて40種ほど出ましたが、そのなかでも文久、慶応のわずか6年間に改訂や新版を合わせると17種も出て当時・幕末の激動と激変をまさに表しています。
これら絵図のなかでも最も爛熟期に達したのがこの「文久改正内裏御絵図」。多色刷を駆使した豪華さ、各屋敷の家領国高、家紋、正門の位置まで描かれまさに江戸の最後を飾る最高級品でした。版元は平野屋茂兵・小川彦九郎で最も人気を博しました。

でも、文久改正内裏御絵図、立て続けに4~5回ほど改訂され、それこそ同じ年に出されたものもあり、月単位の時代特定もままならない代物。

そこで、他の絵図も含め、中院家の変遷をキーワードに幕末絵図を追ってみます(いずれも図の左が北になります)(以下は主に京都市歴史資料館蔵からの引用)

まず、安政2年(1855年)の内裏図から、
安政度内裏図(2年1855年)
安政度内裏図(安政2年、1855年)。

内裏の左上、実際の位置は北東の角が大きく欠けています。これは鬼門封じではなく土地そのものが欠けています。内裏だから正四角形が当然だと思いますが当時はそういうこと気にしなかったんですかね?

次から公家町の推移をみてみます。最初に天保8年、1837年頃の「禁闕内外全図」から。
禁闕内外全図(天保8年・1837年)囲み付
禁闕内外全図。天保8年、1837年の木版。

天保8年、1837年頃の内裏・公家町絵図には公家町内に中院家屋敷が二カ所あります(いずれも赤で囲ったところ)。御所の北東(猿が辻)少し上と御所南下にありますね。

次に、文久3年、1863年頃の内裏図(池田奉膳蔵版)、
内裏図(文久3年1863年)池田奉膳蔵版(囲み入り)
内裏図(文久3年1863年)池田奉膳蔵版)

中院家屋敷は内裏の北東、図で見ると内裏の左上にありますが(赤で囲った所)、もう一つの御所南(新在家町)の屋敷は消えています。隣家の清水谷家と綾小路家に吸収された感じです。文久前の安政2年に同屋敷の一部が返上されていることも影響しているかもです。内裏は北東角地はやはり大きく欠けています。公家町外(下長者町通)に下屋敷はまだありません。

次に、内裏細見之図(慶応2年-1866年)、慶応2年(1866年)のもの。
内裏細見之図(慶応2年-1866年)_囲み

ここでは中院家屋敷は内裏・公家町内に二カ所あります(いずれも赤で囲ったところ)。公家町外の下屋敷はまだありません。御所の南・新在家町(図では右)に一邸、そして御所の北東角、猿が辻と真向いに位置する所にもう一つ。下屋敷的扱いかと思います。ただここの屋敷地は文久3年版の内裏図では有栖川家の屋敷になってました。それが中院家に替わり有栖川邸は御所の道を隔てた直ぐ南に移り、屋敷も大きく拡張大されてます。御所の北東角の大きな欠け地はすでに拡張され正四角形になっています(慶応元年に拡幅された)。そこになぜか中院家の屋敷だけはみ出ています。ただでさえ御所が拡張され道幅も狭くなっているのに何故わざわざここに?、まるで一時的な住まいみたいです。

そして今回落札した、同じ慶応2年に出された文久改正内裏御絵図、
文久改正内裏御絵図(1866年)の中院家
文久改正内裏御絵図。

この絵図では、御所北東の屋敷はなくなり、同じ御所南の中院家邸も消えて新たに公家町外、今回の対象になっている下長者町通(現在の護王神社)に本邸を構えています。
手元の絵図で見る限りはこのような推移になっていますが正直混乱してきました。
改めて中院文庫の拝領記録を見てみると、御所南の新在家町の屋敷は明和2年(1766年)に拝領され、その後、安政2年に(1857年)同土地の一部が返上されていて、慶応2年に新たに下長者町通の屋敷を拝領しています。
ただ、文久3年の内裏図(池田奉膳蔵版)には御所南の新在家町の屋敷は載っていません。でも明治4年の上地令には所有物件として記載されています。拝領の文言には「御届出書」とあるので、上知令が出る前の拝領地の確認だった、ということも考えられます。

また御所の北東・旧有栖川宮邸にあった屋敷は下長者町通の新邸が出来上がるまでの仮住まいだった可能性もあります。上述しましたように立地が不自然ですからね。それと安政2年の新在家町の屋敷の一部返上も本邸を下長者町通に移した理由かもしれません。

下長者町の屋敷の拝領時期が届け出た日付と同じ慶応2年10月とすると、元治の大火には被災していないことになります。個人的には元々ここには、中院家が買得した抱え屋敷があったのでは?と推測しています。ですから大火で焼け、しかも公家町にはほとんど類焼しなかったこと。その辺の経緯があって弱り目の幕府も公家の中で上位の中院家にご機嫌を取る必要があった。結果、中院家でも公家町内では手狭で理想の復古屋敷を建てることは難しく、下長者町通の広い拝領地で実現することにした。言い方は悪いですが、焼け太りを上手く利用した・・・と思うのですが、これって私にとってかなり都合のいい解釈なんでしょうか? 多分、そうですよね・・・。でも何度も言いますが上質な指図を見ていると、そんな思いが付いて離れないのです。

先日、ブログで「被災した」と書いた手前、恥ずかしい次第ですが、まだ拝領の日付と絵図との整合性を確認できてないので訂正に躊躇しているところです。
指図に戻りますが、裏書のトップには代々、江戸幕府の大工頭を務めた中井の名と棟梁とあるので、土地の拝領と屋敷の新築はセットだったのではと思います。今、言えますことは、下長者町通は元治の大火(1864年8月)で焼失していて中院邸の建築が元治以前には遡らないということ。指図が明治4年の上地令の届け出と同じ内容の面積・形状と建坪であること。以上の観点から、「中院家指図は幕末最後の公家屋敷」であることに変わりはないということです。

※追記
今回の禁裏・公家町絵図ですが一つ共通している所があります。なんだと思います?
実は~いずれも北東の鬼門(画面では左上)に触れる公家町地域は見事なほど明地になってます。公家町の外に家を持ち御所に通うのも大変だし、ここに引っ越してきたら・・・と思うのですが誰も戻りません。家相にそれほど拘らなかった江戸時代でも鬼門だけは頑なに恐れたんですね。260年間も明地だったとは、驚きと同時に誰も「貧乏くじ」を引かずに済む平等?なんかお公家さんらしい平和な時代でしたね 笑。


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新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 後編

後編となりました。
後編では中院家の指図に集中します。

さて、問題の中院家の指図ですが、
先回も書きましたように京都大学の「中院文庫」のなかに所蔵されています。
中身は「当家拝領屋敷」として、明和度下屋敷一袋にまとめられています(図はクリックするとどれも拡大します)。


中院家下屋敷明和度下屋敷一袋(表紙)


年次的には明和度(1764年)から慶応2年(1866年)にかけて行われた中院家・拝領屋敷の替地の記録と、替地を証明する禁裏付き武家等の裏書きした証明文を添え、それに屋敷指図が二つ差し入れてあります。
正直、替地の流れが順不同な所もあってわかりずらいです。
要は公家町における中院家の屋敷の移転を記録したもので下屋敷も幕末には本邸扱いになるなど一定ではありません。基本的には中院家は屋敷を二つ抱えていました。

その点について、中院家の場合も江戸時代、数十と発行された内裏・公家町の絵図から移転の流れを確認した方が掴みやすいと思いますので、同絵図をもとに簡単に中院家の推移を書きますね。
まず、延宝5年(1677年)の絵図には内裏の北東、鬼門(猿が辻)近くに屋敷がありました。下屋敷は見当たりません。次に宝永6年(1709)のものには、鬼門近くと当時の譲位後の東山院の御所(内裏の南)の南側にある屋敷と二カ所ありどちらが本邸か今いちよくわかりません。天保8年(1837年)も東山院の旧地が御花畑と言われる明き地になったせいもあって御所南の屋敷については少し南に移転しましたが公家町に二軒屋敷を所有しているのは変わりありません。

それが文久3年(1863年)になると、御所北東の屋敷は変わらずありますが、御所南側にあった屋敷が消えています。ただ公家町から烏丸通を隔てた下長者町(現在の護王神社)には新たな下屋敷がすでにあって二邸所有には変わりありません。
三年後の慶応2年(1866)になると御所鬼門の邸も消えています。これは内裏の北東面が大きく欠けていたのを正四角形(猿が辻は除く)に拡張したことによる立ち退き。中院家は度重なる替地によって公家町からはみ出てしまったのです。
でも、その分というか、公家町外の下屋敷(事実上の本邸)が1172坪の面積へと拡張しました。


文久改正内裏御絵図(1866年)の中院家
文久改正内裏御絵図(1866年)。


赤で囲った所が公家町からはみ出た中院家屋敷(文久改正内裏御絵図より引用、 慶応2年頃。京都府総合資料館所蔵)。家紋入りなのでここが実質本邸。現在の護王神社の境内が屋敷地だった。

この拡張には元治元年(1864年)の禁門の変による兵火で京都の南・今の京都駅あたりまで延焼した際、内裏・公家町のほとんどは類焼はなく無事でした。しかし中院家は戦いの中心部・蛤御門に近く公家町の外だったことも手伝って焼失してしまいました。(前編で掲載しました京都指掌図 文久改正の元治の大火図を参照してください)。

公家町からは追い出され(結果的)、火事には遭うはでとんだ災難でしたが、さすがに幕府・朝廷も捨て置けず同下長者町の屋敷を改めて拝領する形で拡張しました。焼け太りといったら失礼ですが、建物もかなり立派なものに再建されています(指図から見るに)。

では、新屋敷の御殿はいつ建てられのか? 
まず拝領し直し敷地が拡張されたのが慶応2年10月(1866年)。

中院家下屋敷届け出(1172坪)


再拝領され拡張された烏丸通下長者町の宅地図。敷地は1172坪で西側の凸を除いて南北34間、東西32間のほぼ正方形に近い敷地形状です。東側が御所と接する烏丸通、正門もこの通りに接しています。地番に拾九番組とあるのは明治以降の小学校の校区を番号毎に割り振った番組制のことを言い、江戸末からその原型がありました。御所の西あたりはちょうど19番組にあたりました。

中院下屋敷南側替地裏書(慶応2年-1866年)

上記拝領を証明する裏書の内容です。慶応2年とあります。


そして、再拝領された屋敷を一枚に分かりやすくまとめた敷地図。

幕末中院家下屋敷の敷地図

どうでしょう?

改めて指図をアップします。
中院家下屋敷指図(明治4年)

拝領した屋敷地の面積と形状、そっくりではないですか?
というかまったく同じです 笑。

敷地的にはピッタリ符号しますが、
じゃ、肝心の建物はいつ? となる訳ですけど・・・。

当時の時勢を時系列にみていくと、
慶応3年10月14日(1867年11月9 日)、徳川慶喜によって朝廷へ大政奉還がなされる。
明治元年/慶応4年1月3日から 6日(1868年1 月27日~ 30日)、鳥羽伏見の戦い。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。そして明治4年に政府から上地令が出され京都の公家・藩屋敷が収公される。

と、まさに風雲急を告げる幕末・明治維新です。建てる時間などあったのか?と疑問さえ出てきますが、それでも時期を探っていくと、慶応2年10月の屋敷拡張から慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いが始まる前の僅か一年と数か月の間しか建てるタイミングはなかったのではないかと思えてくるのです。この間には大政奉還もあって、公家の間には不安と同時に維新という時代への高揚感はあったと思います。ですから、一気に建てたかもしれません。

それでも、本当に指図にみるような立派な公家屋敷が再建された?
と半信半疑な気持ちに一つ終止符を打ったのが
明治4年に布告された上地令。京都府総合資料館で保存している「華族建家坪数控」に記録されています。

中院家1
「華族建家坪数控」の中院家の文面一枚目。

中院家2
「華族建家坪数控」の中院家の文面二枚目。

この布告により京都の公家屋敷や諸藩の屋敷も政府に収公されることになりました。
各屋敷から土地面積と建坪を記した申告書が出されました。
中院家の屋敷も当然、届け出がありました。
このときの土地面積と形状、そして建坪が指図とピッタリ一致するのです!
とくに主屋の建坪、それに二階も。後の付属屋も土蔵と納屋の違い、あるいは一部の改変などあると思いますがほぼ同じ面積。


申告ですから出鱈目は書けません。
現実に幕末最後に建てられた公家屋敷。しかもその指図が残っていた!


そう私は結論付けました。

さぁ、ここから指図の中身について自分なりの意見、感想を書いていきます。

まず、指図についてエリア分けしたものを載せます。
中院家下屋敷指図(明治4年)_色分け

青で囲ったエリアが公家空間黒が書院造エリア緑が家臣、家政エリアそして赤がプライベートな奥向き空間。ざっとこんな感じに分けることができると思います。
全体的な特徴として言えることは基本は書院造ですが寝殿造をイメージさせる雰囲気が全体的に漂っていることです。

現在の京都御所は焼失により安政度(1855年)に建てられたものですが、そのベースとなったものは寛政度(1790)の御所です。寛政度のものは公家の裏松光世による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式でとくに紫宸殿と清涼殿は平安の寝殿造を基調としてました。それが安政度にも踏襲された訳ですが、これは何も御所だけのことではなく公家の世界でも自らの矜持とアイデンティティを見出すため平安への復古思想には強い憧れがありました。具体的には摂家住宅の寝殿や中門廊に寝殿造の様式を取り入れました。ただ実際にそこで住むのではなくもっぱら儀式空間、公家の体面としての建物でした。実際には寝殿と書院が併存する形をとりました。やはり住むには畳が敷かれ建物が幾部屋にも仕切れる書院造りが便利だったからでしょう。
寝殿造と書院造りの違いは何? 単純に思いつくのは寝殿造は板間、天井がない(化粧屋根裏はある)、御殿の間仕切りがなくワンルーム。建物の主(あるじ)と用途に従って建物が対になり渡り廊下で繋ぐ。渡り廊下は中門廊を経て泉水の釣り殿・泉殿に至りそこで遊興を楽しむ、というイメージなのですが、近世の書院については、上記とダブりますが、たとえば常御殿のように一つの御殿で起居し飲食し応接し学問に励むといった、御殿を幾つもの部屋に仕切って実用的に住む、そんなイメージを抱きます。

今回の中院家の指図を俯瞰すると各御殿が渡り廊下で繋がれ、寝殿もあり片翼だけど中門廊も付いているなど、少しでも平安の復古と雅を表現してみようという一般堂上公家の意気込みが伝わってきます。

それでは指図から描き起こした間取りに従ってご案内します(例によって現代なら不動産価値にしていくら、などと下世話なこと書いてますがご容赦を)。描き起こした間取り図。
中院家指図描き起こし図(2018-02-04訂正)
中院家指図から描き起こした2D図。

烏丸通、東側から正門である四脚門を潜ります。四脚門は門のなかで最も格式の高い門と、とくに平安の貴族には好まれましたが、この中院家の門は、門が塀から少し奥まった所にあり両脇を袖塀が囲むという、まるで格式の高い寺のような格調と威厳があります。当時の公家町のなかでも珍しかったのではと思うと同時に、やはり中院家の公家屋敷の本領に拘る意地を感じますね。

門を抜けると素直過ぎるほど真正面に玄関・車寄せがあります。まさに武家好みの書院玄関です。南側下には番所、その南には輿車舎があります。主人のための牛車、あるいは輿を収納するスペースです。ここにも拘りがあります。ちなみに牛車ですけど、平安の貴族に好まれた牛車ですが、室町の武家の世になってからは将軍だけしか乗れないようになりました(こんなこと考えるのはきっと義満だな)。

そうそう真南になんと台所があります! 現代の一般住宅ではあまり考えられないことです。夏場、食べ物腐ったりしなかったかな・・・と、思わず心配してしまいますね。当時は家相など鬼門だけは重要視しましたがそれ以外はとくに拘りなし。敷地が広く拝領屋敷ということもり、間取りはけっこう自由度があったみたいです。

北に向きを変え車寄を横目に中門を潜ります。ここから寝殿にかけてがまさに寝殿造のアイテム。本来ならここから東側にも中門を挟んで渡り廊があり釣り殿に繋ぐという按配なのですが、そこはいろいろ制約がありここでは片翼の中門廊だけ。でも意気込みは感じます。きっと、儀式などでは牛車(輿)で中門を潜り寝殿正面の階(きざはし)に横付けしそこから昇殿という流れだったと思います。ちょっとマニアックな事いえば、隣の書院内の廊下は畳敷きです。一方、寝殿は板間です。こんなところにも違いを見せています。また寝殿には当たり前かもしれませんが床の間がありません。書院と横並びしているのも面白いですね。

中院家指図描き起こし図拡大(2018-02-04訂正)
2D図の主要建物の拡大図

玄関から入った中は定番通り使者の間、家臣の詰所があります。ここを通り書院へ案内され対面したのでしょうね。そして時には客人に所望されて寝殿を案内し公家自慢をしたことでしょう。あの、書院の西側ですが壁全体が床の間・飾り棚・押し入れになっています。指図の読み間違えかなぁ? でも間違いではない。書院としては珍しく片側が一面壁なのですね。多分、当主の居間が覗けないようにしたのかも。書院南の詰所は家臣の控えの間であり、主人や奥向きへの警護の面もあったと思います。書院に南廊下側にはトイレ、廊下を挟んだ南側にはお風呂もあります。客人用なのでしょうね。こんな所見ると、やはり、書院の方が実用的なんだよなぁ・・・とも思います。ちなみにトイレ・風呂については当主の奥向きの居間、奥方や家族用、女中衆用と別れているところが面白いですね。でもトイレはともかく一般家臣の風呂はない? やはり当時は宿直の家臣・下男以外は通勤勤務だったんでしょうね。女中もそんなにはいなかったと思います。長局的な建物がないですからね。ただ、南西の端の中居間には二階がありそこで女中・下女など寝泊まりしていたと思います。場所的に物見でもなく、数寄・遊興空間にも見えないですから。

奥方の御殿は独立してますね。きっと、寛いだことでしょう。廊下を挟んで家族の部屋もあります。
北側には当主の居間があります。ここも独立していてここだけで暮らせます。夫婦ケンカしたときなど顔を合わせなくてもよいから都合いいですよね 笑。当主の居間からは四畳半の茶室とご先祖様を祀る小堂があります。四畳半といっても京間ですからイメージより広いと思いますよ。親しい方などここへ招いてお茶をご馳走したことでしょう。

再度、南端の台所を見ます。入口には女中の詰所があります。姫や若様もきっとここで一端足止めされたことでしょう。ここは台所と女中部屋があって一番賑やかというかうるさい場所だったかも。当主や奥方・家族のための奥向きの台所を上台所といい、東隣の下台所は一般家臣・下男用かな。大勢が食べられるよう食堂もあります。上台所には裏玄関もあります。奥方などここからコッソリ買い物など行ったかもです。すぐ傍には役所があります。どんな役所?俗に言う「広敷」のような日用・生活雑貨の管理・金勘定などしていたかもしれません。板間を挟んだ南には届口があります。ちょっと判読しがたかったので正確ではありませんが、直ぐ後ろには出入り口もあるので、届け物は一端、ここで受け取ったかも、です。後、台所も含め所々井戸、手洗場も、主屋の周りは米蔵はじめ土蔵や納屋が点在しています。南端には下男用の長屋があります。トイレもあります。塀隠し?もあります。

一つ思ったのは、トイレがいずれも主屋に繋がっていること。まったくの外ではないのですね。幕末ともなると今の生活に近いような暮らしがあったかもしれません。ただ汲み取りでしたから臭ったかも。でも、そこはお百姓さんたちが喜んで引き取っていったことでしょう。

以上、中院家の指図を見ながら当時を思い描き邸内をご案内しました。



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新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 中編

中院家指図の核心に入っていく前に(大げさかな)、中院家についてどのような公家さんなのか少し触れてみたいと思います。
中院家(なかのいん け、と読みます)は、大臣家の家格を持つ公家。摂家、清華家の次に位する立ち位置で同じ大臣家には嵯峨家(正親町三条)、三条西家、そして中院家の三家あります。摂家が5家、清家家が7家。その後に続くわけですから公家のなかでは中の上クラスですね(中院家の方、失礼な物言いですみませんね)。村上源氏久我家支流。内大臣源通親(土御門通親)の五男通方を家祖とします。家名は、嫡流久我家の4代雅定が中院町(六条室町)に住んで中院右大臣と称したことから中院家と称するようになったそうです。

中院家系図(旧華族家系大成・霞会館)2
中院家系図 旧華族家系大成・霞会館編 より引用。


家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実。江戸時代の家禄は初め300石、後に加増されて500石。明治維新後は伯爵に叙爵されています。家格的には太政大臣にまでなれる家系ですが実際には摂家が独占し、唯一、江戸時代に中院通躬という方が右大臣になっています。
公家の経済が苦しくなった室町中期に当主だった通守は、経済的に困窮したことから朝廷の重要な祭儀にも十分奉仕できず、家名を辱めることを恐れ自害までしています(応永25年・1410年)。戦国時代に入り、家領のある加賀で一向一揆が頻発すると、年貢を確保するため当主三代に渡って加賀へ下向。そのうち、通世・通胤の二代は在国のまま没するなど、家名を守るため苦労が絶えなかったようです。

江戸時代になってやっと落ち着き家禄も300から500石へと加増。500石というと公家のなかでは上位に位置します。千石を越えれば摂家クラス。近衛家など家禄は2860石ですが実際の実入りは1万石以上あったとか。
ちなみに前にも書きましたが幕末の近衛家の幾つもある屋敷のなかで、御苑内の本邸は敷地7千589坪。そこに瓦葺の主屋1531坪、二階住居119坪、杮葺きの平屋317坪、主屋だけでも計2000坪ほどあります。
これに長屋や物見、土蔵などの付属屋を加えると合計建坪2700坪ほどにもなります。公家屋敷としては別格です。
あの江戸城本丸の敷地が3万5000坪ほど。そのなかに御殿が1万2000坪前後を占め、その中でも大奥は6000坪といかに大奥の存在が大きかったかが分かりますが、その江戸城本丸御殿と比べても近衛家の屋敷は十分広大だったと思います。なんせ、徳川幕府の所領は400万石。近衛家はその千分の一にも満たないのですから。
後、九条家も別格。本邸敷地は1万坪を越え付属屋を含めた御殿建坪は4000坪を越えたとか。
この両家だけでも現在の京都御苑に残ってほしかったですね。桂宮御殿も二条城に移築せずそのまま御苑内に残してほしかった。これも残念。

後ほど詳しく説明する中院家の指図ですけど、
上記の流れで屋敷面積とか書きますと、御苑内の本邸は662坪ですが、今回の対象である下屋敷は1178坪あります。敷地が千坪を越えると公家の上位になります。建坪は合わせて386坪。これも上位にあたります。公家の平均的な敷地坪数は300から600坪。建坪は150坪前後。蔵米30石の最小家禄のお公家さんだと100坪を下回ります。また敷地自体が100坪にも満たない公家さんもいます。

現在、国の重要文化財になっている冷泉家住宅ですけど、幕末期で家屋敷が二邸ありました。内、本邸(現在に残る屋敷)の面積は494坪。重要文化財になっている建物部分は主屋が147坪、土蔵六ケ所で28坪、物置・長屋等で20坪、合わせて195坪。
中院家と比べると敷地で684坪少なく、建坪だと191坪少ないです。単純に主屋同士で比べると中院家311坪、冷泉家147坪と中院家の方が倍以上あります。昨今の分譲住宅が延床で30坪平均ですから、中院家はその十倍ということ。
何が言いたい?かと申しますと、要は中院家屋敷が残ってれば冷泉家以上の文化財的価値がある、ということです。これも後ほど書きますが、幕末の王政復古が広がるなか、摂家を除いた一般堂上公家が京都御所と同じようにどこまで平安の寝殿造の復古を実現したのか?
その点から見ると、中院家の住宅はかなり復古形式に拘った形跡があるのです。つまり公家屋敷とは、いかに寝殿造の要素を残しているか?に尽きると思います。それが冷泉家住宅より価値がある、という私の考えです。残っていたならば・・・という切ない仮定のなかですが・・・・

だらだら書きましたが、もう一つ中院家について書きたいことがあります。
これは現在の皇室の皇統にも繋がる面があるからです。


以下は、評論家・歴史作家の八幡 和郎氏の著書「男系女系から見た皇位継承秘史」を参考に自分の考えも含め書いてみたものです。

現在、皇位継承権を持つ皇族の方は、次代、天皇になられる現皇太子殿下、次に秋篠宮殿下、そして同秋篠宮ご夫婦のご長男である悠仁親王殿下の順となっていますが、悠仁様以外には宮家も含め継承権のある男系の親王・王がいないのが現状です。このままでは皇統断絶の危機さえ危ぶまれます。
その解決策としては女系天皇を認めようとする勢力、将来に任せよう、という日和見派、一方、旧宮家の皇族復帰を願う国民もいます。私もそのひとりです。
旧宮家11家は、元を辿ればすべてが南北朝時代に世襲宮家として立家された伏見宮家のご子孫が明治になって分家する形で宮家が成立したもので、女系賛成の方からみれば、現皇室と血の繋がりが薄い伏見宮系の天皇を頂くのは、あまり意味がないようなことを言っていますが、その伏見家には歴史上、幾度も天皇の皇女が降嫁。明治天皇の皇女の方々も分家された宮家の方々と結婚されてます。伏見宮家は世襲宮家としてイザという時に皇位を継げられるよう男系男子を守ってきました。そこへ時々に皇女が降嫁されることで、天皇家との繋がりをより深くしてきた、というのが皇室の伝統です。伏見宮系では今の天皇と血統が薄すぎると言っている女系・女性天皇賛成の人達は、まさに女性の皇女方が伏見宮家へ降嫁されてきた歴史についてはどう思っているのでしょう?。

宮家とは別に、
江戸時代には皇子などを摂家など有力公家の養子にするということが行われていました。たとえば、秀吉の聚楽第行幸でも知られる後陽成天皇はふたりの皇子を摂関家に養子として出しました。そして、それぞれ近衛信尋、一条昭良と名乗りました。
また江戸時代、新井白石は世襲宮家を増やし皇統をより堅固なものにしようと、新たに閑院宮家を創立しました。初代は東山天皇の皇子・直仁親王です。で、その子息が鷹司家を継いで鷹司輔平となりました。第119代天皇の光格天皇はその閑院宮家の出身で、現在の天皇陛下の直系の祖にあたられます。
伏見宮では血筋が薄いということであれば、同じ閑院宮家出身の鷹司輔平系の方が現皇室とは血統が近いということになります。そこはいくら血筋が近くても世襲宮家と臣下の公家では身分が違う、という人がでてきたら、だったら、天皇家へ一旦、猶子として入り改めて宮家を継ぐ。あるいは創設する。
あのNHK大河で篤姫が将軍家へ嫁ぐ前に近衛家の養女に入り、近衛家の娘という形で江戸城へ入ったのと同じで要は箔をつける、ということです。身分は違っても男系であることに変わりはありませんから。

そして、摂家へ養子に入った近衛家、一条家、鷹司家からは、また、それぞれ子が公家の養子に入るという繋がりで実は天皇の男系の子孫は多くいるのです。
ざっと挙げるだけでも華園、梶野、徳大寺、住友、室町、山本、千秋、常磐井、水谷川、醍醐、東儀、北河原、佐野、南部と公家を中心に大名、さらには地下官人の家までに及んでいる。単純に言うならば、これら子孫の方のほうが旧宮家より血筋的には近い。でも、何度も言いますが宮家ではない。
だったら旧宮家の方は?これも明治以後15家ほど臣籍降下され華族に列している。この方々もれっきとした男系子孫です。
でも臣下だろう?臣下からまた宮家に、皇族に復帰できるの?
と問われるなら、答えは、ハイ出来ます、です。歴史上、皇籍復帰された方も多くいます。源氏物語の光源氏も臣籍降下しましたが、後に嫡子が冷泉天皇になると、自分の父が臣下であることは耐え苦しく思い、光源氏への譲位を懇願します。しかし光源氏は固辞し、仕方なく冷泉帝は臣下を越える准太上天皇の位を父に授けた、という風に何も特別なことではないのです。

前も書きましたけど、直宮、宮家から臣籍降下した元皇族、さらに皇室に近い男系子孫と100位まで皇統譜を作り公布すればそれでご皇室は安泰、と私は思うのですが、単純過ぎますか?

そうそう、忘れていました。上記の男系公家には今回の中院家も含まれます。
ちょっとややこしくなりますが、戦前、最後の元老と言われた西園寺公望は徳大寺家の出身です。父の徳大寺公純は上記した皇別摂家の鷹司政通の子です。で、さらに徳大寺家からは子息が中院家へ、住友家へ養子に入りそれぞれ中院通規、住友吉左衛門公純を名乗り養家を継いでいます。

今回の中院家文庫に含まれる中院家指図は、住友家、中院家それぞれから寄贈された「中院家文庫」に含まれているものであり寄贈本、文献には住友吉左衛門の印が押してあります。
中院文庫には『中院一品記』を始めとする歴代当主の家記や有職故実の記録をはじめ、和歌の二条派宗匠の家系の一つでもあったので歌道に関する文献も多く、日本史や国文学を研究する上での貴重な史料群となっています。

以上、ざっと書きましたが、なんと言うか指図の解説の方はタイミングを逃してしまった・・・。
確か詳しく詳説すると書いたはずでしたが、申し訳ないですが次回にします。今回は、中院家及び皇統について私見を述べた中編とします。失礼しました。



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