3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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ハザードサインのやさしさ

最近、胸へんが張るので、残っていた「逆流性食道炎」の薬を飲んだら、スーぅという感じで治ったので、味を占めて病院へ薬をもらいにいきました。「薬だけでいいです」、「は~い、わかりました、カルテ見てみますね。ちょっとお待ちください」。しばらく待っていると看護師さんが「○○さんにはこの薬お出ししたことありませんよ」、私、「はぁ?」、しばし狐につまされた感じ。でも、だんだん、じわ~っと思い出されてきた。「うわぅ、ここじゃなかった!耳鼻科の先生っとこだった・・・」、看護師さんが笑っていた。「あぁ恥ずかしい」。一年以上とか間が空くとどこの何某でもらった薬か忘れてしまうときがありますね。あぁ、同調を求めてはいけない。私のことのみでした 笑。

でも、そんな忘れてしまうような薬もあれば、
絶対忘れない薬がある。それが一つ二つ増えていく。飲みきれない・・・。22日、乳がんで亡くなったフリーアナウンサーの小林麻央さのニュースをみながらそんなことを思いました。


★ 熱さまシート いくら跳ねても  剥がれない  
    子供の不思議を 病院で視る



熱さまシート

そう、その間違えた内科医院で、どこが風邪?と思われるほどに元気な子供が飛び跳ねていた。何で落ちない?、その熱さまシート。自分だったら寝返りを打てばどっかに飛んでいってしまうかも。子供は軽い、肌はもち肌だから?などと不思議に思いながら、薬剤師さんに聞いた。「それはひとそれぞれですよ。脂性の人やカサカサ肌とかですね」、「でも子供は?」、「子供さんも同じですよ、落ちる子は落ちる、落ちない子は落ちないですよ」。ふぅ~んと思いながらも何か腑に落ちない。きっとその薬剤師さんはまだお子さんいないんだろうなぁ、と思った。
子供の軽さには大人はついていけないなぁ、と、その待合室で思った。そういえば「熱さまシート」は固有名詞、薬品メーカーのブランド名だ。短歌に使っていいのか?30年後には「熱さまシート」も無くなっているかもしれない。すると、私の短歌は宇宙ゴミ?


★ 一瞬の 道空けなのに ハザードサイン 
      点けずにおれない あなたの優しさ 



ハザードランプ


ホントに僅かに車を停め道を空けただけなのに、しかも偶然なのに、私の前に入った車はハザードランプを点滅させお礼を返してきた。そんなに律儀に返さなくても、と思ったけど、嬉しかった。前の運転手は中年の女性だ。運転がちょっとぎこちない。自動車学校の教官だったら「無理にハザードランプを押すことはない。それよりも前をしっかり見て運転しなさい」と小言を言われるかもしれない。でも、ランプを押さずにはおれないんですよね。こんな少しの善意でも感謝を返さずにはおれないあなたの優しさが伝わってくる。
私も「どういたしまして」と示したかったけど、咄嗟のことで要領をえなかった。わたしも、あなたと同じ「ぎこちない」人間なんですよ。






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飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 後編

今、後編を書き出しているところですが、
14日のブログで東京帰りのついでに背景用写真を撮ってこよう、と書きましたが確かに撮ってきました。足に豆ができるほど歩きました。でも、皇居東御苑は金曜はお休みで入れないんですよね、知らなかった。いきなり出鼻をくじかれた感じ。
仕方なく明治神宮に移動。そこでパシャパシャ撮ってましたが、そのときのこと。灯篭を撮っていたら突然背後から40代くらいの女性から「今、撮りましたよね、見せてください。私が写ってるかもしれなから、写ってたら削除してください!」といきなり言われ、小生は呆気にとられながらも、「軒からぶら下がっている灯篭ですから角度は上、写ってませんよ」と言うと、「とにかく見せてください」の一点張り、逆らってこじれるといけないから素直にオープン、スライドしても天井と灯篭しか写ってない。その女性はそれを確認するとやっと納得し、「背後から撮る音がしたから私を撮っているかと思いました」と言うと、そのまま行ってしまった。
何だこれ?、「すみませ~ん、撮ってくれませんか!」とか、「一緒に撮りませんか?」とかは今まで言われたことはありましたが、
今回のように、いきなり「見せろ、削除しなさい」と上から目線で、しかも妙齢の女性から言われたのは生まれて初めてです。
その場では、そのままやり過ごしましたが、今、こうして記事を書きながら、何かムラムラと怒りがこみ上げてきました。私は後から思い出してジワジワと怒りがこみ上げてくる情けないタイプなんですよね・・・・苦笑。ただ、怒りはあんまり引っ張らない性分、翌日にはケロっとしたりします。でも、これはこれで怒りが継続しないのは反撃もできない・・・と何か損した気分になったりして、平凡な男だぁ、としみじみ思います。
 
こんなこと言ったらこのブログ見てる女性の方から顰蹙を買うかもしれませんが、「誰が、アラフォーなんか撮るかよ」とその女性に言い返したい。でもやっぱ、面と向かっては言えない。「助けてください!絡まれてます!」と逆襲に遭いかねない。最近、駅で痴漢と叫ばれ線路に逃げたり、轢かれて死んだ男性のことで世相の話題になってますが、今回、私が遭遇した女性も自意識過剰?で「男性を色物で見るような尊大さが見え隠れしましたね」。時代は「女尊男卑」・・・・あぁ、生きずらい。

脱線しました。本文に入らねば。

中編では、聚楽第に天守は存在したか? という切口からいろいろと書きましたが、今回は本丸のなかに入っていきます。飛雲閣は本丸のどこか?それと聚楽第が解体され後の同閣の数奇な運命、あるいは誤解を自分なりにひも解いていきます。で、まずは本丸内がどんな構造、御殿の並び、林泉の形をしていたのか? 私の作ってみた本丸想像図を基に見解を述べてみたいと思います。想像図を再度掲載します。

聚楽第本丸拡大図(3D京都)
聚楽第本丸の主要部拡大図

本丸内は大きく分けて四つのエリアに分けられると思います。東側の堀沿いは主要な通路となっており北の丸へと通じています。本丸は北と西、そして南の三か所あり、南から入る日暮御門が本丸の正門と思われます。四区画のうち南門に近い南東部に表御殿があったと思われます。玄関から入ったところが遠侍、大名等の控えの間です。奏者の間は大名・公家等の従者の控え間でした。式台の間とも言います。そして対面所があります。二条城でいう大広間と同じです。ここで諸大名・公家と謁見します。規模、間取り等は和泉国の番匠岸上家に伝来したものが残されており、内部は表書院、裏書院、中門、公卿の間等に分かれています。ちなみに室町時代、「主殿造り」と言って、対面や仏事を行う間、寝室などが一つ屋根の下に完結した生活形態の場をそう呼ぶとのことですが、これは、渡り廊下で寝殿や対屋をつなぐ寝殿造りや用途に分けて式台、遠侍、大広間、小書院等が連なる「書院造」とも違っていて戦国時代を経て信長の時代まで続いた建築様式でした。それが信長の安土城あたりから変化があり、秀吉の大阪城、聚楽第へと経るに従って近世の書院造の完成をみていきました。書院造の五大殿である遠侍、式台、大広間(対面所)、小書院、御座の間が揃ったのも聚楽第あたりからで、それが徳川の二条城の二の丸御殿でより大きく踏襲されました。

さて、想像図では対面所に渡り廊下で舞台(能等)に繋がっていますが、これでいいのかわかりません。二条城では行幸御殿が遠侍等より南に位置し、渡り廊下の中間に舞台があります。行幸御殿は天皇の御座所で休息的空間。舞台を観覧されるときは対面所に御座されたのでしょうね。表御殿の御座所ですけど、こちらは格式ばらず内向きの対面の場。二条城でいう黒書院にあたります。そして東につながる御座の間は秀吉(もしくは秀次)の休息、寝所です。二条城では白書院と呼んでいます。

御座の間の北側には台所や料理の間、長局があります。規模も大きい台所は料理場の用途だけでなく、庶務・雑務の事務方や女房衆、家臣の控え間であったりと、いろんな使われ方をしました。料理の間は配膳・盛り付けの意味もありますが、囲炉裏があって家臣同士の談笑や時に家老の部屋とか、女房衆の世間話の場であったり休息の小部屋があったり、まぁ、多目的スペースでした。元々は殿様の暖を取ったりする寛ぎの場だったんですよ。さらに奥は侍女や女房衆の生活の場であった長局。とだいたいこのような構成になっています。一応、それなりに配置したのである程度は当時の御殿の様式がわかると思います。

表御殿とは廊下で繋がっている行幸御殿。本丸西南のエリアに設定しました。表御殿もそうですが広い苑池を眺められるようになっています。屋根は檜皮葺で上の箱棟は黄金で飾られています。隣は中宮御殿。皇后のお住まい、どちらも内向きの対面、休息の御殿となっています。北側には表御殿と同じように台所、長局があったことでしょう。また、寝所であった御座所、それと中宮のため化粧殿もしくは化粧間があったでしょう。行幸時だけの御殿ですから棟数も少ないです。行幸が終われば解体・移築されるケースが多いです。しかし、行幸時は華やかに飾り立てられました。秀吉の御伽衆であった大村由己が著わした「『聚楽行幸記」の記述によれば、行幸御殿の屋根には金龍、御殿の側面には鶴が描かれていました。まさに秀吉絶頂の天正16年(1588年)の後陽成天皇の滞在された五日間だけの存在というか装飾でした。

そして、行幸御殿の南、池のなかに飛雲閣が立っています。御殿からみれば日当たりのよい南向きから同飛雲閣の北向きの正面が眺められます。飛雲閣へは長い渡り廊下で結ばれ向かって右にゆけば風呂である黄鶴台へ、左に曲がれば飛雲閣。舟で渡るなら同閣の室内にある舟入の間へ直接舟着、平安言葉でいうならば詩歌管弦、舟の上で様々な遊興、そして時に芸術論も交わしあったかもしれない。飛雲閣は茶席であり、内々の対面、饗応の場であり、独立した三階建ての楼閣です。回遊庭園のそこかしこから優美な姿が見れたことでしょう。では御殿からなぜ渡り廊下で繋がれた位置関係にしたのか?

実は3Dで作りながら思ったのは、「この楼閣は二階の高欄から、三階から外の景色を眺めるためだけではない。また、対面、饗応、遊興の場だけでもない。実は「行幸御殿、書院の広縁から、そのまま眺められる」ことを前提に正面を北向きにしたのではないか?という着想です。だから、飛雲閣は元々は南向きだったけど移築の際、北向きに180°変えられた、という説には肯けません。最初から北向きに建ててこそ、その美しさが映えるように設計された。そんな気がしてくるのです。

飛雲閣の二階、歌仙の間の外の妻戸には歌仙の姿とともに御簾が描かれています。一見、本物らしく見えますがそうではありません。戸板に直接描かれたものです。俗に言う「騙し絵」ですね。なぜ、立派な三重楼閣にだまし絵が必要?、不思議です。これは私の個人的な感想ですが、書院の縁側から「だまし絵を見て楽しむ」、また、その遊び心を楽しむ。時には画題を変えたり。そんな、ペインティングもできる楼閣だったかもしれない。だから御殿は南向き、飛雲閣は北向きが必要だった。こんな想像はかなり突飛ですが、3Dで作っているとなぜかそう見えるのです。

飛雲閣36歌仙の壁画


後、池の方ですけど、飛雲閣へ直接舟入する黄鶴台を伴った建物は桁行も長く、それに見合った池となると現在の金閣の鏡湖池よりも大きなサイズでないとバランスは取れないと思います。ですから、飛雲閣があったとするならば中編でも書いたこの山里地域しか思い浮かびません。ここには茶室もありました。三井家蔵の「聚楽第図屏風」に山里地域を描いたはずの六扇目が欠損しているのは本当に残念ですね。

本丸北東には奥御殿、正妻である北政所の御殿があったと思われます。表御殿とは直接つながらず、想像図に描きました対面所や広間、小書院、御座の間、その他棟も大阪城の奥御殿を参考に描きました。大阪城は1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて築かれ、聚楽第の方は1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成しています。両方ともにほぼ同時期に建てられましたから共通点はかなりあったと思われます。

後、北西の天守のあるエリアですが、これも中編で書いた公家・吉田兼見が記した『兼見卿記』の天正18年(1590)1月18日の記述のなかで、豊臣秀吉の側室の摩阿姫(前田利家の三女。後に加賀殿と呼ばれる)が聚楽天守に住んでいる記述があって、もし、そうなら信長の安土城と並んで天守に居住した数少ない事例ですが、実のところ、この記述が天守なのか、二階建ての楼閣風の御殿だったかは判然としません。しかし秀吉は内裏から聚楽第へ通じる道沿いの家は二階建てにするよう布告を出していますから、城内に二階以上の御殿や楼閣、望楼が点在してもおかしくはありません。秀吉には加賀殿以外にも大勢の側室がいましたから、ここ天守直下のエリアは今でいう高層の高級マンション(当時は二階以上)が立ち並び、そこで側室たちが住んでいたかもしれません。その情景の一つが、「ふと、窓から顔を出した加賀殿と遭遇した兼見」ということです。

以上、ざっと想像図の本丸内を解説しました。飛雲閣が明瞭に存在した確証はなく、結局、振り出しに戻った形ですが、それでも一つだけ最近出てきた聚楽第および飛雲閣の移築についての新説を書き添えたいと思います。

太閤豊臣秀吉が2代関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後の京における新たな正式の邸宅として現在の仙洞御所あたりに築かれた城郭構えの屋敷を「京都新城」といい、その呼び名は最近になってからのことで当時は「太閤御屋敷」とか記されていました。

中むかし公家町絵図(1611~1615)
中むかし公家町絵図

この絵図は江戸時代初期の地図「中むかし公家町之絵図」というもので現在の仙洞御所にあたる場所が当時は北政所の広大な邸宅だったことを伺わせます。即ちこれが「京都新城」のことです。よく聚楽第破却後の建物は多く伏見城に移築されたと言われていますが、そのときの伏見城は指月城とも呼ばれ、その後、地震で倒壊、新たに木幡山伏見城として再建されました。地震時は火災は発生しなかったようで、そのまま用材として木幡山に転用されたそうです。ですから、その時点では聚楽第からの移築遺構も残っていた可能性がありますが、関ケ原の合戦の火ぶたとなった慶長5年(1600年)8月の石田三成による伏見城への攻撃でほとんど焼けてしまい、この時点で移築遺構は焼失してしまったと思われます。

しかし、京都新城の方は秀吉没後も北政所が住み続け、聚楽第にも近かったことから、同京都新城にも聚楽第の破却後の建物がいくつか新城に移築された可能性があります。そのなかには飛雲閣もあったかもしれません。その同京都新城も寛永元年(1623年)、北政所が没し、寛永4年には後水尾天皇の譲位後の仙洞御所としてここも破却されてしまい京都新城は消えてしまいました。当時の常としてここの建物も破却時、京の寺院や公家屋敷等に移されたと思われますが、ちょうどその時期と重なるように現在の西本願寺飛雲閣の黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見されたことから、これを飛雲閣移築の時期と考える説が俄に浮上してきました。ただ、聚楽第の移築遺構というよりも、京都新城に建てられた遺構として西本願寺に移築された、との説でこのへんが従来の移築説とは違います。本願寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)に豊臣秀吉の遺構だと記され、これが聚楽第からの移築遺構説の根拠となったものですが、秀吉の遺構という意味では聚楽第と京都新城は共通しており、そのへんの混乱から、本来なら京都新城からの移築のはずが聚楽第に置き換わってしまった・・・・そう推測できる可能性もあります。

京都新城(書き込み付)
洛中洛外図屏風(岡山蔵本)に描かれた京都新城。

上掲の洛中洛外図には「ごしんでん」、また同時代の東博蔵本の洛中洛外図には「〇〇たいゐん」と付箋がつけられ、当時、北政所の邸宅として新城が描かれている様子がわかります。ただ雲に隠れて細部は解らず飛雲閣に似た楼閣も見当たらない。しかし、現在の仙洞御所にひろがる大池が京都新城当時、アコガセ池と呼ばれた池を利用していることから飛雲閣には十分なスペースであり、舟遊びにも適していることがわかる。また同新城は聚楽第の本丸より広い。以上のことから、私なりに推測すると、「どうやら飛雲閣は京都新城からの移築らしい。ただ秀吉が建てた遺構という意味では同じ。そこから混乱が生じ、いつのまにか聚楽第からの移築説が流布してしまった・・・」との仮説が有力な気がします。実際の落としどころとして。ただ、確証はありません。後、付録ですが、洛中洛外図の左奏上の内裏には二重御殿が描かれています。あの三井蔵本の聚楽第図屏風にも描かれている二重の行幸御殿と同じ構図です。ひょっとして聚楽第行幸御殿の移築かもしれない?

結局のところ、飛雲閣が聚楽第からの移築である、という証拠はなく存在自体も証明できません。それでも今回は解らないなりに論点だけは整理してみました。あくまで自分の脳内での整理ですけど。

※ 京都新城については、ウィキペディア及び内藤昌、油浅耕三両氏の論文「豊臣家京都新城-武家地の建築」から一部引用させて頂きました。

後、せっかくですから江戸・天明期に描かれた本能寺方丈の向い唐門を紹介します。この門は聚楽第からの移築と伝わり、現在、これも移築ではないかと言われている大徳寺唐門よりも大きく豪華な彫り物、装飾で飾られた門でしたが天明の大火で失われてしまいました。

都名所絵図本能寺向唐門図
都名所絵図に描かれた本能寺の向唐門






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私の旅は『ヒッピーロードの旅』だったのだ。

木、金曜と東京へ所用があって出かけるのですが、帰りのついでに写真を撮って帰ろうと思ってます。
最近、ファイルサイズが6000ピクセルまで写せるデジタルの一眼レフを買いました。今まで背景用に撮っていた写真が
パソコン画面で見るとボケてしまい「使えないなぁ・・・」と常常思ってましたがこれで解決、と密かに楽しみにしています。
で、効率よく撮ろうということで、都心の皇居東御苑、新宿御苑、明治神宮と、ワイドな和風庭園やバック写真が撮れると
計画を立てているのですが、考えてみたらかなり歩きますよね・・・。途中で熱中症で倒れるかもしれない。
多分、一日では撮りきれないからもう一泊するかもしれない、とか、そんなこと考えています。
多分、撮って我が家に帰ってきたら二日は死んでいると思います・・・
えっ?なにが言いたいの? 決まってるじゃないですか、「飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう?」の後編が
また悪い癖でアップロードが遅れる・・・と、いうことの事前報告??で、ちょっと雑文と小品集、短歌の幾つかでも書いておこうと思った次第です。

話は変わりますが、若かかりし学生のころはユーラシア大陸を一年近くかけて貧乏旅行するなど(体験記はカテゴリ欄に記載)
怖いもの知らずの元気な盛りでしたが、最近は旅に出るのも少々億劫になりました。
盆休みを少しずらして家族で二泊三日、山陰の旅を計画しているのですが、航空券から宿、レンタカーの手配まで「お前がやれ」と押し付けられ面倒くさい。これも、一人旅の話を吹聴したりするから、どうも「旅」ならお前がやれ、ということでヤレヤレ。
いつまでも青年ではないのですよね。

今思えば、ユーラシア大陸を股にかけた、若者の特権でもあったバックパッカー、一人旅も、
実は先輩パッカーたちが切り開いた道、「ヒッピーロード」をそのまま旅したに過ぎない、もっと言えば、遠く楼蘭の昔から
隊商たちが交易したシルクロード南路を、そのままトレースしていたに過ぎない・・・と、
最近、思えてくるようになりました。旅仲間で情報交換した安宿や食べ物屋、ローカルバスのルートや治安情報、
観光ルート、大麻の溜まり場、ヒッピーのコロニーなど、ただ教えられ、それをまた誰かに引き継ぐ。
だから、言い換えればすでにお膳立てされた「ヒッピーロード」をたどり、それが一人旅だと錯覚していたのだ・・・と。

当時、一歩、ヒッピーロードから道を外れたら、そこは現地民しかいない未知の世界であり、
足を踏みいれたらもう二度と戻ってはこれない恐怖を感じました。それほど、日本や欧米の世界と、
あらゆる面で価値観が隔絶していました。だから現地で知り合った人の案内とかでしかその迷宮の中には入らなっかった。
地方都市とかは完全にそうでしたね。

本来の冒険的な旅であれば、それこそ、そんな領域への挑戦が本当の一人旅といえるのですが、
そうはしなかった。物価の安い地域でのんびり逗留し、ハッシッシ(大麻)を吸ったり、フリーセックスを伴った
東洋思想?に溺れたり、ヨガや瞑想に耽ったり、日長、ゴアやプーリーの海で円座を組み、歌ったり踊ったり、
ひたすら自由なるものを謳歌していた。それが何物にも縛られないヒッピーの生き方と思っていました。

それが今の団塊の世代にあたる。
私はその一つ後の世代、ヒッピー世代の最後期にあたります。
ヒッピー的な考えの人はいまもいる。
しかし、時代のムーブメントとしてのヒッピー文化は終わっています。

かつてはヒッピーたちも踏み入れず隔絶していた西南アジア、インド亜大陸の内奥地域、
それも今やネットや携帯、SNS情報が世界を駆け巡り、その壁を崩している。
隣に座った人物がISやテロリストだったりする。
今は、海外への一人旅は気楽なものではなくなっている。
情報の発達と危険との隣り合わせ、なんと皮肉なことだろう。

単純に海外の旅を楽しみたかったら、団体ツアーに参加するのが手っ取り早い。
添乗員、現地のガイドさんがいろんな所へ案内し、いやというほどその国のことを話してくれます。
だから短期間で情報通になり旅を楽しめる。

情報量からいったら一人旅の方がずっとか少ない。ガイドが付くわけでもないし。
それでも、たとえ「ヒッピーロード」を疑似的に一人旅した、と言われようとも、やはり青春時代に
海外を長期にわたって旅した記憶は今も甘美な思いが去来します。
その後の人生に影響した「私だけの価値観」を与えてくれたからです。
たとえ、その価値観が、「生きるのが下手」なものであっても心の財産に変わりはなく。

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『小品集 市電のある街』

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★ ポケットは しまい忘れる 所なの そんな戯言を 君に言われて  

ポケットにしまい忘れて、後で気が付いてポケットから出した時、二重に嬉しいときがある。
危うくなくしたかもしれないのに、しっかりポケットが受け止め忘れていてくれたことが嬉しいからだ。それがポケットの隠れた役割?そんなこと言えば「戯言」と言葉が返ってくるのは当たりまえか・・・

★ エチケット という名のオルゴール しみじみと トイレで耳を 傾け
       る日のあり


音楽でない音楽、それがトイレのオルゴール。トイレの音隠しだ。でも、それがたまに、吸い込まれるように音楽として
耳を傾けるときがある。その日はなにかあった? と、自問自答していたら思った。 そうだよ、最初から音楽だったんだよ。


★ タイトル戦 2ラウンドKOで 湧く場内 延びるPK戦と 時差のない夜

ボクシング

可笑しなもので、ボクシングのチャンピオン戦で一応12回戦まで放送枠を用意していても二回であっさりKO勝ちしてしまうときも
案外ある。 チャンピオンを応援していた観客は大喜びだ。あっけなくKOで勝てば勝つほど興奮は増す。ボクシング好きじゃないの? 
もっと観戦したいんじゃないの? いや時間なんて関係ない。一方のサッカーワールドカップ予選ではPK戦に持ち込まれ、選手も最後の力を振り絞っている。こちらは長時間だ。短時間で勝利を収めても、長時間でもファンにとってはただ嬉しい。そこには時間の時差はない。



★ 理髪店 顔に被せた 蒸タオル 透ける明りは 繭の中に似て


繭


たまに熱いときもある髭剃り前の蒸しタオル。理髪師さんが「熱くないですか?」と聞いてきても、「熱いよ」と言ったことはない。
でも、たまに適温でとても気持ちいいときがある。そんなときは天井を見上げる余裕が出てくる。もちろん、天井は見えないけど、
ボンボリのような明るさだけは伝ってくる。そして、その明るさのなかで揺籃する自分の心がいる。繭の心だ。


★ 夕暮れ レールの上を カタコトと ベビーカーが揺れる 市電のある街

ベビーカー

その慣れてないベビーカーを押しているのは、最近、他所から引っ越してきた若い奥さんだろうか?
きっと市電のある街に住んだことがないから、市電のレールにカタコトと揺られてしまうのかな?赤ちゃんはいい迷惑かも。
でも赤ちゃんも、きっと市電のある街に慣れたころ、一人前の若者に成長していることだろう。


★ てんとう虫 なぜに切り株に しがみ付く 草でも木でもなく 
       その小さき芽に

てんとう虫

てんとう虫は、さがせば幾らでもいる。初夏、雨上がり、とても艶やかなおてんとうを見せてくれる。旺盛な夏は
切り株にも芽がどんどん出てくる。そんな一味違った芽はてんとう虫にとっても美味しいのかな?タケノコを食べるような気分。
こればかりはてんとう虫に聞いてみなければわからない。ところでてんとう虫の好物って何だっけ?


★ いつのまにか 猫はいなくなり また戻る 柔らかきソファーは 万年の床 

猫と言えばソファー、気持ちよく寝ている。そして、しばらく席を外して、ふらふらと戻ってきてソファーの上で丸くなって寝ている。
万年床とはよく言ったものだ。人の万年床は最悪だけど、猫に万年床は似合う。

猫とソファ





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飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 中編

前編に引き続き後編です、もとい中編になりました。
前編で『そもそも聚楽第には飛雲閣自体が存在しなかった。天守さえも存在しなかった?』、について、その書きかけというか
まだ、ほとんど入口にも入っていない状況ですが、一つづつ解明?してゆきます。というか書きながらどういう方向へいくのか?自分でもわからないです。そもそも浅学菲才の私が聚楽第に挑もう?と思うこと自体が間違っていますが、3Dで再現するとう流れのなかで「秀吉時代の飛雲閣を作るにしても聚楽第のどこに作ったらいい?」というわけになりまして、結局、深みにはまっていきます・・・笑。

さて、前編で幾つかの残された屏風には天守は描かれていても飛雲閣に該当するような楼閣がない・・・と書きましたが、実際、そうです。じゃ、どこ?となるわけですが、自分なりに探してゆくなかで、最初から西本願寺に建てられた?についても、どうも疑問符がつく。では、どこ?西の丸にも同縮尺の飛雲閣(現在のもの)を当てはめても飛び出してしまう。南二の丸は馬場とかあって、そんな遊興なスペースはない。北の丸だって普通の御殿だったら建つけど、そこに回遊式庭園及び舟遊びの池を含めたらやはりそのスペースはない。となると残るは本丸。ここしかない。

では本丸のなかで可能性のあるのは?
前編で、聚楽第研究の先駆者である櫻井成廣氏(故人)の作成された「聚楽第内曲輪推定復元地図」を掲載させて頂きましたが、
その復元図のなかで、本丸北東部にあたる所は後世、州浜池町という町名に残り、ズバリ、池泉を伴った立派な庭園があったと思わせます。大阪城の本丸を見ますと南側に表御殿があり奥御殿は直接廊下等で繋がらず独立した形で北側、しかも結構離れています。なぜ、こんなに離れてる?秀吉はねねとあんまり会いたくなかった? そんなこともないと思いますがどうしてでしよう?江戸城大奥とは大違いです。ひょっとして火事の類焼を防ぐため?籠城時の司令塔の分散? とか、まぁ、いろいろ想像します。

言いたいことは大阪城本丸の例でいくなら聚楽第も奥御殿は表とは離れ北東に位置したのでは?と思うわけです。しかも、当初は北政所・ねねが主の御殿だったとのではと。淀君が鶴丸を生んだら西の丸に追いやられ?てしまい、そこで西の丸があったと推定される場所は現在・高台院堅町と呼ばれ、どこからどうみても、ねね殿が暮らした御殿があった名残だと思われます。北の丸は秀次によって拡張された記録が残り、秀次はここに暮らしたのでは(関白就任以後は本丸、側室たちは西の丸?)と思われます。
後、残る本丸の南と西南部、ここには表御殿及び行幸御殿があり、さらに西側と南西部には茶屋等のある山里と当時も言われた広い場所があります。現在も地名に山里町、州浜町、下山里町と残り、ここにはかなり規模の大きい林泉庭園があったと思われます。このへんのところは上掲の櫻井成廣氏(故人)の「聚楽第内曲輪推定復元地図」をみられるとわかると思います。あらためてその復元図再掲しますね。


聚楽第復元想像図(櫻井成廣)
櫻井成廣氏の「聚楽第内曲輪推定復元地図」


飛雲閣があったとするならばこの山里地域しかないと思います。屏風絵でこの場所が描かれていれば所在がわかったかもしれませんが残念ながら三井家蔵の「聚楽第図屏風」にはこの山里地域がちょうど欠損(六扇目が欠損)していて、そこがどうなっていたか不明です。
となると、存在を確認する手段としては当時、聚楽第について書かれた文書、文献等から探ってゆくしかないと思います。

で、文献等に入る前に、一応、私なりに聚楽第のとくに本丸を把握するために同本丸を拡大した想像図を描いてみました。櫻井成廣氏の復元図をベースに大阪城や二条城(徳川期)、とくに二条城の二の丸御殿など南から北西に雁行する御殿群の特徴は聚楽第を一つの規範にしていると言われ、聚楽第が存在した同時代に描かれた唯一の屏風と言われる三井家の「聚楽第図屏風」でも同様に南から北西へ俯瞰する形で描かれています。この雁行する様も想像図に取り込んでみました。後、聚楽第及び飛雲閣の特性も含めています。


聚楽第本丸拡大図(3D京都)
聚楽第本丸主要部復元図(3D京都)


ここには、いろいろと御殿・書院名とか書き込んでいますが、その説明は後にして、文献の方についてまとめてみます。

文献上、比較考察するのが一番わかりやすいのが天守閣なのでまずそちらから入っていきますね。

で、『聚楽第に天守閣は存在しなかった!』の検証について、
なぜ、天守はなかった?、とくに最近そう断定される方も増えています。
その理由として幾つか上げると、

① 天守台とされる石垣の痕跡がない。発見されてない。
② 天守に関わる伝承、地名がない。聚楽天守が他に移築された記録がない。
③ 聚楽第図屏風には4~5層の天守が描かれているが、当時の文献にそれを書
   いたものがない。
④ 大阪城のように天守に登楼した記録がない。
⑤ 秀次の祐筆である駒井重勝の日記『駒井日記』に天守に相当する高層櫓の
   記述がない。
⑥ 当時のポルトガル使節に台所まで案内しているが城のシンボルである天守
      には案内されていない。


等があって、掻い摘んで言うならば、当時の文献に屏風絵に見るような3~5層の天守の記述が見当たらない。
ということに尽きます。
一方、吉田神道の9代当主・吉田兼見が記した『兼見卿記』の天正18年(1590)1月18日の記述のなかで、豊臣秀吉の側室の摩阿姫(前田利家の三女。後に加賀殿と呼ばれる)が聚楽天守に住んでいる記述があって、少なくとも二階以上の建物、楼閣風の天守があった可能性もある。
公家・山科言経の日記『言経卿記』では文禄元年(1592)11月29日に殿主へ行き、金など見物した、とあります。このときの殿主が重層の建物だったのか? また、天守と殿主の違いは?
これらからみると、なんらかの天守の存在があったと思いますが登楼、階段を上がった記述はないので、どれほどの階層と規模かはわかりません。
櫻井成廣氏は飛雲閣が天守だったとの説を言われています。はっきりとそういわれているのは同氏だけです。
普通にみるならば、飛雲閣の独自な複雑な構造が天守には向いてないのでは?。舟入と言って屋内に舟を入れる施設が天守に必要か? 強いていうならば楼閣を天守替わりにした・・・・。

では、飛雲閣は天守ではなかった。と完全に断定も出来ない面もあります。
たとえば、規模でいうと飛雲閣の高さは14m前後、一方、彦根城は16.3m。一階平面であれば、飛雲閣が28×18m、彦根が20×13mと飛雲閣の方が広い。この飛雲閣が10mを超える高石垣に聳えれば天守の風格はあったと思います。

ちなみに金沢城には辰巳櫓といって他の城にはない、唐破風と千鳥派風が横に並ぶという形をしていて、飛雲閣によく似ています。その絵図を載せますね。

金沢城辰巳櫓
金沢城辰巳櫓(よみがえる金沢城 2 石川県金沢城調査研究所編 より引用)

この辰巳櫓、最初に創建されたのは文禄元年(1592年)。聚楽第が完成したのが天正15年9月(1587年)。聚楽第が完成しておよそ5年後、ほぼ同時代にあたります。絵図で見る限り壁など黒漆塗?の下見板になっていて何となく豊臣期の城郭風を感じさせます。隅櫓と言っても天守閣が焼けた後は場所の標高が城内で一番高いということもあって、その後の金沢城のランドマークとして存在感を占めました。隅櫓といっても立地と意匠性(この場合飛雲閣モデル)によっては天守閣と同等、あるいはそれ以上の風格を出せる、ということがこの辰巳櫓から垣間見えます。

聚楽第が完成してまだ日も浅い5年後に建てられたということは、多分に聚楽第を意識し、そこには飛雲閣をモデルとして建てた可能性もまったく無いわけでもない。。
と、いうことは飛雲閣有り、且つ天守の風格、あるいはその替わりとなった楼閣風の櫓だったかも・・・ということです。

あぁ、混乱してきた・・・

一方、天守はあった!、ともうかがえる文献資料もあります。
以下は、日本建築学会論文報告書から内藤昌、大野耕嗣、中村利則の三氏で書かれている「聚楽第-武家地の建築」より、一部引用させて頂きます。

大坂夏の陣図屏風
大阪夏の陣図屏風

三井家蔵の「聚楽第図屏風」には天守は四重で描かれ、最上階には華頭窓と廻り縁高蘭を飾る望楼型天守となっています。黒田家旧蔵本の「大阪城天守と比べると最上階を除き外装が黒下見板張りになっている大阪城に比べ聚楽天守の方は白亜総塗籠の壁に変わっていてより耐火性と華麗さを強調しています。確認される限り最古の塗籠天守と思われる。
この新たな塗籠様式は、この後、文禄元年(1592)肥前・名護屋城に造営された天守の最上階から数えて三重目まで、妻と平の派風形状はもとより望楼型の様態すべてが聚楽天守と合致していています。
当時、名護屋城へ下向した公家・菊亭晴季の日記「菊亭家記録二」に「名護屋の御要害天守以下聚楽に劣ることなし」とあり、
同じく下向の常陸水戸城主の佐竹義宣家臣の手塚滝俊の書状によると「御城(名護屋城)の石垣なども京都にもまし申し候由、石をみな割てつきあげ候、てんしゆ(天守)なともじゆらく(聚楽)のにもまして申し候」とあって、聚楽第と名護屋城天守の様式的関連性を裏付ける参考となります。四重と五重の規模の差はあっても、この聚楽第天守は名護屋城天守の前身となった存在と言えます。


肥前名護屋城図屏風天守
肥前名護屋城図屏風

これらの文献をみますと「確かに天守はあった」と思えてきます。
当時の第三者的立場の人間が言っている訳ですからある程度信憑性はあると思います。
以上、「天守はなかった」
    「天守に代わる楼閣風三重隅櫓(飛雲閣)があった」
    「天守はあった」、の三っつの観点からそれぞれまとめてみました。

そしてさらにもまして頭が混乱してきました。「いったい、どっち?」。
ちなみに、三井家蔵の「聚楽第図屏風」について、「寛永洛中絵図」によって裏付けられる部分があって、その信憑性は高い、とのこと。そして同三井家蔵本の聚楽第の景観年代について、すくなくとも建築的には天正15年(1587年)9月(秀吉移徒)から同19年正月にかけての期間と思われます。

個人的な感想ですが、
あの建築道楽で派手好みの秀吉が京都の本城として聚楽第に天守を建てないことなど考えられないです。
信長の時代、文禄12年ごろ(1569年)に足利義昭の邸宅として建てられた城郭造りの二条城にはすでに三重の天守があがっていいました。また聚楽第の前身であった秀吉の京都の本拠地、二条第・妙顕寺城」にも天守がありました。
とにかく秀吉のいるところ皆天守が付いてまわっているんですよね。
それが聚楽第の場合、こうも、その究明が混迷するとは・・・・やはり僅か8年しか京都に存在しなかったから、ということに落ち着いてしまうんですかね。なんかつまらない 笑。

長々と天守のこと書きました。肝心の飛雲閣についてまだ書いてない・・・・すみません、今回は「飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう?「中編」としてまとめ、次回こそ後編で締めたいと思いますのでどうかよろしくです。





関連記事

飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 前編

前回も申しましたが、あくまで「飛雲閣は聚楽第に存在した」、ということを前提に「事実」はわからないままですが、今回は自分なりに論点整理して飛雲閣の数奇な物語?に取り組んでみたいと思います。
何度も書きますが、飛雲閣が聚楽第からの移築か?いまだ事実は定まっていません。ただ西本願寺の寺伝を根拠とするものであり、これまでの修築によれば移築の痕跡はなかった・・・従って移築ではなく、最初から同本願寺の回遊式庭園である滴翠園とセットで元和3年(1617)の同寺火災前後に建てられた、とも言われています(本願寺関係者は特に)。建築史学会でもどちらかというと移築否定(聚楽第)の見解が多いです。ですが断言はできないレベルです。
世情、よく言われる「この建物は聚楽第からの移築、伏見城から移築」との伝承は、俗にいう「自分のところに箔をつけたい、自慢したい、格を上げたい」といった希望的伝承も多く、桃山から江戸時代初期にかけて立派な建物のことを指す形容詞として「聚楽・伏見から移築」、という使われ方をされた側面もあったと思います。諸説ありますが3Dから作った感想も交え整理してゆきますね。

まず、実際に飛雲閣のサイズがどれ程のものかといいますと、図で表しますね。

金閣&飛雲閣(真上)
同縮尺で並べた金閣と飛雲閣です。
みれば判りますが、建物は飛雲閣が大きい(江戸期に増築された茶室を除いても)。廊下で繋がっている風呂の「黄鶴台」も飛雲閣の一部に含まれます。黄鶴台及び渡り廊を含めた正面の長さはゆうに40mを越えます。
一方、池は圧倒的に金閣の鏡湖の方が大きい。
これで見ると、どうみても飛雲閣の方が池とのバランスが取れていません。池が小さすぎる! しかも同閣は舟入と言って直接屋内に小舟が入れる仕組みになっていて池での舟遊びを前提にした庭園楼閣です。当然、舟遊びですからそれなりの池の大きさが必要です。金閣との比較でみれば、金閣の池より大きくても不思議はありません。

この比較から想像できるのは、飛雲閣は上記・西本願寺の滴翠園とセットで最初から建てられたものではない、と思えてくるのです。どう思われます?

以上のことから『最初から西本願寺に建てられた』には疑問符が残ります。

他にも、本願寺の江戸時代図絵には飛雲閣のことを「御亭」と書かれていますが、厳密に言うと、亭とは元々、一階建ての東屋のことを指し、屋根が二重でも一階だけならあくまで亭です。一方、「閣」の方ですが、これは二階建て以上の楼閣のことを指し、二階に床が張られ実際に人が登楼できるものを言います。だから金閣、銀閣も同じく「閣」と呼んでいますよね。ですから絵図の御亭は本来なら御閣、または御楼閣と表記してもよいのですが亭のままです。
これは、ひょっとして元々滴翠園には確かに「御亭」は存在したが焼失し何らかの経緯で飛雲閣が移築された。そんな仮説も成り立つ訳です。また、亭であるならば、このサイズの池にも合います。元々、親鸞以降の本願寺系の寺では庭に東屋の「亭」を設ける
慣習はありました。

後、重要なのは現在の同閣の正面が北向きだということです。それと南面が全面・壁で引き戸、障子等がまったくないのです。これは普通の書院等にはほとんどないことで、これも大きな特徴です。
これらのことから、元々は、南向きに建てられたけど移築の際北向きに変更された、これが移築説の根拠の一つとなっています。確かに、回遊式庭園の中心となる本閣であるならば南向きが妥当だとは思います。しかし、当時、大きな屋敷においては書院が北向きになることはごく普通にありました。現代の南向き信仰ほどには南にこだわってはいなかったのです。ただ、仮に元は南向きに建てられたとしても相対する北側が全面・壁なのはこれまた不思議です。書院造は開放的ですからね。ひょっとして移築された現在の場所が境内の隅に位置し、境内外からあまり見られないよう鎧板壁に覆われてしまったかもです。

せっかくですから、飛雲閣と金閣の3D比較も載せて置きますね。

金閣&飛雲閣(正面)
正面から。


金閣&飛雲閣(側面)
側面から

『飛雲閣は聚楽第から移築された?』

この根拠は、本願寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)に豊臣秀吉の遺構だと記され、これが聚楽第からの移築遺構との説が長く現代まで流布されてきたものです。移築を示す根拠はそれ以外には何もありません。実証的な証拠もありません。そもそも、徳川幕府とは親しかった東本願寺に比べお西さんの方は秀吉との縁浅からずで幕府とは仲はよくありません。それなのに、幕府を刺激するような「聚楽第から移築」を寺の公の文書に記すのも得にはなりませんよね。また、箔をつけるとか、自慢するとか、そんな意図も天下の本願寺には意味ないことですからね。その点で言うとポロリ、本音の真実かもです。
建築史から見ると、飛雲閣は秀吉の天正時代頃よりも様式が新しく、その点で移築説を否定する意見も多くあります。しかし、二階・歌仙の間は古式を残し秀吉のころを彷彿とさせます。二階及び三階の摘星楼は移築の可能性あり、一階は多用されますから江戸期の改変あり、という解釈も有りです。

飛雲閣二階歌仙の間の格天井
二層歌仙の間の格天井 荒木経惟「飛雲閣ものがたり」本願寺出版社刊より引用。

飛雲閣三層摘星楼
三層摘星楼の内部 荒木経惟「飛雲閣ものがたり」本願寺出版社刊より引用。


『そもそも聚楽第には飛雲閣自体が存在しなかった。天守さえも存在しなかった?』


三井版聚楽第屏風
三井版聚楽第屏風からみた聚楽第の概要
(一、二扇の接合部と南二の丸や本丸西側、西の丸が描かれたと思われる六扇目が欠損している)


聚楽第を描いた「聚楽第行幸図屏風(堺)」、「聚楽第図屏風(三井)、「御所参内・聚楽第行幸図屏風」等にはいずれも天守は描かれていますが飛雲閣らしき建物は見あたりません。櫓等は二重、三重、三井の方には二重御殿(行幸御殿)も描かれているのにかかわらずです。西の丸が詳細に描かれている「瑞泉寺縁起」の西の丸には二層の楼閣が描かれています。これが飛雲閣かも?と思わせますが三層ではなく屋根も飛雲閣のような複雑さはないのでやはり違うかな、と思います。ここ西の丸の想定されている所は高台院堅町という町名が残り、ここには秀吉の妻・ねねが住んでいたと思われます。元々は本丸の北東に広い正政所の御殿があったようですが、淀君が鶴松を生んで以後ここは淀君の御殿に変わり、ねねは西の丸に移り、そして西の丸にいた秀次は北の丸に?という風に城内でもいろいろ御殿の主の移動があったらしいです。

瑞泉寺縁起
瑞泉寺縁起に描かれた聚楽第の西の丸、二層楼閣も見える(豊臣秀吉と京都、日本史研究会編・文理閣刊から転載)。

ここで聚楽第の規模、概要について改めて押さえておきたいと思います。正確ではありませんが、聚楽第の規模は本丸、西の丸、南二の丸、北の丸と堀を含めた主郭の南北が約700m、東西が500m。このうち本丸は堀内側で南北320m、東西220m、後、西の丸が堀内で南北80m、東西55mほど。目立つのは本丸を取り囲む堀が幅40mもあることです。

いろいろ資料に基づいて想像復元図を描いてみました。

聚楽第想像図(3D京都)
聚楽第想像図(3D京都)


ここには参考までにエリア外に同縮尺の金閣と飛雲閣及び池も載せてみました。たとえば、金閣だと池が西の丸を大きくはみ出ています。横に長い飛雲閣でもはみ出そうです。と、すると西の丸に飛雲閣が存在した可能性は低い、とか類推できます。

せっかくですから大阪城と二条城も同縮尺で比べてみますね。

まず、大阪城から、ここは本丸のみ。
大阪城本丸想像図
大阪城本丸想像図

見て驚くのは本丸の複雑な形状と巨大な掘とその広い幅です。これだと難攻不落と言われたことが真実味を帯びてきます。複雑な形状も上町台地と言われる大地上に築かれたゆえだとわかります。

一方の二条城も載せます。

二条城(寛永期)
寛永寺の二条城。

これで見ると二の丸を取り巻く堀の小ささというか幅の狭さです。これではすぐ落城してしまうでしょう。それでいて本丸を囲む堀は無用に広いですね。なんなんでしょう? もう誰も逆らえない盤石の幕府ということですかね。

では横に並べてみましょう。
聚楽第-二条城-大阪城図
左から聚楽第、二条城、大阪城の順。

これで見ると、各郭や堀の大小は当然ありますが目を引くのは、二条城の御殿と聚楽・大阪城の御殿との大小の差。徳川の二条城の御殿の方が一回り大きいです。


聚楽第の大広間の指図が伝えられていて、
聚楽第大広間間取り図(大熊喜邦著(豊公聚楽第の大広間)より転載
聚楽第大広間間取り図、大熊喜邦著(豊公聚楽第の大広間)より転載。

この指図に基づくと(京間)、大広間の母屋及び入側を含めて桁行十五間半(約29.6m)、梁行十間(19m)の約170坪。二条城の大広間が桁行十三間半(約25.7m)、梁行十五間(28.6m)の約222坪。聚楽第の方が約-25%ほど小さい。他の殿舎も同様の差異がみられる思います。従って上掲した各城郭の復元想像図においても聚楽・大阪城の御殿の方が細かく小さい感じになっています。

後、聚楽第の想像図を描くにあたっては、同聚楽第研究の先駆者ともいえる櫻井成廣氏の作成された「聚楽第内曲輪推定復元地図」を参考にさせて頂きました。

聚楽第復元想像図(櫻井成廣)


※ 長くなりそうなので今回は前編とします。次回、続きを書きますのでよろしく。 





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