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3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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不肖、「3D京都」が非公開エリアの皇后御常御殿をご案内します。

後宮の三殿、皇后御常御殿・飛香舎・若宮姫宮御殿が完成したので記事を添え掲載します(一部内部も)。当初は第一期制作には含まれていなかったのですが東西対屋を想像復元したせいもあって後宮まで一気に行ってしまった感じ。皇后御常御殿は飛香舎と密接に繋がり、且つ、若宮御殿の南廂が廊下代わりという面もあって三殿作りました。で、ないと、源氏物語や枕草子に描かれた平安京の王朝美が描かれませんからね。藤壺の庭も雰囲気出ないですし。

今回もそうですけど、後宮の建築仕様は文献、一部平面図、妻側からの立面図だけ、一方向だけからの写真等を使った3D立体起こしで、省いた建物、わからない部分は想定復元と不正確な面も多々ありますが全体としての後宮の雰囲気は出しております。

ですので普段非公開のエリアについて「3D京都」が取り敢えず3DCGでご案内。しばし、仮想空間でお楽しみください。3Dならではの良さもありますよ。

さて、さあ、ツァー始まり♪~と行きたいところですがその前に一枚のCGをアップ。
紫宸殿東南から拡大


久し振り、紫宸殿を斜めから仰角に眺めてみました。前も書きましたとおり帝の御所だけに許された三段の垂木(先端を腐敗防止のため白く塗っている)です。なかなかの威厳でしょう 笑。

アレ?、女優の石原さとみさんが廊下の下に見えますよ? また再訪されたのかなぁ?、

2030年度NHK大河ドラマ「近衛前久」の正室・北政所 (久我晴通の娘)を演じるためその役どころの一環として御所を訪問、な~んて事はありません!! 私の妄想です 笑。

確かに妄想ではありますが、近衛前久は戦国時代「公家大名」になりたかったけど成れなかった。晩年になって野心が消え、やっと本来の公家に戻り近世の宮廷文化の復興に貢献した人物、信長、秀吉、家康とは三代に渡る持ちつ持たれつの関係、本能寺の変では自邸の屋根から明智軍に矢を放つなど、まさに波乱万丈の生涯を送った異色の公家、十分、大河の主役にもなれると思うんですが・・・・、たまには公家から見た「大河時代劇」作ってみてくださいよ。と、またまたのリクエスト。もし、NHKの方、拙ブログ読んだら一考お願いしますね。

でも、なんで公家文化に拘るのだろうか?この自分。

先日、家族に「俺、どうみたって前世はお公家さんだったろう」と言うと家族はまた「麿か・・・」という顔。自分では「公家屋敷の指図を全国を股に探したり3Dで作ったり。ブログにも公家ラブ的なことも書いている。知人からは和服が似合うと言われる。おっとりしている、公家顔系だね・・・、で下手な短歌も詠む。状況証拠は全て揃っている。再び家族に「さぁ、どうだ!」と言うと、「ハイハイ、公家さんではなくとも家来だったかもね。だから、来世は公家に生まれたい」・・・その願望全開じぁない?、との返答。確かに、まったく根拠がない訳でもないので「その筋もありかなぁ」と、妙に納得。それで公家談義は終り 笑。

今まで、公家の子孫の方と仕事で知り合ったり、大学時代の剣道師範も公家出身だった。子孫の方が言うには「京都の菩提寺の供養が大変ですよ」とボヤかれていた。

たまに公家の子孫の方からもメールが来る。公家屋敷を3Dで復元してみたい、そんな願望もあって始めたブログ。TVからお声がかかったり、「こんな風にできませんか?」といった制作依頼のお話も。これも公家のおかげ、地道にブログを続けてきた成果、と自画自賛してます。

また、横道に逸れてしまいました・・・。

皇后御常御殿ですよね。
まずは完成した後宮の位置図から、

京都御所の後宮エリア
京都御所の後宮エリア。

御所の最深部ですよね。ここにも御常御殿以外にも女官の対屋や雑舎など、いろんな建物がありましたが今は上記三殿と御常御殿の西に繋がる申口や泉殿だけ。

御常御殿の間取り図を載せますね。

京都御所皇后宮御殿平面及び建具等配置図(藤岡通夫著・京都御所より)
皇后御常御殿の平面間取り図(藤岡通夫著・京都御所・新訂より引用)。

御常御殿は皇后の常に住まわれる御殿。女御、中宮御殿とも呼ばれます。周りを長押塀で囲まれています。帝の寝所と同様に皇后御殿も同じ殿舎の中央真ん中。ただ帝の寝所が十八畳あるのに対し皇后殿は十七畳と一つ少ない。こんなところにも帝との差異、奥ゆかしい面がありますね。今は帝の御殿と離れていますが江戸中期ごろまでは帝のすぐ隣に女御御殿が接しているときもありました。平安京の内裏もそうでしたからね。

サイズは桁行21m、妻側19.6mあります。帝の御殿より一回り小さいですが、それでも他の殿舎より際立って大きいです。部屋も縁座敷を除き12部屋ほどありますね。女性らしく化粧間もあります。御殿全部畳敷きですね。もう蔀もなく唯一高欄が寝殿造の面影を残す書院造りになってます。

東から見た後宮の全景
東から見た後宮。

左から対屋、右に御常御殿、若宮・姫宮御殿、飛香舎、そして右端の御所六門の一つ、朔平門の屋根がそれぞれ見えます。

北の朔平門から見た後宮

朔平門から見た後宮。

後宮は朔平門からは近いので屋根ばかり目立ちますね。

西から見た後宮の全景

西から見た後宮。全体に地味な感じ。こちらは戦争前、建物疎開で壊されそのまま、寂寞とした感じですね。
手前に屋根のない門がありますが塀重門といいます。元々は寝殿造の中門廊が簡略されたものと言われますが近世の公家・大名屋敷ではさかんに邸内の仕切り塀の門に使われました。

対屋越しに後宮の甍を見ます

対屋越しに後宮の甍を見ます。かつてはこの対屋から長い廊下が後宮へと繋がっていました。

後宮も含めた御所全景(東南)

少し後出しですが後宮も含めた御所の全景です。建物もたいぶ埋まってきました。もう5月以来からですから。

さぁ、そろそろ皇后御常御殿本体へと近づきます。

長押門越しに南正面の皇后御常御殿を見る
長押塀越しに南正面の皇后御常御殿を見ます。遠目に華やかな障壁画も見えます。


長押門越しに東正面の皇后御常御殿を見る
長押塀越しに東正面の皇后御常御殿を見ます。長押塀のストライブなラインが御殿と調和して美しいですね。自分で言うのもなんですが。

東正面の皇后御常御殿全景
東正面の皇后御常御殿の全景。近くで見るとやはり大きい。屋根の妻飾りが黄金に輝きこれも美しい。

御所の御殿は総じて、縁側の外に雨戸、内側に明り障子、母屋側は外に舞良戸、内に襖が多いですね。ちなみに御所の御用録とか見るとよく「中敷居」とあるのですが、ネットで調べると「押入の上下二段の真ん中の敷居」と書かれていますが、建具の記載が押入? そんなことはないと前後の文脈を見ると解りました。「腰窓」のことなんですね。御所では渡り廊下によく使われています。

長押門から皇后御常御殿へ入っていきます。


さぁ、長押門から御常御殿の中に入っていきますね。緊張する。「お前がいうな?」。全員いますよね 笑。

皇后御常御殿の庭先に入りました

御常御殿の庭に入りました。拙い庭で申し訳ない。当方の御所の庭には四季は関係ありません。桜も咲いてれば紅葉も紅葉する・・・、あまり深く考えないでくださいね。夢の空間ですから。

さぁ、御常御殿の晴れの間、表御殿の障壁画へと近づいて参ります。なお、障壁画については前回同様、「皇室の至宝 御物」毎日新聞社刊、から引用させて頂きました。

東から障壁画全体を見る
東から見た上段、中段、下段の障壁画。

さらに上段間をメインに。

皇后御常御殿の上段間を見る
皇后御常御殿の上段間を見る。あまり上のCGと変わりませんかね?

ではズーム、

皇后御常御殿の上段間を見る(少しアップ)

これもあまり変わらない・・・かも。

皇后御常御殿の障壁画は、この上中下の三段の間の十六面はすべて「列女伝」の画題で描かれています。対屋編でも書きましたが、中国の前漢の劉向によって撰せられた、女性の史伝を集めた歴史書で、女性の理想を著した唯一の教訓書とされます。御所では寛政度内裏(1790年)の皇后御常御殿よりこの三間に描かれるようになりました。丁度、光格天皇の朝廷儀式の復興、天皇の権威の高まりに合わせて皇后もその権威を満たすため、このような「為になる絵」が前面に描かれるようになったのです。「花よ、蝶よ」という訳にもいかない、ということですね。幕末が近づくに従って御所も緊張感が現れてきますね。

上段の桐竹鳳凰と堯任賢国治は狩野永岳作。

さらに上段のアップ、

皇后御常御殿の上段間床の間障壁画を見る
上段間床の間障壁画。

ここの床の間には違い棚も戸袋もありません。しかも皇后の御座の背後、北側でなく西側にあります。帝の御殿もそうですが背後の北には床の間はありません。あっても西側にあります。書院造りは武家が権力を握るようになってから発展したもの。朝廷には、床の間を脇に置くことで権威の違いを見せようとしたとも言われます。が、拙ブログでも書いた御所の動線システムで書いた通り、群臣と鉢合わせしないために北側に出入り口、襖が設けられた。そういった面もある気がします。

皇后御常御殿の天井を見る
皇后御常御殿の天井を見る。

上段は組子の格天井。中・下は板違いの格天井となっています。板違いとは木目を升目毎に替える。あるいは違う樹木の板を張り合わせる、といったもの。今回は普通の格天井になってしまいました。上段の格天井は組子細工になっていますが帝の常御殿のように折り上げ格天井ではありません。こんな所にも違いを見せているんですね。また欄間はただの白い漆喰だけになっています。帝の上段には筬欄間(おさらんま)といって細かい縦格子の欄間がありますが、ここにも、帝より一つ格を下げている違いが出ていますね。

次は南側から下、中、そして上段の障壁画を見てみます。

皇后御常御殿の中段・下段の障壁画を見る
南側から皇后御常御殿の中段・下段の障壁画を見る。

中がわかるよう外の襖を取り払っています。
中段の大兎戒酒防微が鶴沢探真の作。深酒禁止?多分、帝にあまりお酒をお勧めしてはいけませんよ、とか?。下段の高宗夢賓良粥は座田重就作。粥?質素倹約の戒めかな。高宗といえば確か唐の則天武后の旦那さん。則天武后のような恐妻になってはいけませんよ・・・かな。

後、御縁座敷の杉戸絵など幾つか、
皇后御常御殿東御座敷を見る

皇后御常御殿の東御座敷を見る。

杉戸絵の画題は陵王納曽利。原 在照の作。
陵王とは北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目で、眉目秀麗な名将であった蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされているそうです。この曲に合わせた舞が曽利というそうです。なんか難しい言葉ですね。

皇后御常御殿の南座敷廊を見る
皇后御常御殿の南座敷廊を見る。

杉戸絵の画題は檜に蝉。大口義卿の作。こちらは解り易い。

以上ざっと3DCGを掲載しました。最後にもう一枚。

そこに佇むのは皇后様でしょうか

いつの御方におわしますか? 皇后様が正装の身なりで庭を眺めていらっしゃる。拙い庭だけど・・・。

次は最も平安王朝の内裏の雰囲気を残す飛香舎を掲載します。よろしくお願いします。


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影絵の連なる街

ここ最近、LGBTとか、性差別を巡る問題が取り沙汰されている。
一応、ノーマルだと思ってる私には、それと、どう向き合えばよいのか今一つよくわからない。

今までは、秘めていることで何となく世の中が回っていたことが、急にそうでもなくなった・・・そんな感覚に捉われる。

新たな人権意識の抑揚だ。いや、欧米では以前から、エイズが広がった頃から叫ばれてきた人権の啓発運動の一つと言われる。

たまたま性差別だけど、世の中には尽きせぬ様々な差別がある。人は生まれながらに差別がある・・・というのが現実だと思う。もちろん人を差別するのはよくない。ただ「差別」だけでは”区別”の意味合いもあり、「特定の個人や集団に対して正当な理由なく不利益を強制する行為」が差別の対象となる。

無意識に人を差別しているかもしれない。また、差別は倫理、道徳、心の問題でもある。心に「痛み」を感じなければ差別する側になる。そう、個人的に思っている。

過去に体験した「無意識な差別」の一つを書いてみようと思う。

学生時代の貧乏旅行してたころ。イランだったかアフガンだったかもう場所は忘れてしまったけど、その示された行為だけは鮮烈に覚えている。

お金もない、ということで宿のドミトリー、大部屋に泊まった。安宿は旅先で情報交換するから、日本の若者同士も群れやすい。そこも日本人だけで4、5人ほどいただろうか。初対面でもありお互いの紹介やら旅の出来事とか話に夢中になっていたとき、ふと、部屋に入ってきた女性がいた。よく見ると日本人ではなく欧米系の白人・金髪女性だった。

それだけだったら別にたいした事ではないけど、問題だったのは、彼女が「すっぽんぽん!」だったこと。真っ裸だった。何をしに来たかというと、ただ窓から外をしばし眺め、肯いたような顔をして踵を返し部屋から出て行った。一連の彼女の行動を自分たちはただ唖然と見ていた。「何で裸で入って来る理由がある訳?」みんな怪訝な顔をしていた。

当時はインドのゴアにもヌーディストビーチとかあって白人女性の裸にもある程度免疫ができていた。だから、「素っ裸」そのものは驚きであっても「白人娘だったらアリかな」という日常感覚。

問題なのは彼女が部屋から出て行った後。廊下で突然、「きゃぁ!」という女性の悲鳴が聞こえた。「スワーッ、何事か!」と自分たちが廊下に出てみると、悲鳴の主はさっき入ってきた女性だった。身を布かタオルで必死に隠し逃れるよう自室へ逃げて行った。これにも自分たちは唖然とした。一瞬、何が起こったのか頭が少々混乱した。

で、少し落ち着いて周りを見ると、そこには若い白人男性たちがいた。同じ旅人だった。鈍い自分たちにも解かった。彼女は彼らに裸を見られたのが恥ずかしく悲鳴を上げて逃げていったのだ。

だと、すると、俺たちには「何で悲鳴を上げなかった訳?恥ずかしくなかったのか?」。そう考えるうち、ようやくわかった。自分たち日本人、いや、アジア人種の前では裸をさらけ出しても恥ずかしくとも、なんとも思わない。そういう事だった。

これは同胞の白人男性の前だから、とか、そういう事ではなく、明らかに自分たちを「人とは思っただろうが空気程にしか感じなかった」という現実。たまたま彼女がそうであって欧米の白人系の女性みんながそうとは思わないけど、一定数のいわば白豪主義者がいることはわかった。

彼女を責めるわけではない。無意識下の行動で、強いていうなら「自覚なき差別」だろう。

でも、この自覚なき差別が、実は欧米列強が植民地から富を収奪し現地人を奴隷にし、虐殺した理由の一つだと思う。いや、無自覚というよりも「罪の意識、心の痛み」そのものがなかったから人間以下の扱いが出来たのだと思う。

ベルギー王のレオポルド2世(在位:1865年 - 1909年)などアフリカ・コンゴの植民地において過酷な強制労働を行い、ノルマが達成できない黒人の手足切断など残酷な行為を行った。当時3000万いたコンゴの人口は900万人と三分の一まで減少した。

レオポルド2世が在位した年代はちょうど日本が明治維新を迎えた頃。同じ時代にこのような非道が行われた事自体が理解できない。王は「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」などと言っている。やはり黒人、アジア人種を劣等人種とみなし人間以下に扱ったから、心に痛みを感じず残虐行為が出来たのだろうと思う。

「無知」がいかに恐ろしいことか改めて痛感する。

旅では他にも幾つか差別体験があったけど不思議と怒りはなかった。逆に、その無自覚な尊大さ、差別意識が可哀そうに思えた。「人は自ら蒔いた種は自ら摘み取らなければならない」という諺はキリスト教圏から出た言葉ではなかったのか?

偶然、眼の前で身体障害者の方を見かけた時どう接するだろうか?私だったら、ギクッとまず見構えて奇異な物を見た感覚に捉われると思う。そして、その後、奇異に感じた自分を恥ずかしく反省するのではと想像する。

結局、差別も、根本は個々の人の心の在り方次第だと思う。

幾つか短歌を載せます。


★ 何の店 わからないまま 暮れる街  ただ窓から差す 影絵が教えてくれた


影絵


もう10月も半ば、年の暮れも近い。12月に入れば神戸ルミナリエも洩れ伝わってくる。様々なイルミネーションに街が村が彩られる。万灯会が冬に蘇った感じだ。

何気ない街にも影絵の世界が連なる夜がある。一軒の三角窓の店。何を売っているのか、しているのか見えない、わからない。昼、見ても看板が出ていない。でも、先日の夜、通りがかると、その三角窓から女性たちの笑う声、髪をカットする姿が影絵のように映り込んだ。そうか、美容室だったのか。その夜は、街の灯りがみな影絵に見えて仕方なかった。

★  無舗装の さらに分け入った 釣り人道 湖面のウキが しじまに響く


釣り人


なぜ、草を踏み、獣道みたいな道を通って小さな湖で釣りをしているのだろう。そこは実は立ち入り禁止の区域。だから、秘っそりと分け入って糸を垂れている。誰もいないから、もう病みつきになったのだろう。微かに湖面が騒めく。何か釣れたのだろうか? 何が釣れましたか?



★ ゴミ箱が こむら返りに ポンと鳴った どんな存在も 音がするんだよと


ゴミ箱


火曜のゴミ収集日。ゴミ出しに行くと、ポンと爆ぜる音がした。



★ サントラに 蘇るシーンと 過酷な愛 ひまわり畑に 短い夏が咲く


ひまわり


映画「ひまわり」のサウンドトラックはとても哀愁を帯びている。何度聴いてもいい。現代から見れば少し稚拙なシーンも名曲が補ってくれる。このマンシーニの名曲のおかげでマルチェロ・マストロヤンニの寡黙な目もソフィア・ローレンの激情も活かされてくる。

それにしても普段、リアクションの少ない日本人が映画では過剰ともいえる泣き叫ぶ演出をする。その一方、洋画では普段の生活のオーバーアクションとはガラッと変わって寡黙であったり目で演技したりしている。この違いは何だろうと思う時がある。日本人はモンゴロイドで顔が能面だから演出で補う? だったら「能」の演技をしたらいいだろう。高倉健さんは、その「能」を活かした、また似合った数少ない役者さんだったと思う。


★ 忙しなく レジを打つ肩は 揺れている 貴女(あなた)の家にも 待つ家族のいる

レジ


私ではとてもそんなに速く出来ない。見る間に次から次とさばいていく。素直に凄いと思うし尊ささえ感じる。多分、児もいると思うけど、その児に見せてあげたいな。セルフに変わっていく前に。


★ レジ袋 車にいっぱい 詰め込んで 家まで毀れない おぉ、バランス良き日よ

買い物カゴ


おぉ、などと言うと演劇の舞台か欧州の五月の春を呼ぶ詩の感嘆符かと勝手に自分で錯覚してしまうが、それにも根拠はある。普段、買い物をして車の座席に載せる。で、帰ると必ずといっていいほど、座席の下に一つや二つ落ちている。ところがその日は見事に落ちなかった。だから良き日だった。




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京都御所3D現場顛末記 対屋編 その三(3DCG)

何か急に蒸し暑くなりましたね。眠っていたエアコンをつけました。

さて、顛末記も、その(三)として3Dに仕上げた東西の対ノ屋を掲載します。中の、明治天皇が住まわれた御局だけでも内部の三間作ろうかと思いましたが、列女伝の絵の内容もよくわからず今回はパス。また何れ作ろうとかと思ってます。

折角の3Dだから外観だけの動画でもいいから作り込むのがその醍醐味?かと思うのですが今まで5個ほどしか作っていません。どうしても3D作りそのものの方に興味が行ってしまうからです。

でも、今回は違います。対屋まできました。皇后御常御殿も制作中です。後、飛香舎が完成したら一応御殿の3D化は終り(第一期)。してない建物については、各部屋名と何に使われたか「一目で見てわかる間取り図」を作成。それに3Dをドッキングさせることにより今までなかった一味違う京都御所を表現してみたいと思っています。

御所の動画化は、残る家具・調度品を幾つか作った後です。来年の御大典で使われる高御座も不遜ながら作る予定です。

御所を空から俯瞰して南庭や御殿を巡る動画、「京都御所の御殿に上がってみよう!」みたいな感じで紫宸殿から渡り廊を渡って清涼殿へと巡り再び紫宸殿へ戻る、そんな動画をYouTubeにアップしたいと夢見ています。一つ5分程度のものを複数作りたいですね(YouTubeによれば5分以上だと、視聴回数がグ~ンと下がるような)。

以上の進行を今年、年内に完了させたいです。何とか頑張ってみます。そして、来年、新年からは御所を抜け「イザ、公家町・屋敷作り」へとシフトする計画。う~ん、道は遠しですが、その分暇もなくなる? 良き年にしたいですね。

では3Dパースをアップしていきますね。(クリックすると何れも拡大します)

朝の霧のなかの御所
朝靄に包まれた御所。

例によってというか、朝靄にむせぶ御所を俯瞰。

そして次に現れてくるのは「青天の霹靂!」、

真昼の御所
青空に眩しい御所遠景です。

霹靂?ほどでもないですよね。これも定番のいつもの進行パターンか・・・何かもう一つヒネらねば。

さぁ、出ました!幻の対ノ屋の出現です。まさに明治150年記念にふさわしい建物です!!、ってオーバーかな、ですよね。

東西対屋の南からの全景
東西対屋の南からの全景。

どうです?東西にホントに長~いでしょう。ここが後宮最大かつ女官のトップ、典侍・掌侍たちが暮らした長局です。手前の長押塀をアクセントに直線の美を演出してみました。なんてね 笑。「おぃ、長すぎないか、大きすぎないか?」と言われるかもしれませんが、安政度内裏(1855年)の指図や他の資料に基づく作っていくとこんな感じになります。

平面図も作ったので見てください。

安政度内裏・東西対屋平面図-10-2
安政度内裏・東西対屋平面図。


併せて御所全体での位置図の再掲。

対屋位置図
内裏での対屋位置図。

この平面図を見ながら3Dと見比べると解りやすいと思いますよ。一軒が60坪前後の局が10軒東西に並んでいるわけですからこんな感じにもなりますよ。明治天皇の住まわれた局も赤く囲っています。いろいろご覧になってみてください。

次は南東からアップ、

南東からの対屋
南東からの対屋。

まぁ、こんな感じかな。

対屋を少し遠巻きにいろんな角度から見てみます。

御殿越しに対屋
御殿越しに対屋。

あれ?右の御殿は小御所かな?

御常御殿東座敷より対屋を望む
帝の御常御殿東廂の座敷廊から。

あの右の殺風景な庭?は見ないでくださいね。後でまた樹木は増やしていきますからね。御殿の高欄越しに対屋を眺めるのもおつなものかと。

甍越しに対屋
甍越しに対屋を望む。

甍といっても檜皮葺ですけどね。

せっかくですから檜皮葺の御大将・紫宸殿の屋根越しに見ましょう!

紫宸殿と対屋
紫宸殿と対屋。

やっぱ紫宸殿の屋根は大きいですね。と、自分で言ってみる。

朔平門越しに対屋
朔平門からの対屋。

朔平門とは、御所の北に位置する門です。朔とは北を意味します。門の傍らに衛門府(護衛)の陣があったので北陣とも称されました。皇后、中宮、女御など高貴な女性の参入退出に用いられ、参入にさいしては、ここで牛車から賛車(てぐるま)に乗り換え内裏に入ったそうです。その際は衛門の官人に名乗ったとか。源氏物語の花の宴の巻には「北陣」の牛車の描写があります。と、以上の文面は京都新聞出版センタ刊の「京都御所 大宮・仙洞御所」からそのまま引用させて頂きました。

さぁ、そろそろ遠巻きは終わって対屋に近づいて参ります。

まずは東対屋のアップから、

東対屋アップ
東対屋のアップ。

うん?何やら人影のようなものがチラホラ?もう少し近づいてみよう。

女官遠目

やっぱり人だ。しかも女官。あ~、もっと近づいてみたいな。じゃ、行こう。

女官アップ

いゃあ、とうとう典侍・掌中侍様にお目にかかれた。150年振りの再会ですね??。
ところで左右の女官の方、服装が違いますね?どう違うんだろう。そうそう正面の杉戸絵の牡丹と蝶はあくまでイメージです。実際とは違いますからね。

聞いてみると、フムフム、左の方は今回も引用させて頂いた井筒雅風さん著「原色日本服飾史(光琳社出版刊)」によれば、この服装は、白の小袖に紅の大腰袴という特殊な幅広の腰(紐)をつけた長袴のスタイルで、高級女官が天皇の御前においてのみ着用された特別の服装。白の小袖の代わりに染繍のある色小袖を着ることもあったとか。そうですよね。たまにはお洒落したいですね。たすき掛けのようなのが「打袴の腰」というのですが、この打袴の腰ってどういう意味があるんでしょう?今一よくわからない。

一方の右の女官姿。正装であり、平安時代以来の「十二単」です。手には模様の入った美しい檜扇と帖紙を持っています。時代とともに変化してきましたが、江戸後期になると髪型もより大きい「大すべらかし」に。頭には「おしやし」といって三本の太陽の光輪をかたどった冠?を付けるようになりました。現在も女性皇族の方が結婚の儀とかで着用うされてますね。それにしても、左の普段の女官装束とはかなり違いますよね。ちょっと普段の方ももう少し派手にしてもいいのでは?と思ってしまいます。

書き忘れたので追加します。
この対屋の上家は正面南が上段間で通常の床より二段分で20㎝を越えます。ですのでCGを見て頂ければわかりますけど舞良戸・腰障子の床高より真ん中の杉戸の方が一段低くなっています。この杉戸の奥は廊下なんでこのように段差の違いが生じました。


後でまた女官さんが現れますが、対屋の周りを見てみます。

対屋西側
対屋西側。

左の北側にある桟瓦葺の建物が下家と呼ばれ台所や物置、部屋子の部屋、風呂などがあります。右の杮葺きは女官の住まい。上段間からなる三間、他に化粧間等合わせて六室からなります。ちなみに平面図でも書き込みました、明治天皇が天皇に即位する前の幼少時過ごされた局ですけど、帝は上段間に就寝し、生母の中山慶子は遠慮して狭い女房部屋に起居していたそうです。実母でも帝には遠慮するのですね。

手前の付属棟は複数の和室、女房部屋、風呂、トイレ、井戸、玄関等があります。東西対屋の両端、合わせて四カ所あります。ちなみに井戸は結構あって上家の南正面にもありますが美観上、少し損ねるので今回はカット。同じく両端から鍵の手に出ているトイレもカットしました。

対屋の井戸
井戸。

ちょっとアップしてみました。実際はどのようだったかわかりませんが時代劇に出て来るような雰囲気にしました。

せっかくですからもう一枚井戸のCGを紹介、

左右の井戸

東西の対屋の挟まれたところにある左右の井戸。奥には東西の大廊下の格子窓が見えます。


中庭


一応、上家と下家の間にある中庭。でも、実際に3Dで作ってみて思ったのは狭い!。屋根の廂が互いに迫り陽もほとんど差し込まなかったと思います。ここは庭ではありません。上家と下家を分けたときに生じた空間。そうとしか思えません。上家と下家を結ぶ渡り廊下の幅は一間、1、96mもあります。半分でいいぐらいですけど、何で一間も取ったのでしょう?平安以来、御所の渡り廊には廊下と女房部屋、台盤所(調理間)等の部屋空間を併用していましたが、一間は中途半端。半間の部屋などカプセルホテルじゃないんだから無理。されど廊下には無駄に広い。何で?いまだ用途がわかりません。

西対屋の玄関
西対屋の玄関。

西対屋の玄関です。対屋全体では四カ所あります。女官の序列に従って使い分けていました。屋根の形は「むくり屋根」。ちょいと濃い目の杮葺き。反りの反対ですが公家さんに好まれた屋根です。この玄関、実は以前作った冷泉家住宅の玄関です。実際の玄関は柱だけの吹き抜けではありません。当時の御用記によれば障子や舞良戸があった模様。でも、冷泉家の玄関がちょうど合っていたので使いました。手抜き工事ですかね・・・・

対屋下屋越しに紫宸殿の屋根を望む

対屋の下家越しに遠く紫宸殿の屋根の屋根が見えます。煙出しの屋根も十軒分あります。

ついでに屋根々も一枚。

屋根の甍
四棟及び渡り廊下の屋根。

再び、対屋表に戻ります。

東対屋杉戸
東対屋の杉戸。

ここを開けると長い廊下が続きます。杉戸の花車の絵はあくまでイメージです。実際に描かれていたわけではありません。

対屋の長廊下
広縁の長廊下。

さぁ、長廊下にでましたよ。長さ100m。実感してみてください。遥か先に女官の後ろ姿も見えますよ。廂の垂木ですが本来は二重ですがデータが重くなるので一重にしています(紫宸殿は特別だから三重にしました)。また眼の錯覚技法を使って二重ぽくしようと考えてます。

せっかくですから女官さんの後ろ姿もズーム、
女官の後ろ姿

宿直の帰りだろうか?ちょっと足取りが重い・・・忖度し過ぎですかね・・・笑。

女官シリーズ最後はこの方に締めくくって頂きます。

女官正装

出ました!十二単。年中行事絵巻からの帰りでしょうか?? まぁ、いいや。でも、どこか少し物憂げな・・・。帝のことを想っているのだろうか・・・もう源氏物語の世界ですね。

では最後に夕陽とともに「顛末記 その(三)」を終了させて頂きます。

御殿の夜明け-2

長文、いや沢山の3DCG長々と失礼しました。台風25号も北に逸れたようですけど少しでも被害が少ないよう。この日本がどうか平安でありますように。


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京都御所3D現場顛末記 対屋編 その(二)

台風で半日停電しました。幸い水道は影響ありませんでした。読者の皆さんは大丈夫でしたか?お互いに気を付けましょうね。

遠方に対屋を望む(南東)


さて、対屋編 その(二)では引き続き文献に基づく対屋の復元を試みる訳ですが、その前に内裏図でいくつか「何故だろう?」と思ったことがあったのでちょっと触れてみます。参考内裏図は宝永度のものです。ではアップします。

宝永度内裏対屋周辺図(中井正知氏蔵)
宝永度内裏図(中井正知氏蔵)。

図中の赤く囲った所に「井戸」と印し幾つもありますが、そのなかで典侍等の住む上家の南にも東西対屋に二つづつ井戸あります。他に幾つもあるのに、何故、正面、対屋の顔とも言える南にあるのか?少し疑問に思いました。格式的にも崩れますし。で、思ったのは、帝がお見えになったとき、典侍らが使用人の手を借りず直接お茶を差し上げたり、帝のお足・体、汗を拭いたりとか身近にお世話するために設けたのかなぁ、とか思いましたね。

この宝永度の内裏図は柱の位置もしっかり記され間取りの線も他の内裏図よりも丁寧に描かれています。ですから見やすい。上家と下家の梁方向が直線なのもよくわかります。これも他の図だと?と思う箇所が結構あります。

対屋については宝永度から幕末の安政度まで基本変わりませんが、ただ中廊下が追加されてます。ですから上家の方が東西に少し伸びている感じですが、手書き図なので明確にはわかりません。柱の印もないし。この辺が復元上でも泣き所ですね。

これも対屋上家ですが、南正面の端から廊下が伸びトイレが三つ横に続いてます。廊下には柱の位置がないので吹きさらしかと思います。一応、身隠しの塀はあったと思いますが、対屋の長廊下からは丸見え、「何でここに?」との疑問が湧きます。書院で言うなら庭の前にトイレ?って感じですからね。わかる方教えてください。

さて、文献から調べた対屋の外観・仕様等ですが、今回、メインに参考にしたのが「京都御所造営録」。

京都御所造営録-詫間直樹編集-中央公論美術出版
京都御所造営録-詫間直樹編集-中央公論美術出版。

原本は寛政度内裏の「造内裏御指図御用記」で、宮内庁に所属される詫間直樹氏が翻刻され中央公論美術出版から刊行されたものです。当時の造内裏御指図御用記は難解で判読不明な所も多く、翻刻されたことにより、寛政度内裏の造営過程がより調べやすくなる、というまさに研究家にとって重宝な書籍ですが、私が研究家?。

造内裏御指図御用記原本(宮内庁書陵部蔵)
造内裏御指図御用記原本(宮内庁書陵部蔵)。

実は、ヤフオクでこの書籍全五巻が定価の半値で出品されていたのです!まだ、刊行して日も浅いのに、おぉ、半値!、と、そのお得感に深く考えもせず速攻で落札したのです。

で、本を開いてみると、見たことも聞いたこともない用語や漢字の羅列。絵図・指図といったイラスト風を想像していた私には途方もない難解な本でした。なんで大学の研究者でもない自分が買ったわけ?、とヤフオクに釣られた自分を後悔。本棚に埃を被る運命を察し「ごめんなぁ、京都御所造営録」よ。と思ったところがドッコイ。今回は流石に造営録を通覧しないと対屋の中身もわからない、ということがわかってきて、読解に挑むことにしました。

で、段々、京都御所造営録の重要性が解ってくると、「半値で売りたたくとはケシカラン!、価値がわからんのか!」となんか怒れてきて、それを喜々として買った自分にまた怒れるのでした。

すみません、脱線してしまいました。

まず京都御所造営録から、対屋に関わる確認・伺い文とその回答の趣旨を記した文面を、日付、簡単な解題から探します。そのなかで、まず、屋根の形状を調べました。上家については「入母屋」の検討はついていたので、下家の方を重点としました。そしてヒントとなる文面を探し当てました。

狐格子の確認
対屋下家の屋根形状を記した箇所。

赤く囲ったところに「狐格子」とあります。
この狐格子とは入母屋造りの妻部分に妻飾りとして設ける縦横の格子のことをいいます。


狐格子破風
狐格子破風。

こんな感じです。即ち狐格子=入母屋屋根ということで、下家の屋根は入母屋造であることがわかりました。その(一)で、葺きは瓦であることは確認しているので、

では、どんな瓦で?そこがわかる文面を探します。すると、

桟瓦葺の伺い文
桟瓦葺の伺い文。

「桟瓦葺」の文字が出てきて、それでよいか伺いをたてています。

その回答が、

対屋下家の瓦葺回答文
対屋下家の瓦葺回答文。

他の建物と一緒に瓦葺にする旨答えています。

ちなみに桟瓦葺の形状ですけど、
本瓦葺と桟瓦葺の比較
本瓦葺と桟瓦葺の比較。

上の屋根が本瓦葺。下の廂部分が桟瓦葺になっています。

桟瓦葺は今でも民家に使われています。社寺等に本瓦葺に比べ軽いのが特徴で、江戸後期に普及しました。御所でも裏方の台所や長屋、詰所、番所、等のその他の建物に使用されました。また屋根形状も寄棟が多用されました。なんとなく寄棟より切妻の方が格が落ちるイメージがありますが実は切妻が上です。よく寺の庫裏に見かける切妻屋根を見ますと、切妻破風で飾られています。その点、寄棟には破風がありませんからね。

これで屋根形状も瓦の種類もわかりました。

後は寸法ですが、部屋の間取りは8畳、10畳の表記でわかります。身舎の梁間は7間で小御所と同じ。なので建物高さは小御所より傾斜を下げて1m下げた11mに。後、軒の高さは解らなかったのですが承応度の寸法で見ると垂木を支える化粧桁裏まで壱丈9尺とあるので約6mの軒高。(京都御所-新訂、藤岡通夫著、より)。簀子までの床高三尺の約90㎝。ちなみに室内の上段から三の間までは框が四寸六分(約14㎝)の三段から構成された本格的なものでした。上家の南の広縁廊下は簀子も含めると幅はほぼ3mあります。これが東西に100m続くわけですから簀子の上に柱を設け廂も母屋の屋根から一段下げ、上家二棟からは独立しているけど繋がっているという、見てみないとわからない?という屋根形式にしました 笑。

後、建具ですが記載から妻戸や蔀等の寝殿造風建具はなく、外側が舞良戸(板に桟を施したもの)で内側が腰障子等の明障子、それと一部杉戸がありました。窓及び明かり取りは連格子としました。下家の北、台所には煙出しの小屋根を計10カ所設けました。室内は天井が張られていました。壁は基本、白の漆喰としました。ちなみに、文中に「黄塗」、「生円子塗」とありましたが意味がわかりません。黄塗は木口を黄に塗る意味でしょうか?何方か教えて頂けたらありがたいです。

ここからは冒頭でも書きました、安政度内裏の対屋について一部泉涌寺に移築した経緯について書きます。

引用資料は、天木詠子氏の論文「泉涌寺御座所・ 小方丈等の前身建物について(対屋)」と「泉涌寺小方丈 応接間等に関する建築 と障壁画の 復原的検討」です。

泉涌寺そのものは明治15年に焼失した経緯がありその後の明治17年の再建・造営事業に伴う移築と考えられます。同氏の描かれた安政度内裏対屋平面図と泉涌寺本坊平面図に移築された対屋及び寛政度御里御殿の位置を指し示してみました。

安政度内裏対屋の泉涌寺への移築過程図
安政度内裏対屋の泉涌寺への移築過程図。

この図で説明すると、対屋の右から三番目の室(四間から構成)を泉涌寺の応接間へ移築。また式台についても対屋から移築された線が濃厚。明治天皇は東対屋の赤く囲った生母である権典侍・中山慶子の室で4才まで共に過ごされたそうです。

明治天皇は庶出皇子であったことから御所の若宮御殿ではなく生母の中山慶子の典侍局でお暮しになったわけです。
東対屋の中央「上段・二之間・三之間」三部屋が明治天皇の幼少時の御在所で、横の四帖間(化粧之間)が中山局の御部屋だったそうです。そういった経緯もありこの室が泉涌寺に移築されたのではと思います。東対屋は桁行だけで40m近くありますから全部の移築は無理があり、ここだけでも、ということだと思います(明治聖徳記念学会紀要の「泉涌寺における明治期霊明殿の成立」、石野浩司著-より引用)。

図のピンクの御座所、小方丈は寛政度御里御殿から移築されたものです。

寛政度御里御殿とは、仁孝天皇の女御であった鷹司繋子の入内にともない文化十四年(一八一七)十一月から翌十五年二月までに造営された新皇嘉門院(鷹司繋子の院号)の御産御殿のことをいいます。この御殿から一部が移築されたのです。

以下、天木詠子氏の論文のまとめを引用しますと、

1.御座所は寛政度御里御殿のうち、南東に位置する建物を移築。
2.小方丈は同御里御殿の南西に位置する建物を移築したもの。
3.応接間、式台の床板は安政度内裏の東対屋の部材の可能性が高くその他部材も同対屋からの可能性が高い。
4.小方丈は、応接間、式台の障壁画は安政度内裏の東西対屋からの転用である。

この論文から、私は応接間、式台は安政度内裏の東対屋からの移築である、と断言できると思います。

参考までに現在の泉涌寺本坊の応接間に飾られている東対屋から移した障壁画を紹介します。現在、応接間は非公開ですので、「美術日本.43号.公益財団法人・中信美術奨励基金」に掲載されているものをアップします。

東ノ対屋「列女伝 有處二妃」図 望月玉泉筆
東ノ対屋「列女伝 有處二妃」図 望月玉泉筆。

以上、顛末記 対屋編 その(二)でした。(三)では3DCGを幾つか掲載します。宜しくお願いします。



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京都御所3D現場顛末記 対屋編 その(一)

これが ↓

内裏と東西対屋の俯瞰図-1

これに ↓

2018-09-25-京都御所に対屋を追加

なりました。

記事、嫉妬を生まない御所の後宮システム 後編
で描き添えました典侍等高級女官の住居(長局)である東西の「対屋」ですが、現京都御所には遺構は存在しません。明治維新後解体されました。ただ、一部の室、古材、及び襖絵が泉涌寺に移築されている、との事ですが、非公開なので確認することはできません。移築後の改造もあって、全体としての対屋がどのような建物だったのかは不明です。

そこで無謀にも、平面図だけでは物足りなくなって、何と、3Dで復元にチャレンジしてみよう!、というあらぬ方向に走ることになりました。もし、できたら本邦初公開かも?(油汗)。従って、皇后御常御殿と飛香舎はその後で、ということで。

ちなみに、移築された一部の部屋とは、明治天皇の生母・典侍の中山慶子が住まわれた部屋だそうです。この移築の経緯については後ほど触れたいと思います。

対屋については過去の文献資料で当時の平面図及び簡単な寸法・仕様注記等はありますが、建地割図、つまり今で言う立面図はありません。比較的立体図が多く残っている宝永度内裏の図(木子文庫)にも対屋は載っていません。

平面図だけでは・・・どう3Dで描けば・・・と、もがきましたが、座して待つよりもとにかく多少でもわかる資料に基づいて始めてみよう、ということでまずは当時の内裏図の比較検討から入りました。

ということで、対屋の3Dが出来上がるまでをドキュメンタリー?タッチで記事にしてみました。ことのつまり「顛末記」。どうなることやら。。。

そうそう、対屋の位置図を示さなければ、
対屋位置図
対屋位置図。

東西南北に四棟の建物から構成されています。図で見る南の二棟が典侍らが住む上家、廊下で繋がる北の二棟が、台所や内風呂、その他、倉庫、什器が揃い部屋子たちが起居した生活棟です。一応、四棟は別々になっていますが、上家の方は南側の広縁が一本の長~い廊下で繋がっており、その長さ、何と100m! 三十三間堂も真っ青(118m)なほど。広い内裏を真上から見ても、図の通り、その存在感半端ないです。記事冒頭にも紹介した通りです。これを見ても、御所にとって如何に大事な存在だったかわかります。

∇ 内裏図をどう読み解くか? ∇

内裏図にも大きく分けて二種類あります。

まずは、屋根を何で葺いているかが色分けしてわかるようになっている内裏図(幕末・安政度・1855年)。
色分けで屋根を区別
屋根を色分けした安政度内裏図(東京都立図書館蔵)。

赤っぽいのは最上級の檜皮葺、図にも皇后御常御殿が赤になってます。で、対屋ですが、上家は鶯色の杮葺き。檜皮葺の次に上級な屋根。「こけら葺き」のなかでも最も薄い板(杮板)を用いています。板厚は2 - 3ミリメートル。面白い(失礼)のは皇后御常御殿の北にある若宮・若姫(親王及び内親王)の御殿が黄色の木賊葺(板厚4~7ミリ)になっていて対屋上家よりも一段低い「こけら葺き」になっていることです。当時は皇子たちよりも典侍や掌侍の方が偉い?格上になっていたのでしょうね。

下家はグレー色の瓦葺となっています。瓦葺の方が格は下なんですね(台所でもあり防火上の理由もある)。

一方の床を色分けしたもう一つのタイプの内裏図(同じ安政度内裏図・京都大学蔵)。

床を色分けする
床を色分けした京都大学図書館が所蔵する安政度内裏図。

この内裏図で見ると、畳は鶯色、黄色は板間、グレーは土間、細い縦線もしくは横線がはいったのは簀子(縁側・落ち縁)となっています。対屋だと、上家が畳と広縁・廊下などの板間であることがわかります。下家には台所ということもあってグレーの土間が一部あります。

これで、取り敢えず、対屋の屋根の葺き方、床の区別が解りました。

では、御所でよく見かける高欄の有無はどうなんでしょう?

高欄
高欄の実例(京都御所)。


再度、安政度内裏図(東京都立図書館蔵)を見てみます。

高欄 の印
安政度内裏図(東京都立図書館蔵)。

皇后御常御殿の縦に赤く囲ったところが高欄の印、廊下の端で交差しているのが解ります。対屋にはこの印はありません。従って対屋には高欄が無かったことがわかります。ちなみに御所の場合、高欄付なのは檜皮葺の御殿のみ、ということがこの内裏図からも読み取れます。

内裏図の対屋で気になったのは、上家を東西に走る広縁廊下の(落ち縁を除く)真ん中に一本の線分が引かれていること。なんだろう? 段差の表示? 馬道(メドウ・長廊下の呼称)の印?

そこで例によって内裏図を比較する。

廊下の線の意味がわかった
安政度内裏図の比較。

この比較図にも書き込みましたが、左の屋根色主体の図だと単なる線ですが、右の床色別の内裏図で見ると線の上側(北)が鶯色の畳になっています。ということは、ここの一間幅廊下(京間で1969㎝)の半間が畳廊下。残る半間が板廊下(馬道か?)であったことがわかります。ここは壁のない吹きっさらしの広縁で上段間と繋がっていますから一間そのまま畳の座敷廊下にすれば? と素人の私など思うのですが、そこはやはり寝殿造の面影を残そうとした板床と書院造りの格式である畳廊下の両方を折衷したのかな、と思いましたね。また御所の女官は素足が主でしたから冬の時期など畳が足裏に優しい、また、帝が歩かれる畳道としての実用面があったかとも思います。

以上、内裏図から読み取れる対屋の仕様を追ってみました。

次のその(二)では、文献から屋根の形や瓦の種類、建具、寸法などを追って、より対屋の実像に迫っていきたいと思っております。そして最後、その(三)では解説も交え完成した3DCGをアップします。
「おっ、それって記事稼ぎ?」なんて思わないでくださいね 笑。

対屋遠景-2


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