3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

Entries

山陰の旅 萩、秋吉台、山口編

旅も四日目、ついに維新回天の地・萩に到着しました。ここも是非一度訪ねたいと思っていた所です。いつか行ってみたいと思っていたら歳月ばかりが流れてしまった・・・そんな距離感を感じさせる観光地の一つだと思いましたね。地理的にも不利かな。市街自体には前日の午後には着いてました。

萩の第一印象は、日本海の内湾に面した自然豊かで穏やかでのんびりした地方都市。ここが維新胎動の長州藩の地、吉田松陰や高杉晋作、木戸幸一、伊藤博文など幕末を代表する志士たちを輩出した土地とはとても思えないほど、幹線から外れた、はっきり言って「外れ感」のある小都市でした。だからと言って期待外れとかそうではなく、いい意味で城下町の風情を濃く残す街並みに魅了されました。この街はレンタサイクルにでも乗って市中をのんびり漕ぎ歴史に触れる、そんな滞在型の観光地であり、旅するバックパッカーたちにとっても一時のたまり場に最適? そんな国内的にも珍しい土地だと思いましたね。。

萩の菊が浜の澄んだ美しい海岸線を眺めていると、かつて、ここで英国と下関戦争が行われ、砲艦が飛び交った? 尊王攘夷を主導し京都の政局を握った? 長州征伐をめぐって藩内で主戦派と恭順派が血みどろの粛清が行われた?。 それら歴史上の出来事がまるで嘘のように感じられます。

元々、毛利藩は関ヶ原の戦いで負けたこともあって藩庁を日本海側という辺鄙な萩に置きました。幕府への遠慮もありました。それが幕末動乱を迎えると萩では藩をまとめることはできず山陽側の山口へ移転。その結果、萩は維新、明治以後の本流からは外れた都市になりました。まぁ、それゆえ、今も城下町の雰囲気をよく残している訳ですが。また同藩は関ヶ原で負けたこともあって領地が120万石から一気に四分の一の30万石に減らされました。しかし家臣団はリストラせずそのまま多くを抱えました。

そんな背景もあって、萩藩の大身の家臣たちの武家屋敷が並んだ堀内地区(旧萩城三の丸)も、萩では城下町の雰囲気を一番残していると言われますが、家老の長屋門や物見矢倉、長州独自の土塀も冬の日本海の風雪にさらされてきた面もあって所々塀は崩れ門も傷んでいて、大藩の割に地味で華やかさはありません。どこか退嬰の儚さがあります。多くの家臣を抱えて質素倹約に励まざるを得なかったのでしょう。また幕末に藩庁が山口に移され多くの藩士も移住、建物も移築されたことも、萩の寂れていった大きな主因でもありました。もう一つの菩提寺・天樹院は明治になって廃寺の憂き目にあってしまいました。

どこまで本当かわかりませんが、長州藩では正月の年賀のとき、家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は「時期尚早」と答えるのが習わしだったという、流説を聞いてますが、実際、萩に来てみると、「そう言いたくなる気分」は肌身に感じますね。だから藩士たちの鬱屈した気持ちが幕末一気に「志士」として吹き出たのでしょうね。

萩市域に入り最初に訪れたのは市郊外にある東光寺。藩主・毛利家の菩提寺でここは珍しく黄檗宗の寺であり、地方寺院には少ない立派な大雄宝殿や三門等の重要文化財も残りぜひ拝観したいと思っていました。境内へ入ると、意外に雑草に覆われ所々蜘蛛の巣や建物の傷みも散見され、「ここ、ひょっとして住職さん無住の寺?」と訝しむほど境内はちゃんと管理されていない雰囲気でした。市の予算が足りずここまで手が届かないのかな・・・?。(写真はクリックすると拡大します)



東光寺大雄宝殿
ちょっと荒れ気味の東光寺大雄宝殿



毛利家墓所
毛利家歴代墓所


幕末、藩庁が山口に移されたことも遠因でしょうね。明治になって廃仏毀釈の嵐のなか、薩摩藩など藩主の菩提寺さえ消滅してしまいましたが、まだこちらは残っているだけマシかな、とも思いましたね。

で、次に松陰神社を参拝しました。あの有名な松下村塾も見学しその小さくて質素な建物に驚きましたが、境内全体の雰囲気は東光寺とは打って変わって立派に整備され観光客も多く賑わっていました。やはり萩は殿様でなく松陰たち志士が主役の土地なんですね。

松下村塾
松下村塾
松下村塾内部
松下村塾内部



後、いろいろ史跡が多すぎて回りきれず木戸孝允旧宅や高杉晋作誕生地は割愛しました。そのなかで屋敷全体が揃って残っている豪商の「菊屋家」は尋ねました。自分も建築が好きですからね。ここもやはり商家関連の民俗資料や生活全般の当時の什器や道具、家具調度品や美術品がガラスケースの奥に展示されているのでなく、当時、どのように使われていたのかがわかるよう部屋毎に置かれていました。リアル感ある見学でしたね。

菊屋庭園
菊屋庭園
菊屋室内
菊屋家室内
菊屋の蘇鉄
菊屋家の蘇鉄

日本庭園に蘇鉄が植えられるようになったのは室町時代の将軍・足利義政のころからと言われています。桂離宮にも蘇鉄が散見されますが、どうも当時の上流階級にとって南洋を思わせるエキゾチックさが気ごころを誘ったみたいですね。ちなみに蘇鉄を植えると縁起が悪いといいますがどうなんでしょう?菊屋さんの蘇鉄はとても立派ですね。ここまで育つのに何年かかったんだろう?


萩市街には武家屋敷の跡をとどめる塀や門は多く残っていますが、実際に住んでいた居住区、母屋の残っている屋敷は少ないです。とくに家老などの重臣屋敷については皆無に近いレベルです。


萩の土塀
萩の武家屋敷町の土塀




ですから宿泊先のホテルも含まれる堀内地区(旧萩城三の丸)の鍵の手道を自転車であてもなく巡り、土塀や門、生垣や果樹、花を眺めて風情に浸りました。なかでも口羽家の長屋門や長さが51.5mもある旧厚狭毛利家萩屋敷長屋、旧福原家萩屋敷門など見ました。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

萩城模型
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の室内になぜか萩城の模型がありました。




復元された萩城総門
復元された萩城総門


さぁ、萩の歴史の中心.萩城跡を見学。ここは天守閣や櫓も残らず石垣だけの城(最近、総門だど復元)。物足りといえば物足りないのですが、ここは観光客も少なく緑豊かな城内には庭園跡や茶亭、堀沿いの道を自転車で散策するのはとても気持ち良かったですね。城内の石垣を左に折れ右に折れ進むと、二の丸東側の潮入門跡を出ると突然、萩の海が目に飛び込んできて、この開放感!素晴らしいものでした。岸に寄ると海の水はとても澄んでいて感動しましたね。全国、城多しといえども、こんなに城近く澄んだ海岸が接している城はここ萩城だけでしょうね(沖縄のグスクはあるかも)。ここの小浜、砂浜を仕切る石垣には一部銃眼のある塀が復元されていて、大河ドラマの「花燃ゆ」のロケ地にもなりました。ここはおススメです。


萩城跡
萩城天守台跡



萩城東園御茶屋庭園跡
萩城東園御茶屋庭園跡


萩城小浜の海
萩城潮入門跡をでると小浜の海が見えます。水が透き通っています。


萩城小浜
萩城小浜の銃眼付塀。ここは「花燃ゆ」のロケにも使われました。


城内の旧本丸跡には歴代藩主を祀る志都岐山神社が鎮座していて、そのすぐそばに「福原家書院」が旧地の三の丸から移築され残っています。福原家は代々家老を務め家禄1万1千石の大身の身分でした、万石を超える家老の屋敷また書院等の居住部が残っているのはたいへん珍しく貴重です。ところが、実際に見た書院は古ぼけていて数年後には朽ち果ててしまうのではないか・・・? と心配になるほど(ホントかなり心配)手入れされてません。江戸時代の寺の書院などくさるほど(言い方すみません)ありますが、武家屋敷、しかも万石クラスの武家書院は建築史的にもとても貴重であり早急に修理してほしいです。


福原家書院
今にも崩れ落ちそうな福原家書院


後、萩焼の工房も訪ねマッグカップとか買いました。萩焼は素朴な感じがいいですね。でも歪み度は全国一かも?

さて、ここまで書いて気付くのは、私の旅日記には食べ物が出てこない・・・。正直、グルメではなく会社役員をしていたとき、接待やお付き合いでそれなりにいろんな食を体験したのでもう思い残すことはない。ただご飯とみそ汁だけでいいような気分です。元々、学生のときに二週間ほど断食修行したこともあるほど、いかに食べ物の欲から解放されるか・・・と、今から思えばバカなこと考えていたなぁ、と振り返ってます。肉も好きではなかったのですが今は家族から説得され食べるようになりました。ですからブログに食べ物が出てきません。もっとも当ブログにそんなこと期待してる方は皆無に近いと思いますけどね 笑う。

ただ、ここ数年はゼリーにはまってます。とにかく大好きでスーパーでまとめ買いしたりするんですけど、毎回、レジで精算するとき恥ずかしいです。しかもマンゴ味ばかりですから。とくに若い女性の前では。何となくゼリーは女性の食べるもの、みたいな感覚があるからなんですが、「おまえが勝手に恥ずかしがってるだけでレジの女性などな~にも思ってないよ」というのが真実だとは思いますけど。自意識過剰かな。これから冬、店頭にゼリーが無くなっていく季節です。買いためておかなければ、と熊みたいなこと考えてます。

閑話休題。

萩を後に秋吉台へ向かいます。四国カルストは見たことはありますがここは初めてなので期待してました。秋吉台は秋芳洞の方が人気があるのかもしれませんが、鍾乳洞は以前、中国東北部の遼寧省(吉林省かも)にある巨大な洞窟を舟にのって進み天井からは滴がどんどん落ちてきてびしょ濡れになる、という経験をしたので、今回はパス。広大なカルスト台地がお目当てでした。

で、いよいよ山道を車で上り台地の入り口に到達したとき、もう感動しましたね。うねるような広大な大地にカルストの無数の矛がそそり立っている。これは完全に信州の霧ケ峰や美ヶ原を越えていると思いましたね。すぐそば秋吉台カルスト展望台があってここからの景色も素晴らしい。でも実は展望台を後にルート242号線を走る先々にもっと素晴らしい景色が見渡せましたが残念ながら途中停まれる駐車スペースがなかったのであっと言う間に景色が過ぎ去ってしまいました。残念。


秋吉台
秋吉台


でも、ほんの数分でも感動できたので今回はそれでよし、として、最後、山口市へとひたすら走る。

瑠璃光寺の五重塔は背後にこそ高い杉・檜に囲まれていましたが正面はないのでよく見えました。写真でみるとおりプロポーションもいい品のある素晴らしい塔でした。近くで見ると軒、柱と屋根を支える組ものの斗栱の構造もかなりシンプルで派手さはないですけど、それを補って余りあるほど、美しい塔身です。あぁ、見学できてよかった!。


瑠璃光寺五重塔
瑠璃光寺五重塔


瑠璃光寺五重塔アップ
瑠璃光寺五重塔の軸組。



で、もう新山口駅へ行ってレンタカーを返し新幹線に乗るだけ。
窓外に見る山口の市街はなんか品があるんですよね。かつては戦国大名の大内氏の拠点で小京都と言われた名残が今もそこはかとなく残っているんでしょうね。

それから山陽新幹線をひたすら東上、沿線ぞいの都市や住宅地はけっこう平地が少ないため山の方まで家が建て込んでいますが、不思議とそれが見ていて違和感がない。逆に高台を活かした造形的な面白さが感じられました。一つ一つはバラバラなのに、たとえば坂の町、尾道のように全体としてみるといい。美しいというよりも、街並みが山の形状に沿っているから結果的に統一感のある都市に見える。また山陽の個々の家もセンスの良さを感じたこともプラスしてるかも。この雰囲気は神戸まで続き、中国地方のハイカラさんはここでお仕舞です。




関連記事
スポンサーサイト

山陰の旅 日御碕、松江、津和野編

出雲大社の参拝を終え、日御碕神社へ行きます。島根半島の岩場の続く西海岸をほんの十数キロ、半島の西端にあっと言う間に着きました。こちらの神社は大社とは打って変わって鮮やかな朱塗り造りの社殿。ここは出雲大社の祖神にあたるところだそうです。ここには下の本社(日沈の宮:祭神は天照大御神。伊勢の天照大御神が昼を守る立場なのに、なぜ宮の名が日沈の宮?)と上の本社(神の宮:祭神は須佐之男命)の二つの本殿からなり、日沈の宮の名の由来が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し日御碕神社は夜を守れとの勅命を受けたのが由来だそうです。


日御碕神社下の宮
日御碕神社下の宮の拝殿と本殿


日御碕神社神社については出雲神話まで遡ると、また、とんでもない紙幅を占めるので何とか簡潔に書かなければと思うのですが・・・、いや詰めよう。同神社を訪ねたときまず印象に思ったのは、海岸沿いの高台を走る車道から谷へと下っていき狭い平坦地に鎮座していることでした。神社というと、背後の山をご神体とするなど下から見上げるものとの通念が普通ですが、ここは深い谷底、狭い境内と間近に迫る海の砂浜。もっと高台に海を見渡すような適地があると思うのになぜ、わざわざ谷底?疑問に思いながら逆にそこにこそ日御碕神社の成り立ちに関わる謎があるのでは?と思いましたね。祭神の須佐之男命の6代後の大国主命が出雲大社の祭神ですから確かに日御碕神社の方が親神ですね。

神社の宮司を代々司ってきたのが「小野家」です。現在も子孫の方が宮司をされています。戦前は全国に14家あった社家華族(男爵)の一つで、先祖を遡ると須佐之男命の五世孫の天葺根命という神様。神話まで遡る由緒ある社家です。ちなみに天葺根命は大国主命のお父さんにあたる方です。三種の神器の一つ・天叢雲剣を天上界へと献上するため派遣された神様でもあります。

稲葉の白兎説話のように古代において、出雲の海と陸を巡って天津神系の神(支配者)と国津神系の神(支配者)との間で様々な争いが繰りかえされ、時に海上ルートから、時に陸上ルートからと兵士(眷属の者たち)たちが侵入し、相対したと思います。日御碕神社はその海上ルートの重要な上陸地だったかもしれない。あるいは敗走した者たちの隠された逃走ルートか?あるいは荒れる日本海の緊急避難地。もっと言えば、海を隔てた大陸からの来訪者(天孫系かも?)が岩場ばかりの半島でやっと見つけた上陸地だったか? だから祭られた?。とか、いろいろ想像が巡ります。


島根半島
島根半島海岸道路

ただ言えるのは大和も出雲もルーツは天照大御神とその弟の須佐之男命であり、元は同じ天孫族だった。だからこそ土着した出雲・大国主命たちも国譲りという形で矛を収めることができた、と言えます。

さて、急がねば。

出雲を後に宿泊先の玉造温泉へ。道沿いに広がる宍道湖はもっときれいかと思いましたが汚かった・・・。何ででしょう?、ヘドロが溜まっているのかなぁ?、藻類やプランクトンの大量発生かなぁ?といろいろ原因を考えていたら温泉に着きました。泊まった旅館はとっても美味しい料理とサービスだったので家族も大満足。ヤレヤレ。

翌日、二日目、ついにあの松江城へいくゾーと張り切って出発。ところが着いてみるとPはどこ?入城口あたりにはありましたが狭い。もう満杯。近くに立体駐車場もあるとのことでしたが、せっかくだからと城の堀を一周しながら探す。それでもなかなかない。結局、街中パークみたいな所に停めました。松山城は本丸以下結構広い城地と森に恵まれていますが、城の周りのビルや民家が堀に近すぎて、ギュウギュウ詰めな感じ。広場的な空間がないからかも。小泉八雲など武家屋敷街で知られる塩見小路もまさに行き交う車との探り合い・・・という感じ。でも城中へ入るとさすが古城の趣があります。天守閣までけっこう歩きます。



松江城天主閣
松江城天主閣


その天守閣、外観及び内部はだいたい想像していた通りなので最上階に上って松江市街を眺めてそれなりにいい気分。で、ここでペンを置いたら、ありきたりの旅日記になってしまうので、ここは3D京都、別な角度から日本の現存天守閣について一言。

国内の城、近世現存12閣に限ってのことですけど、まず共通するのは地階から最上階まで床や柱、梁はあっても階毎に部屋がない。いずれもガランドウの何もない倉庫・空間があるだけ。観光客には上りやすく眺めはいいし混雑しない。だからどこの城もそう。実際は何も無い訳ではなく、昔の武士の鎧兜や槍・刀・火縄銃、古文書、古美術などが展示されていて美術館の役割も果たしていて歴史的・文化的価値は高い。だが何か足りない・・・。

床を見よう、敷居がある。確かにここには昔、引き戸や開き戸があって幾つもの部屋に区切られていた。で、城の観光化に伴って敷居だけが残った(長く太平が続いた江戸時代からか?)。しっかりと部屋があった当時は、各用途ごとに武器庫や火薬・弾薬、兵站などの備蓄倉庫、それに兵糧米の蔵、城主の居間、兵たちの寝所・生活の場、台所、様々な物を収納する納戸、等々いろんな部屋があったと思います。


松江城天主閣内部
松江城天主閣内部


もし、眼の前でそれらの光景を見ることができるとしたら、普段、私たちが抱いてる天守閣とは違って、より重厚でリアル感のある本来の戦いのための城を実感するのではないでしょうか?。 現代の天守閣は最上階まで一生懸命上って、そこから市街を見下ろし眺めに感動するのが役目ですが、上述した重厚感のある部屋割り、はたまた迷宮のようなワクワク感のある天守閣があってもいいと思います。全階は無理でも一部の階でも再現してみてほしいと思います(部屋の再現だけでなく、そこに本来ある物も置く)。話はずれますが、外国の城は多くが石や日干しレンガなどで築造されていますが日本は木造に板壁・土壁(漆喰)です。城の内部、室内空間がいずれも何もない状態だったら、悲しいかな木造・土壁(+漆喰)よりも石・レンガ造りの方が重厚感があって絵になるのです。エジプトのピラミッドの内部回廊を想像したらわかると思います。結局、人は建築というものに迷宮を求めます。ギリシャ神殿の遺跡に迷宮の名残を感じるのなら、じゃ、外国人から見た日本の迷宮は?

それは伏見稲荷の赤い鳥居のトンネル、渡り廊下(土間廊下ではありませんよ、あくまで靴を脱いで歩く床廊下ですよ。)がどこまでも続いているかのような御殿群、たとえば京都の有名社寺、京都御所とか。それらに外国の方は神秘性を感じると言います。外国は平野が広いのに高層建築を建て、狭い日本なのに単層の建物がグランドカバーのように広がる、なんか面白いですね。また日本の朱塗りの鮮やかな建築にも惹かれるみたいです。欧州など赤色の建物は少ない(キリストの磔刑の影響もあるかもしれない)ですし、そもそも、赤であって赤でないような朱色の鮮やかな中間色は見かけませんからね。

建築の素材に話を持っていくと、たとえば現代の豊富な建設・建築資材。それらによって多くの高層ビルや異形、クールモダンな建物が個性を競い合っています。時に建築家の自己主張と現実とが遊離するときもあります。また豊富な材料を使うということは、その豊富さ自体が建築装飾とも言えるのが現代建築。一方、単なる懐古趣味ですが、木と土と紙とか、単純な材料しかなかった江戸時代までの日本建築。でもそれ故に調和のとれた自然と和む街並みが保たれた。幕末、江戸を訪れた欧米人は江戸を「ガーデン都市」と呼び、その美しさを讃えています。それには連なる大名屋敷の等質でシンプルな建物たちと江戸城の内、外郭を囲った掘割の芝の美しさが合いまった合作だったからでしょう。材料がシンプルだから装飾できる過去の建築、材料が豊富すぎて装飾の余地がない現代建築アートの世界。

最近、スーパーコンピュータであっても「0と1」しかない二進法の物理的限界を見越し、量子コンピュータの世界がクローズアップされています。単純にいえば1と2に新た3が加わることによって一乗が二乗にさらに乗々と無限ともいえる演算世界が広がり、それがより高度な社会を生み出してゆく可能性が唱えられています。でも肝心な物質としての記録媒体はどうする?。 そこで、本当?信じられないような仮説として出てきたのが「石」。考えてみれば石は何千年、何万年と壊れない素材です。それを記録媒体にしたら半永久的に記録でき、より高度なAIができる? 荒唐無稽かもしれませんが、真面目に取り組んでいる研究グループもあると聞きます。

何が言いたいかと申しますと、素材文明への回帰です。いや回帰というよりも素材を活かす新たな文明の誕生です。それと建築が何の関係があるの? と問われれば「素材=装飾の復権」ということなのですが、強引に引っ張り過ぎたかな?

あれ? そう松江城に戻ります。要はお城の天守閣にも、豪商や庄屋屋敷の各部屋によく見る立派な仏間や神棚、家具、その他生活用具などたくさんの民俗資料が部屋とセットで公開されていますが、そんな天守閣見てみたいんですよ。武家屋敷の遺構でも、これもどうちらかというと部屋には何もない。ただ企画通りの書院の間があるだけ。最近、復元されている御殿建築も、中を見学すると無地の襖を結構見る。なぜ無地?かと聞くと、詳細な資料がないから、とのこと。いかにも真面目な公務員らしい。でも、江戸時代の御殿は格式に寄って部屋の襖や床の間などに描く図柄はだいたい決まっていました。遠侍なら虎、大広間なら松に鶴とか。。将軍の御殿のように表、中奥、大奥とやはり絵の図柄は決まっていて踏襲されました。社寺、宗派によっても基本、種別、パターン化されてました。

ですから、なにも100%正確でなくても、「この部屋は鶴の間です」といえば、当時のパターン、筆致に従って鶴を描けばいいじゃないですか。その方が見ていて楽しいですよ。詳細な資料がないから「無地です」なんて、無粋過ぎると思うのですが・・・どう思います?。


小泉八雲旧居
小泉八雲旧居


さて元に戻って、天守閣を見学後、あの足立美術館へ行く予定でしたが、妻が松江城のお堀を一周する遊覧船に乗りたいというので乗船。風情がありました。でも美術館は諦めました。意外と松江から遠いのと仮に美術館へ行っても見学する余裕がありませんでした。同美術館から二日目泊まる津和野まで200キロを超える距離だったのです。こんなに遠いとは思わなかった・・・。山陰も広いというか長いですね 笑。また機会があったら同美術館へ行ってみようと思ってます。


遊覧船から望む天守閣
遊覧船から望む天守閣


足立美術館は、島根県安来市にあり、地元出身の実業家・足立全康氏が1970年(昭和45年)、71歳のときに開館したもので、近代日本画を中心とし130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名ですね。とくに庭園の方は5万坪にもおよぶ広大さで、米国の日本庭園専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』が行っている日本庭園ランキングでも13年連続で日本一に輝くなどつとに有名な庭園で知られてますね。正直、山陰地方の片田舎(失礼なこと言ってすみません)にこんな素晴らしい美術館があるとは驚きで日本も奥深いなぁ、と思ったりします。きっと地域的な不利を跳ね飛ばすような有能なマーケティングのスタップが懸命になって売り込んた側面もあると思います。


足立美術館庭園
"足立美術館庭園




足立美術館を断念しても津和野に着いたのはもう日暮れ前、国道226号線で下る途中、太鼓谷稲成神社の大きな赤鳥居がそそり立っていました。ちょっとビックリしました。そこからは、津和野の谷を挟んで同稲成社の朱塗りの懸造りの社殿が望め、ロケーションもバッチリ。いと麗しく鮮やかでした。


太鼓稲成神社
太鼓稲成神社



宿は津和野観光の中心・殿町通りに面し観光には便利。宿は間口は狭く奥行きは滅茶苦茶長く50mはある?ほどのウナギの寝床宿。こういう奥行き感はいいですね。で、ここにも外国人宿泊者がいました。白人系の家族。その家族の坊やの可愛いこと、天使のごとくでした? ここ津和野は海外のガイドブックにどう書かれているのでしょう? 小京都?。翌朝、目覚めるとそこに錦鯉がいた。と思うほど家老の武家屋敷街の掘割に泳いでいるコイのまた鮮やかできれいなこと!背景の石州瓦と白い漆喰のなまこ壁の長塀ととても調和してました。なんか津和野は、ここ殿町の掘割に泳ぐ鯉をみるだけでも価値がある感じ。改めて思ったのはここ中国地方は7000の人口の小さな町でもそれぞれに個性と美しさを引き出していること。このことは後々また書くかも。


なまこ壁と錦鯉
なまこ壁と錦鯉
津和野殿町
津和野殿町の街並み



清水寺のお宮さんバージョンの太鼓稲成神社にも寄りました。途中、昔の津和野城の櫓遺構もありました。車道を上ると鮮やかな社殿が眼に入りさっそく参拝。稲荷系は金儲け祈願するとそのキツネ様の見返り要求も強いと聞くので神恩感謝だけ。境内から見る津和野の小盆地はとても美しいものでした。中国山地特有の老年期に入った山並みは傾斜も緩やかで狭い谷盆地なのに伸びやかに感じます。そして、その盆地に佇む、ほど良い街並み。屋根は釉薬で焼いた石州の赤瓦で統一され、それがより景観を引き立てています。


津和野展望
津和野盆地を俯瞰する。



つい最近に至るまで日本の多くの民家は屋根には桟瓦を葺いていました。本瓦葺きの簡略形です。江戸時代に考案されたものです。正直言って、そのグレー系の地味色で安っぽく見えるデザインは好きでありません。社寺でも桟瓦だと重みがありません。その同瓦が日本全体に広がっています。だから何処へ行っても同じで地域地域の個性がありません。最近の新しい分譲住宅など洋瓦、ガリバ、コロニアルなどの多彩な屋根で葺かれ、桟瓦は少なくなっています。

そんな中で、赤茶系の石州瓦は珍しく個性があります。普通の民家でも屋根にシャチホコが載っています。で、その本場、津和野から萩へ至る道程、石州瓦が当然多いのですが所々黒光りする釉薬で焼いた黒瓦が見受けられました。あの、とくに富山県に多くみられる黒瓦です。この黒瓦は雪が早く溶けやすいのが特徴で、富山県の特に飛騨から砺波平野を一望したとき、その黒瓦で葺かれた屋並は統一感があって美しいものでした。富山、あるいは北陸地方にとってはこの黒瓦が個性なんですね。

もっとも、昔は雪対策としては赤瓦が使われていたようです。福島県の会津若松城も江戸時代は赤い屋根でした。釉薬の発達が赤から黒へ変わっていったみたいです。

だからかなぁ?道すがら、石州瓦の赤が黒に取って代わられている家がけっこうありました。本場でありながら。旅人からすれば赤茶に輝く屋並の方が調和がとれて美しいのですが、現実にはより性能が良く利便性のあるものに変わっていくのですね(石州瓦自体が黒に変わってるのかもです)。


津和野の石州瓦となまこ壁
石州瓦となまこ壁



萩へ行く途中、とても感動した風景に出会いました。とくに特徴があったわけではないのですが、上述しましたように、その中国山地の緩やかな傾斜、小盆地、準高原が幾重にも重なったとき、「これが日本の里山なのだなぁ」と噛みしめる思いでした。同山地には地形に応じて集落や小都市があって、その特徴なのが石州瓦のように明るく調和した街並みと風景。他所の山間地域によく見られる閉塞感がないのです。一つ一つの民家も立派で個性があって見るのも楽しいです。社寺も同様に立派です。

どうして?なのでしょう(私個人の印象)。一つ思うのは、たとえば日本の社寺等の名所は山や森に囲まれていることが多いです。しかし、この中国地方は「人に見られること、眺められること、見上げられること」を意識した社寺あるいは建物が多いという印象。すぐ思い浮かぶのは、最近「天空の城」と呼ばれ人気のでてきた竹田城や点在する小領主たちの城、小京都と呼ばれる街、津和野の太鼓稲成神社、他にも珍しく田園越しに見られる吉備国分寺五重塔、 投入堂のある三仏寺、鞆の浦の弁天堂、厳島神社、全国でも姫路城を始めとして五重天主閣がもっとも密集した地域、坂の町・尾道、民家で言うならば映画「八つ墓村」のロケ地にもなった広兼邸などなど。

広兼邸
広兼邸


広い平野部の少ない中国地方がなぜ豊かで多彩な表情(建築等)をしているのか?よくはわかりませんが、一つは京都に近いこと、古代において朝鮮や中国等からの渡来人、帰化人が多く住み交易も盛んだったこと。瀬戸内海の恵みなど等あったと思いますが、他にも、やはり中国山地の特徴である老年期の山形が生み出す、適度な間隔と広さで点在する盆地や準平原に開けた個性ある都市群、緩やかな河川。これらは歴史的にも幾つもの地方領主を生み、それは戦いだけでなく、地産の商業ルート間での交易、文化面でも京の応仁の乱から逃れた公家が大名を頼りそこで文化サロンが生まれ、それがまた各領主に伝播して、そこに領地間の風土とも混じりあって芸能、文化の発展、交流も盛んに行われた地域だと思います。

そこで思い浮かぶのはあのイタリアの「トスカーナ地方」。ここも都市国家、小領主たちがひしめき合い競合した結果、ルネッサンスを開花させました。地形的にもよく似た雰囲気があります。いわば中国地方は「日本のトスカーナ?」というイメージはちょっと言いすぎかな・・・。

「仰がれること、眺められること」を意識した中国地方の社寺や建築。そこには大陸との距離、渡来人の影響もある気がします。建築に対する意識が大陸的だからです。内に美を見出すより外に向け自己主張をする。だから同地方独自の華やかさがある。近代、明治から大正にかけて神戸等の六甲山の麓に別荘・郊外住宅地を展開した「阪神間モダニズム」の建築文化。それは西洋の影響以前において、実は中国地方に根付いていたもののような気がします。

長々と書きました。次は萩、秋吉台、山口へと向かいます。





関連記事
▽コメントリスト

山陰の旅 出雲編

台風一過、綺麗に洗い流した青空が広がりました。日中の温度は盛夏を思わせるものがありましたが、それも束の間、秋の風が汗を消し去ってしまいます。盛夏の山陰の旅、9月下旬でも小旅行記を書きたくなったのは、山陰の旅がとても印象的だったからです。(中国地方全般を含めて)。今年の夏は東京では長雨が続きましたが山陰は比較的晴れていました。ここが山陰? 山陰でも山陽でもない中性的な穏やかさを感じました。

さて、三泊四日の家族旅行。最初に着いたのは出雲空港。静かな空港でした。そのまま出雲大社へ向かいましたが、そのとき感じたのは、人が少ない、コンビニが少ない。車が少ない。家並みが少ない。その分、巡る山々や里、田畑の連なりが騒音のない美しさを醸し出してくれました。大陸の国々と比べれば島根県でさえも人口密度が高い分類に入りますが、大陸の低密度が自然の猛々しさを連想させるのに比べ、この出雲地方は、人口が少ないほど自然の緑が濃密であるという、この国の豊穣さ、そしてその風土が今も残っている出雲は日本の原風景を感じさるものでした。

人口密度でいえば北海道の方がはるかに少ないですが、北海道はどこか無国籍な貌をしていて自然も北欧的な「最果て」を感じさせます。ですから国内でもとても人気のある旅先です。その北海道を旅する欧米系、とくに白人のコアな旅人が静かに増えていると聞きます。パウダースノーのメッカ・ニセコはもちろんですが、北海道の自然そのものに惹かれて訪れるとか。似たような風土なのに何故? と思い巡ると、北海道に有って北欧に無いもの?、それは「湿潤さ」ではないか?と想起されてくるのです。だから欧州の人も惹かれるのでは、と。欧州、北欧など豊かな表土は薄く実は乾いた風土であるということです。結局、北海道も日本、北から南まで湿潤で豊穣な国だと改めてそう思います。

さて今回の旅、どこへ行こうか家族で話し合ったのですが、いつものごとく「どこでもいいよ。いい温泉と美味しい料理が食べたい!ということでプランはすべて私が立てます。北は北海道から南は沖縄まで訪れたことはありますが、唯一、山陰地方は行ったことがない。ということで、今回は出雲、松江、玉造温泉、足立美術館、津和野、萩、秋吉台、山口と山陰をメインに計画を立てました。

三泊四日です。でもそれでは足りない、もう二日は必要だったと、後で反省するのでした。 さぁ、初めての出雲大社。期待に胸を膨らませて現地に到着。正直、出雲大社は言うほどでもないよ、ということは兼ねて聞いておりましたが、実際にこの目で見ると確かに期待ほどではありませんでした。どうしても伊勢神宮と比べてしまいます。伊勢には五十鈴川に宇治橋が渡り、そこが俗界との別れ、清浄さに満ちた神域が展開されます。しかし大社にはその結界となる川と橋がない。伊勢は緩やかなS字を描いて深い森林の奥に鎮座する正宮を参拝する形ですが、大社は正門にあたる大鳥居から真直線上に拝殿・本殿があり、何かストレートな参道でワクワク感がありません。神域も周りの街並みに囲まれ聖域と俗界の区別がつきにくい。また神域の範囲も伊勢より狭いですね。 文句ばっか言って大国主様に怒られそうですけど、それだけ期待値が高かったからですよ。ごめんなさい。


DSC_0004.jpg


今ある本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさです。でも奈良の大仏殿や東本願寺御影堂とかの巨大な仏教伽藍と比べると、どうしても迫力さでは負けてしまいます。、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈とおよそ96mもあったと言いますが、近年、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発見され、その複製が展示されていましたが確かに太い。鉄で束ねた様は現代の集成材の走り?かもですね。


DSC_0057.jpg
出雲大社本殿



DSC_0074.jpg
巨大な宇豆柱

ここまで高さにこだわったのも、古事記によれば、大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と言い、これに従って「天之御舎(あめのみあらか)」を造ったとのこと。天孫族にも何かしら負い目(というか国津神の大いなる怒りを鎮めるためか)があったのですね。ですが大きな戦もなく譲る形で統一が為されのは、その後の日本にとっても良かったと思いますね。

ちなみに平安時代の本殿(高さ48m)の復元が大林組により再現されていますが、それによると高床式本殿の床面が地上30mの高さ。そこへ上がる階段は20度の角度で170段。階段の先頭から本殿の高欄床直下まで直線距離にして109mもある。私が神官だったらとても怖くてこんな階段上れません・・・。9本の柱、梁や妻木、高欄などは、見つかった束ね柱が赤かったことから平安当時は朱塗りだったと考えられます(大林組案では白木)。中心の心柱は松材が使われたといい、また他の柱はスギ材だったと思われます。


出雲大社の本殿の復元想像図
CGは、 古代出雲大社建造の謎(邪馬台国大研究)より引用。

平安中期から鎌倉時代にかけ7度も倒壊、しかも地震でも台風でもなく、ある日突然と倒れたケースも。確かにこの高さ、しかも長大な階段、逆にこの長い階段が倒壊の足を引っ張ったかもしれません。そう考えると、20度の長い階段というよりも本殿の高床直下から折り返して真上に上がる階段だったかも?と考えたりしますけど、建築構造的にどうなんでしょう?
後、古代は朱塗りだったとのことですが、漆といえば英語でそのまま「japan」。とにかく縄文時代まで遡る日本の漆は世界最古と言われますが、この赤い漆と古代出雲大社が結びついたとき、国津神の民、即ち縄文人たちが顔や体に彫り込んだ刺青の黒光りする赤は、まさに土俗的でアグレッシブであり大社の本殿にも様々な縄文文様が施されていたのでは?と想像します。


出雲大社本殿の復元模型


今日見るような白木の簡素な外観は伊勢神宮を連想します。近世になるほど出雲から大和、そして日本へと統一、飲み込まれていき、やがて大国主は埋没神になったのかもしれません。 古代の天皇は「スメラミコト」と言われ、スメラは「統べる」の意味で統治の主体、また一方で「素メラ」とも読め、これは今日の京都御所に代表されるような、白木造りだからこそ感じる「素」の世界、、気が生きている空間が祭祀尊・天皇の住まいとして相応しいと、現代まで引き継がれてきたものだと思います。

「牙を抜かれた出雲の国津族、大国主尊」。でも、それが結果的に現代の日本を形作ったものであり、先の出雲国造の千家へ降嫁された高円宮家の女王・典子様は改めて天孫と国津神の融和を再確認したものである、と思うのは私の勝手な解釈でもありますが。


DSC_0092.jpg



話はまた戻りますが、大社を取り巻く街並みは時々時間が止まったような古い味のある町屋がありますが、今一、統一感がなく勿体ない気がします。大社のお膝元なのだから伊勢でいう「おかげ横丁」のような民芸風の街並みに味どころ、老舗の品、名産品、歴史や人情が体験できる、とにかく、食べ歩きやショッピングができる参拝客の集客施設が必要だと思います。30年前、伊勢神宮を参拝したときはおかげ横丁もなく地味で今のような活気はありませんでした。やっぱり参拝の後の精進落としじゃないですが、開放的な気分になれるエリアが必要なのですよね。一応、大社門前に「ご縁横丁」がありますがまだまだ規模が小さく特徴も今一つ、地元の商店街や自治体などの積極的な取り組みが今後の課題ですね。

また、大社、そして取り巻く外苑を始祖であるスサノオ、そして大国主のもっと豪気で猛々しいほどの「八雲立つ 出雲」を作り上げてほしいですね。白木造ばかりでなく赤い漆を使って様々な文様、彫り物を社殿、荒垣、外苑に装飾し、出雲にしか出せない風土記の世界を蘇らせてほしいと思います。

なんか、山陰の旅というよりも出雲大社の話に集中してしまった・・・。まだ、後に津和野、萩、と続くのに、このままではエンドレスになってしまう・・・。気楽な旅の記、ショートにしなければと思うのですが、あぁ、大社の近くには日御碕神社もある。どうしよう?どこで終わるんだろ? 我ながら心配。

ほかにもエッセイとか短歌の未完成稿もたまってるし、肝心の3Dが遠のいてしまう。この窮状を息子に「どうしたらいい?」と聞くと「自分のブログなんだから好きなように書けば」との返答。確かにそうだ、正論に尽きる。はっきり言って息子の方が私より賢い。親としては嬉しいけれど、しばらく経つとまた迷いが生じる。あぁ、助けてください。当ブログを読まれる方は何をみたいのか?やっぱり3Dかな?。どなたか聞かせてください。  
 




関連記事
▽コメントリスト

トップ2人譲らず?

前置き、
もう9月の半ばですが、8月の旅のこと今頃ですが書こうとしましたが、日経の今朝の見出しが気になって・・・時事ねたに変更です。
ところで飛雲閣内部の(聚楽第に在った頃の創造的内部)3D作る予定がまだ出来てません・・・。
作ろうと思うと、その前にいろんな随想のネタがわいてきて、それも書きたいなぁ、とフラツイテいるうち初秋を迎えました。
たとえばタイトルで言うなら、「私のなかのアーロン収容所」、「壁のような襖」、「なぜか軍服の似合う日本人」、「なにも描けない畳」とかいろいろと浮かんできます。さらに北朝鮮の核ミサイル問題など時事物。毎日読んでいる日経新聞の、経済紙なのになぜか政治ごっこが好きでリベラルな紙面、リベラルって金儲けより人権が好きじゃないの?株の切った張ったのとどう整合性がとれているの?。何をしたいの?。けれど裏面の文化欄は結構秀逸だ。よく一ページにまとめている。だから読む。
と、疑問を抱きながらも朝刊を開く。

今朝、目に飛び込んできた見出しが「トップ2人譲らず」。はぁ?。二人とは金正恩とトランプ大統領のことですが、つい先日、国連で全会一致で北朝鮮への非難と制裁を決めたばかりなのに、まるで二人を同列に扱う感じ?。トランプの方も譲らないから解決しない、ような口振りです。要は何をしでかすかわからない北朝鮮を刺激しないように対話で解決しろ・・・という文面に読めます。過去、さんざん対話を促し解決を先延ばししてきた結果が今、世界を揺るがしています。ある意味トランプ大統領が尻拭いをせざるを得ない立場に追い込まれていますね。北朝鮮の核・ミサイル開発は急速にレベルをあげています。

先延ばしを煽動してきたのは誰か? 中国・ロシアを抜けば、それは主に新聞・テレビなどのマスコミたちだと言えますね(特に日本)。戦前は戦争を煽り、戦後は平和という名の足かせを民主主義体制の国たちに枷せ、その隙に強大化した某国の共産主義独裁の覇権体質がこれも世界の緊張と争奪をより危機的なものにしています。
日本においても憲法9条が足枷になって、結果、日本の上空をミサイルが飛び越えるのを口をくわえて眺めているばかりです。日本を舐めきっています。
戦後、吉田茂は自国の経済の復興を最優先にするかわり、国家の安全と防衛はすべてアメリカにお任せしました。結果、戦後復興は急速になされましたが、実は吉田茂はアメリカ軍の占領が終わり名実ともに日本が独立国家に復帰したとき、速やかに国会で憲法発議がなされ正規の国防軍や防衛上必要なら敵国を攻撃できるよう九条が改正されるものと楽観視していました。ところがGHQがアメリカに帰還する際、将来的に日本が再び軍事大国にならない仕込みをして帰ったこともあって、結局、今日まで平和憲法護持のお題目で改正されることはありませんでした。これは吉田茂の誤算でした。吉田首相も草葉の陰で「しまった!」と嘆いているかもしれません。

旅の記事のはずが迷走してしまいました。
次回書きます。

※ 追記、

読者の方から以下のコメントを頂きました。
「占領が終わったとき、外務省も吉田茂も米軍に日本に駐留してもらうが、5年くらいの有期駐留でした。それを長期(永久)の駐留にしたのは昭和天皇なのです。彼は、マッカーサーと吉田の頭を越えてアメリカに直接要請し、そうしてしまったのです。この時に、同時に沖縄を見捨てたのです」。

これは、豊下楢彦著の『昭和天皇・マッカーサー会見』に詳述されていて、その抜粋です。参考意見として併記させていただきます(2017-10-08)。





関連記事
▽コメントリスト

コメントありがとうございます。

お久しぶりです。
記事を書くの怠っていました。
今日、励ましのコメントを頂きました。「病は気から、だから頑張れ」と。
何か嬉しいです。元気を頂きました。ありがとう。
私のブログは定期的に記事を書かないので、同じように読む方も不定期、忘れたころに覗いてみる?
だからコメントも少ない・・・と思っていましたが、こうして心配してくださる方もいるのですね。

おかげ様で、ブログのアクセス数も10万を超えました。実際にはこれにプラスして15万~17万アクセスが
実質的な数値だと思いますが、一つの目標達成として感慨深いものがあります。
そもそもブログを始めた直接のきっかけが娘の一言でしたけど、その言い出しっぺの娘はまだ読んでいません。
とくに学生の頃、ユーラシアを旅した体験記を読んでみたい、と言っていたのに、まだ読んでない・・・
きっと「いつでも読めるから」と油断しているのでしょう。
でも、「読もうか」と思ったとき、「父はいないぞ」と密かに文句を言ってみる。
その娘も入籍し、今度、やっと結婚式をあげる。
「もう、読まなくてもいいよ」。それが私からの娘へのはなむけの言葉。

コメントのことに戻りますが、
クドイですが、私のブログにはコメントが少ない。
文章が硬いから? 内容がツマラナイ、親しみがない、やはり気まぐれな更新?
それか、システム的に下段にスクロールしてもコメントのツリーが表示されない? いやコメント自体が少ない
のですからツリーも何もないですよね 苦笑。

忖度すると、ネットのキーワード検索でたまたま私のブログにたどり着き、一気に読んでお仕舞。
次は半年後、思い出したころにリピート、が実体かなぁ・・・とも思います。

グダグダ言ってないでとにかく書くことですよね。
そしたらまたコメントください。

実はですね、前もチラっと書いたのですが、
ここ一年ぐらい前から計画していた新しい事業の前段階がようやくクリアし、今、申請書を市の担当
窓口に提出し、何とか受理され、今度、担当委員さんたちからの面接があり、それが通って、県経由で
認可が下りればそれで事業スタートという段階です。
おそらく人生最後のチャレンジになると思います。
えっ?事業って何の? と、思われるとおもいますが、まだ正式に認可が降りてないので、
もし「落選しました」となったら恥ずかしいので今は書けません。
というか、書くほどのことでもないですが、一つ書きますと、
この事業スタイルは全国でも数例しかないと思います。
ですからお役所からは「事例がないと」とよく言われました。

私は愛知県在住です。
30代後半から50代前半まで会社役員をしておりました。
いろいろ諸事情があって会社を辞め(私の不徳の至すところ)、数年遊び、今こうして
ささやかな事業を始めようとしています。
「3D京都」は結構手間のかかるブログで、それこそ退職後のライフワークに、
また晴耕雨読という理想郷をブログに想い描いていましたが、それは甘かった。

テンキーを打つスピードも落ちた。
資料読みしてもすぐ忘れる・・・

「時間が出来たらやってみよう」と暢気に構えているのなら、「実は時は待ってくれないのだよ」と、
今、人生を振り返っています。

それでも、
金儲けというよりも「金を得る」ことで生きる実感を掴み、
ブログの発信を通して自分なりの「お役に立ちたい」と思っています。

改めまして、takaさん、コメントありがとう。





関連記事
▽コメントリスト

左サイドMenu

たまに短歌

2017年5月8日更新

※ 短歌集はカテゴリー欄にあります。

タグ一覧


全記事(数)表示

全タイトルを表示

※表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

今日の運勢

今日の言葉

京都お役立ち情報

アンケート

ご意見・メールお寄せください

名前:
メール:
件名:
本文:

マーケット情報

プロフィール

梅村京一朗

Author:梅村京一朗
(けいいちろう)、
寝つきの悪い夜は、いにしえの京を想いながら寝ます。すると鼓の音のように京の日々歳々が甦ってきます。・・・浅き夢みし男のブログ語りです。

ブログ内検索

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

ブロぐるめLite


写真提供 ホットペッパー.jp
Powered byリクルートWEBサービス
developed by 遊ぶブログ

右サイドメニュー

最新記事

カテゴリー

  ※ 表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

人気ページランキング

開始日:2016/11/6

ブログパーツ

キーワード別記事リスト

最新コメント

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

検索・買物に利用して下さい

人気ブログランキング

FC2カウンター