3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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公家町土地区画整理事業 決まる ③ 改めてこぼれ話

前回、公家町土地区画整理事業の割り当てが決まった段階で、何となく思った「こぼれ話」でも書こうかな、と思いましたが、予期せぬ「悩んでます」で書かずじまいでした。今日はちゃんと書きます(こぼれ話ですから肩肘張ることないけど)。
ちなみに、拙ブログでたまに載せてます短歌ですけど「はてなブログ」に引っ越しし独立することにしました。短歌ブログのブログ名ですが、せっかくだから一つ捻ってやろうと思いましたが、結局「梅村京一朗短歌集」にしました。他の短歌・俳句のブログ名みると意外に自分のペンネーム使っている人いるんですね。で、自分も便乗ということです。

これで、3Dは「3D京都」で、短歌は「梅村京一朗短歌集」の二本立てでブログを書いていくことにしました。

よろしくお願いします・・・というところですが、実は”はてなブログ”は初めてなので、はてな?と言う感じ 笑。
fc2とはまたシステムも違うので今悪戦苦闘しながらブログ作りしてます。あの、同じ記事を二つ以上のブログに載せるとGoogle検索のヒットが落ちる?とかネットで書いてありましたけどそうなんですかね?自分も重複しないよう短歌系は全部”はてな”に引っ越し、完了後、3D京都から削除する予定です。

でも、互いにリンクさせるのでたまには「短歌ブログの方も覗いてみようか」となると嬉しいですね。おっと!、まだ新ブログ出来てません。出来次第リンクさせますね。

さてと、こぼれ話に入ります。

実はこぼれ話というよりも「知らなかつた。今回初めてわかった」類ですけどね。まず何が知らなかったというと、今回の公家町、現在の京都御苑ですけど、ここが公家町の内郭だった江戸時代、この区画はてっきり宮家や公家たちだけ(一部、引退した高級女官の屋敷や大工・修理職の作業屋敷は知っていたは別)の屋敷が構えられていた、と思っていたのですが、実はそうではなく、公家よりも位階(家格)の低い地下官人、今で言うノンキャリアや近衛家の筆頭諸太夫であった進藤家など公家の家臣も住んでいた、ということを知った、ということです。

改めて、公家と地下官人の違いを書きますと、厳密に言う公家とは位階が三位以上の世襲家・公卿をさしますが、広い意味では御所の清涼殿の昇殿が許された家が公家、許されていなかったのが地下官人。位階で言いますと従五位下以上が堂上公家です。ただ、たとえば六位であっても、天皇の秘書兼事務方を司った蔵人は昇殿が許されました。一方、位階が四位に昇進しても地下官人が公家になることはできませんでした(一部例外あり)。要は位階云々以前に、「家格」によって峻別されていました。公家でいう摂家、清華、大臣家、羽林家、名家、半家が堂上公家。それ以外の家格は並べて「地下官人」と総称された訳です。

また、地下官人も局務(外記方、押小路家が筆頭)・官務(官方、壬生家が筆頭)・蔵人所出納(平田家が筆頭)の三家が、催官人として地下官人を管掌し、朝廷の各種行事の実務・運営を司りました。催官人を筆頭に並官人、下官人の三つに分かれていましたが、催官人と並官人は世襲。下官人は世襲ではなかったため、それこそ、勝海舟の父が武士の身分を買い取ったように、下官人も一種の「株」の形で身分を売買することが行われました。また、幕末、地下官人不足から京都や周辺の商人や農民が下官人の看板欲しさに身分を買い取ったケースもままあったそうです。

催官人のうち、壬生家と押小路家は華族になりましたが、平田家はなぜかなれませんでした。なぜでしょう?

公家は幕末時点で130数家、地下官人の数は諸説ありますが約500~600人ほどいました。ちょうど徳川幕府でいうと直臣は旗本と御家人の二つに分かれていましたが、これを公家に当てはめますと、旗本が公家、地下官人が御家人に相当します。つまり、幕府の御家人がれっきとした直臣の武家であるように地下官人も朝廷の朝臣であることに変わりはない、ということ。広義でいう公家衆に属するということです。

ですから、そういうことであれば、「何も地下官人が公家町に屋敷を構えてもおかしくはない」となり、今回の区画整理事業でも納得ということです。

じゃ、地下官人等が公家町のどこに住んでいたかと申しますと、以下のエリアマツプを見てもらうとわかります。(図等はどれもクリックすると拡大します)

地下官人エリアマップ

大きく分けると二つのエリアに集中しています。いずれも屋敷地も狭く密集してますね。
これをさらに細かくみていくと、たとえば東エリアの場合(紙幅の関係上横にしました)、


地下官人東エリア

こんな感じで並んでいます。
家名が書いてあるので、家名に従って簡単に説明していくと。
勧修寺は多分別宅だと思います。下の高橋家は地下官人。渡辺家も地下官人。ただ近衛家の侍に渡辺家とあるので公家家臣かとも思われます。渡辺家の下は大乗院里坊とありますが、同坊は奈良・興福寺の筆頭本坊で公家町での別宅にあたります。もっぱら、五摂家の次男や庶子が出家して住持してました。他の坊も同様庶子の就職先でした。明治になって還俗し華族になりましたが、長屋住まいとかで貧窮、中には華族を返上する家もあったそうです。

中根は地下官人にも載ってなくて?です。後、門跡寺院等の里坊や坊官等の屋敷はスルーします。松木家は公家。局は退職後の高級女官の屋敷、以下、局はスルーします。水瀬家も公家、四辻家も公家、進藤家は近衛家の諸太夫、面積は145坪ほど。建坪は多分50坪ほどか。今の東京なら豪邸かな。小森家は地下官人。通りを隔てて南(ここだと右)に行くとおお、局務筆頭の押小路家がありますね。さすがに土地280坪ありますね。愛宕家は公家、後、明治初年、寺町通に大きな屋敷を構えます。禁裏付き武家屋敷が空きになったからかな?梶井宮の別邸もありますね。中園家は公家。土地面積は140坪ほど。ひょっとして最小面積の公家さんかも。ちなみに家禄は130石。家禄の割に土地狭いですね。別の所に本宅があったかもしれない。沢村家。地下官人。検非違使の家系とか。おお、官務筆頭の壬生もありますね。土地はざっと、130坪。押小路家より少ない。結構、裕福だったと聞いていたけどどうしたんだろう?家禄は100石ありました。位階も従三位まで昇進してますけど地下官人は地下官人。いくら官務の筆頭といえども家格の壁は高かった・・・。

ちなみに、幕末、日米修好通商条約勅許に反発し反対運動を起こした廷臣八十八卿列参事件(岩倉具視等主導)の際、地下官人でも官務壬生輔世は出納平田職修と共に地下官人97名の連名による条約案撤回を求める意見書を提出しています。政治に意見を言うのは何も公家だけでなく地下官人も参加、同じ朝臣、公家衆としての同胞意識があったんですね。実際、当時、そう思われていました。

さぁ、壬生家の向かいに小佐野家があります。あの、戦後最大の疑獄事件であるロッキード事件で関係者として国会に召喚された小佐野賢治のご先祖にあたるのでしょうか?傍系かな。土地は約90坪。ひょっとして公家町最小の屋敷面積かもしれない。というか、多分そう。私の家の方が土地広いです 笑。地下官人、狭い土地、これらが生み出した屈折した感情が奥さんに堀田伯爵家の姫様を半ば強引に妻にするなど、名家好み、華族好みに拘ったルーツか?などと妄想してます 笑。沢村家も地下官人。

小佐野家の隣はあの武者小路実篤で知られる武者小路家の屋敷。家禄130石。190坪と公家としては広くありません。しかも地下官人町に住んだためか、実篤は折にして「本当に公家は貧乏だった!」と強調していたそうですが、その貧乏感もここに屋敷を構えたことに起因してるかもです。また、だからこそ実篤は宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」という理想郷を夢見たのかもしれない・・・という完全なる私のこじつけです 笑。

局のしたは公家の高野家。敷地は300近く。冷泉家の半分くらいか。その上の局は400坪もある。かなり身分のある女官。尚侍・典侍か?尚侍には傍に使える侍女が5人以上いたというから、けっこうな身分。録も100石あった局様。けっこう公家町には局屋敷あるんですよね。

さて以上が東エリア。

次に南エリアの紹介です。まず、エリア図のアップから、

地下官人南エリア

この南エリアは東エリアの特に下の方よりは広い感じ。大宮家は公家、土地240坪ほど。隣の植松家も公家。土地は220坪ほど。大宮家と同じ。植松家の隣は唐橋家。土地300坪。家格は半家でも植松、大宮家より多い。また、となりの桜井家はどうも醍醐寺三宝院の坊官らしい。どういう経由でここに住んでいるのか不明。隣はまたお局。朝廷もお局さんの退職後のこと大事に考えているみたいですね。土地も広い。藤井家は地下官人。

下段に移って、まず澤家、あの文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を京都から追放。結果、長州寄りの公家7人が同長州へ都落ち。俗にいう七卿落ち、その一人が澤宣嘉。家禄は30石。都落ちもしたくなるか・・・失礼、冗談です 笑。政治家としても活躍。明治になってその功績が認められ半家の家格としては唯一伯爵に叙せられました。土地は260坪。公家としては狭い方ですね。公家の場合、土地の大小300坪が一つのボーダーラインですね。

佐竹家。近衛家の諸太夫です。佐竹氏の傍流か?200坪近い土地ですから、さすが近衛家諸太夫ですね。裏松家、公家です。名家で130石。土地200ありません。あの有職故実の研究で有名な裏松固禅の家です。固禅は大内裏の研究や京都御所の平安復古による寛政度内裏の設計の根拠となりました。でも有名で活躍した割に土地は狭い。どこか別邸があったのでしょうか?

隣の富田家は地下官人。そのまた隣は唐橋家。上段にもありましたからここは別宅かな。80坪有りません。あの小佐野家より狭い。でも別宅ですからね。小佐野家のような屈折した感情はなかったと思いますよ。となり、またまた桜井家が出てきましたよ。坊官で公家町に屋敷が2軒もあるとは・・・。坊官って儲かるですかね?

最後に、土地番付をいくらか紹介して終ります。
宮家でみていくと、梶井宮家8690坪、日光御里坊7670坪、閑院宮家7496坪、賀陽宮5000坪、有栖川家4870坪、伏見宮家4200坪、桂宮家3939坪。五摂家だと、二条家7988坪、九条家7980坪、近衛家7160坪、一条家4685坪、鷹司家4089坪。

後、幾つか気になるお公家さんでは、冷泉家890坪、中院家2500坪、醍醐家2900坪、徳大寺600坪、西園寺1378坪、飛鳥井1438坪、姉小路1100坪、岩倉570坪、三条西1400坪、等。切りがないのでこの辺でやめておきます。ただ、元の公家町マップにトレースしましたが、敷地形状がけっこう簡略されているのであまり参考にならないかも。とくに中流以下のお公家さんです。冷泉家でも890坪もあったかな?と、けっこう、大雑把です。

長文、失礼しました。


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公家町土地区画整理事業 区画決まる ②こぼれ話→悩み話に変わる。

今回は「公家町土地区画整理事業」関連のこぼれ話でも書こうかな、と思って今書いている所なのですが、ちょっと気になることがあったので少し触れてみます。

拙ブログにも張っている「人気ブログランキング」の日本史部門で常にトップ争いをしてみえた『マイナー・史跡巡り』さんのブログが忽然と消えてしまいました。どうして?どこへ行ったのだろう?

チョクチョク、記事も読まさせて頂いて、その情熱と行動力とマメさ、情報量の多さ、記事レベルの高さ、面白さ、ブログ自体の構成センスなど、どれをとっても自分では到底たどり着けない高嶺の存在です。また同氏のレベルでしたら毎月のPV数は10万あったのではと推測されます。このレベルでしたらアフィリエイトの世界といってもおかしくないのですが、特段、企業広告とリンクする訳でもなく純粋に歴史好きな「意識高い系」のブログだと、敬服もしています。

単純にランキングバナーを外された?独自ドメインの独立系へ移行?。個人的理由?それ以上の詮索は失礼だと思いますが、私自身、一読者であり、とても勉強になるブログでしたのでランキングから消えたのは残念至極です。

突然、風の如くランキング上位に現れ、ある日、風のごとく消えてしまった『マイナー・史跡巡り』さん。また戻ってきてください。

ちなみに、私のブログですが、月のPV数は8000~9000。一万越えのブログはブログ全体の5%ほどといわれているので、1万越えたらいいなぁ、と、最近、色気を出すようになりました。

なかなか、こぼれ話に行けないですが、もう一つ、目下の私の悩み書いていいですか?というか書きます。

私のブログ名は「3D京都」。ですから京都に特化した3D作品を発表する場としてスタートしました。ですが、その割に作品数が少ない・・・。時に株の話やエッセイ的なことも書いたり、また、短歌も詠んだりしてます。3D作品自体を作る過程で出てきた「気づき」や自分なりの発見、解釈、それらが頭をよぎると、また、気になってそのことも書きたくなる。結果、3Dを描く時間が減ってしまう。自分のブログなのに「つい、あれもこれも手を出して」迷走している・・・。これをどうしたらいいか?それが目下の悩みなんです。

なにも悩むことなどない、自分のブログなんだから「好きな事を書けばいい」と言われればその通りなのですが、
たとえば一つの3Dを作るのに10日間かかったとします。その間、投稿記事はどうする?じゃ、とりあえず短歌をアップしようかな、と短歌の記事を書きます。すると、3D関連をGoogle検索して、たまたま3D京都に辿りつき中身を見た人が「短歌?、3Dのブログじゃないの?」となる訳です。もちろん、なかには短歌に興味を持つきっかけになる方もいるかもしれませんけどね。

今時、短歌はニッチな世界ですから、やっぱり3Dと短歌のコラボには異質感、半端ないと思います。

で、一つの解決策と考えているのがブログを分ける。
これも、マイナー・史跡巡りさんがされていた別ブログの運営からヒントを得ました。

私の場合で言うならば、ベースブログは3D京都。ここでは3D作品の掲載に特化、作品も増える。その代わり、記事の更新回数は減る。一方、別ブログを立て、そこでは「梅村京一朗短歌集」の世界を展開する。そこでは、心置きなく短歌を載せられる。そして、それぞれにリンクで結ぶ。

もう、決めた訳ではないですがその方向に傾いています。

世に3D作品・キャラクターは無尽蔵というくらいあります。その中で、私のように「公家町」を3Dで再現しよう、としている方など多分おられないと思います。しかし、私にとっては、千年の都・京都、その中心にある京都御苑に一つも公家屋敷が残ってないのは悔しいのです。そこを一つ一つ3Dで埋めて行く。それは、きっと、将来、いろんな形で役に立つ、と私は思うのです(もちろん公家町だけでなく、聚楽第など失われた建築も再現していきます)。

一方、短歌ブログでは一人の表現者、歌人(自称)としてオリジナル短歌を発表していきたいと思います。とくにどこの結社に属すのでなく、あくまで自己表現の場です。短歌もやってみるといいですよ。

私の場合、短歌とは一つのカタルシスなのです。人間には、衣食住の楽しみ、スポーツの楽しみ、競馬や競艇のような射幸的喜び、SEXもそうですが、短歌もまた別の感覚というか、心に何かが触れ、短歌という言葉のフレーズが浮かんだ時、何とも言えない至福感があります。

たとえば、昨日、俄に新緑が山を輝かせていました。浅葱色の鮮やかな緑、さらに赤みを帯びたもの、黄緑の葉、それらが混ざり合ってとても美しく感動しました。そのとき、ふと、心に浮かんだのは「春は秋になれても、秋は春になれない」。このフレーズでした。自分にとっては一つの発見であり喜びでした。

3Dと短歌、その両方を自己実現するためにはブログを分けることが必要なのかなと今考えているんです。

こぼれ話にいけなくすみませんでした。

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公家町土地区画整理事業 区画決まる ①

公家町の土地区画整理事業について、公家の皆様方にパブリックコメントを募集したところ、一部の公家の方から「家格による屋敷地の面積差が大き過ぎる、是正してほしい」との意見も寄せられましたが、その意見の多くが五摂家との家礼に属さない独立系の堂上家だった、ということもあって紛糾する事態までは至らず、4月13日をもって事業スタートする旨、昨夜の説明会にて最終合意を取り付けました。

本件は公家町という特殊性もあり太政官代の承認手続きは不要。また事業を執行するにあたっては、土地区画整理法に基づき組合を設立。理事には五摂家及び清華、大臣家、羽林、名家、半家の各家格から一名、合わせて十名の卿が任命。代表理事として近衛様が選ばれました。なお、大政奉還後ゆえ、武家伝奏の役は解かれ公家組合で自主的に進めてゆくこととなりました。以上、告知終り。

などと、何の根拠もなく、もう私の100%脳内夢事案ですが、まぁ、それでないと事業も進まないのでそのまま進行。

一応、近衛様から「3D京都」もアドバイザーとして参画してほしいとの要請を受け、熟慮の上、お受けすることしました。

また、実際に事業を始めた場合、道路整備に伴う減歩、換地等の発生も十分考えらることから、近衛卿から「利害関係のない君に一任するよ」との言質をいただき、さっそく拙ブログの方で「公家町区画整理案」を提示。理事会に同案を諮ったところ、なんと賛同多数、承認されました! その間、たった一日かかっただけ 笑。

事業案の中身は、公家方の屋敷替えや換地等は「文久改正内裏御絵図 丁版」に基づき、また敷地坪数等は京都市編「京都の歴史 第七巻 維新の激動」に所載の”明治元年の京都絵図及び公家町”から算出。

上記に基づき作成したのがこれから紹介する公家町のCG図です。
公家町土地区画整理事業-区画決定
決まった公家町の区画見取り図。というか、そのまま、京都の歴史 第七巻 維新の激動所載の絵図そのままなんですが。
今後、このベースプレートを基に公家町を作っていきます。今は解りやすいようにイラスト風ですが、その段になったらよりリアルなものにしたいと思ってます。

幕末公家町の形
幕末の公家町は現在の京都御苑より東側の寺町通に沿いまで右斜めに広がっていました。
さらに、これを京都市の主要部市街地のなかに貼り付けます。現在の御苑よりとくに東西が広いことがわかると思います。
現在の京都市と公家町

地図に合わせて実寸法で作りました。南北は今出川通の北から丸太通りまでの1.5キロ、東西は西が烏丸通から東は加茂川までの1.3キロの範囲内を今回、広義の公家町として定義付けしました。というのも、現在(平成に飛びました 笑)の京都御苑は南北1.3キロ、東西700mの計92ヘクタール。この御苑が公家町の言わば内郭、本丸筋にあたります。しかし、いろいろな諸事情により公家町の外、外郭に屋敷を構えている公家も結構みえて、まだ空きスペースのある内郭・北東地への引っ越しを促したのですが、やはりというか、公家方でも鬼門の方角は「災いを呼ぶ」とのお考えから、せっかくの「内郭斡旋」も不調に終わりました。

そのなかで、あえて鬼門の地に居を構える方が現れました。樋口二位のご当主さまです。その「公家町を空き地」にしたくない、という気概に拙ブログも感動。同家の指図も持っているので、同家の心意気に謝意を込め屋敷を3Dで再現して差し上げたいと思っています。

また、この鬼門の方角を封じ込めよう、との強い使命感から、なんと、あの安倍晴明の子孫で朝廷の陰陽師、祈祷、天文・暦を司る土御門家様が、下京の梅小路からわざわざ、こちら北東空き地へ引っ越し新居を建てられる、との情報を入手。さっそく、同家の指図も持っているので、その珍しい天文台を有する屋敷を3Dで再現し、献上したく考えています。

ただ、拙ブログは遅筆ゆえ、いつまでに作成するという明確なお答えは出来ず、「ご希望に沿うよう頑張ります」との半ばお茶を濁した言い方しかできず申し訳ないと思っています。

なお、これは未確認情報ですが、この北東空き地に、京郊外の紫竹院等にある公家方の別荘を移築してはどうか、と言う提案を出されている公卿もみえて、数点、別荘の指図も持っている3D京都としても、お手伝いできることがあればご協力したいと考えております。

「おまえ、頭大丈夫か?」と言われそうですが何か夢があっていいじゃないですか。私の書いたことで、もし、公家のご子孫の方で不快に思う方がみえたら、非礼をお詫びします。私なりの「公家町物語」です。

ちなみに、気軽に土地区画整理事業と銘打ちましたが、ただ単にムードで書いてます。なので、もし同整理事業の意味合いが違うと恥なので念のため調べました。それによると「土地区画整理事業は、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業。 公共施設が不十分な区域では、地権者からその権利に応じて少しずつ土地を提供してもらい(減歩)、この土地を道路・公園などの公共用地が増える分に充てる他、その一部を売却し事業資金の一部に充てる事業制度」とのこと(あぁ、字数稼ぎました 笑)。

今夜の記事は公家町の区画整理が「こんな感じで決まったよ」という区画図の紹介なんですが、結構、コレ、時間かかりました。なのに一枚アップして終りでは寂しいので、実験的に先日作った紫宸殿や九条家邸を配置してみました。多少、イメージが掴めるかと思いますので幾つかのショット、アップしますね。(CGはクリックすると拡大します)

京都盆地と公家町(南から)
南から見た公家町。これから塀や門、物見、御殿等建物、間取り平面図などを出来るタイミングで追加していきます。ここ最近、頑張ってお公家さんの新たな指図を10家ほど探し集めました。

公家町(九条邸の塀越し)
九条家邸の築地塀越しに紫宸殿を見る。

この九条邸の位置は正確ではありません。また正確に配置すると紫宸殿と一直線上になるので絵的に冴えないのであえて移動しました。また、この九条邸は徳川家光が九条邸を訪問したころの復元図なので幕末のものではありません。

理想を言うならば、公家邸の指図は幕末のもので揃えたいのですが、実際はかえって江戸初期及び中期、天明の大火の後とかが多い印象です。
京都盆地と公家町(北から)
今度は公家町図を北から見た感じ。結構広いでしょう。

京都盆地上空から見た公家町
京都盆地の上空から見たイラスト図。

京都盆地と公家町(東から2)
東方面から見たてたもの。

そしてもう一枚。

京都盆地と公家町(東から九条邸)
東から九条邸をズームしたものです。

ざっとこんなイメージCGを作ってみました。
記事タイトルに「①」が付いてますが、実は区画整理事業で区画線を描きながら自分なりに幾つか気が付いたこと、新たな発見、それから敷地の最小サイズは誰の御方?とか「ゲスの極み」的なことも比較したりして、それなりに面白いかな、と思いましたので次回に「②」版として書き上げたいと思ってます。その節はよろしくお願いいたします。


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公家町土地区画整理事業事始め 補遺(絵図編)

予め申しました「公家町土地区画整理事業事始め」の補遺(絵図編)を書きます。
前も書きましたが幕末はそれこそ日替わり弁当のように明日は何が起こるかわからない激動の時代でした。ですから京絵図や内裏・公家町を描いた内裏図なども頻繁に改訂版が出ました。

しかし、1868年の慶応4年から明治元年に代わると絵図の改訂ラッシュも終わります。絵図というよりも本格的な京都の地図が刊行されるようになるのは明治10年以降です。

明治元年から10年の間は京の変革に伴う混乱期でもあり絵図の出版も少ない時期でした。それでも急造感はありますが幾つか刊行されてます。

それらの絵図を時系列に載せ、自分なりに解説を加えていきますね。

ではまず、最初はもう何度も出してます「文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)」、そして同じく慶応4年刊の「京町御絵図細見大成」を再度掲載し、そこがどう変貌してゆくのか解説します。(クリックすると拡大します)

内裏・公家町絵図の方から始めます。
文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)
文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版

そして明治2年刊の「京都町組図略」。
明治2年刊京都町組図略
「京都町組図略」

昭和22年に京都市がまとめた「京都市史 地図編」に所載されている絵図です。もう70年も前に編纂されたもので、みな、白黒です。開くと埃が出て思わず咳をしました。

昭和22刊京都市史 地図編表紙
「京都市史 地図編」の表紙

地図は色分けしてありますが、これは番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)といって、明治維新後の1869年(明治2年)、京都の町衆たちの手によって、江戸時代からあった住民自治組織であった「番組(町組)」を単位として創設された64の小学校の学区別にわかるよう色分けされたものです。小学校と自治行政がセットになってます。

ですから、この絵図は京都の明治への幕開けを告げる絵図といえます。

で、そこから御所周辺をクローズアップしてみます。御所周辺の番組は、 室町(13番)が御所の北、東が京極(28,29番)、西が滋野(18、19番)、南が梅屋(20番)等になります。記事で何度も書いてます下長者町の中院家屋敷も、滋野の19番地にあたります。
明治2年刊京都町組図略(拡大)
明治2年の御所周辺のクローズアップ

まだ廃藩置県前の明治2年ですから幕府機関の名称が消えたぐらいで公家町にそれほど変化はありません。でもこの2年、天皇が東京へ行幸、そしてそのまま政府機関も東京へ移り、東京奠都が実行されました。公家はじめ保守派には根強い奠都反対論があって京の都は混乱気味でした。公家町はそのさなかの、風前の灯火ともいえる最後の姿を伝えています。もう公家のなかには東京へ住居を移す家も出ていましたからね。

そして数年が経ち、明治6年刊行の「京都大絵図」に描かれた京都。大政奉還後、太政官代と書かれていた二条城が京都府に代わってます。政府が東京に行ってしまいましたからね。
明治6年刊行京都大絵図
明治6年刊行の「京都大絵図」

これも「京都市史 地図編」からの引用なので白黒です。大き過ぎてわからないので例によって御所周辺のズームへと参ります。
明治6年刊行京都大絵図(御所周辺)
明治6年の御所周辺図

明治2年のと比べると、ボツボツ公家町に空き家、空き地が出てきます。たとえば南の丸太通りに接した九条家邸は家名の記載がありません。九条家はわざわざ家ごと東京へ引っ越しました。だからというか今も上野の国立博物館の敷地に一部が「九条館」として残ってますよね。

目立つところでは加茂川(賀茂川、鴨川は少し上流を言うらしい)沿いの伏見宮邸、梶井宮邸、日光里坊。さらに南の二条家下屋敷、山階宮邸とかもない。細かいところでは御所東の学習院(公家学校)や南の公家・風早家の隣・長谷家がない・・・。御所下の有栖川宮邸は京都裁判所になってます。藩邸では中院邸の北向かいの水戸藩邸が消えている。後、仙洞御所の東にあった禁裏付の武家屋敷邸群も消えている。鴨川対岸にあった九条家の下屋敷邸も空欄になっている。丸太通り下の近衛家河原邸は女紅場(女学校)になっている。という感じで空き地、住所不明。、民間への売却・払い下げが進んでいます。

また同年、二回目の京都博覧会(一回目は西本願寺)がいきなりというか京都御所・大宮御所で開かれています。公家町が京都の新しい産業経済の波に飲み込まれていく感じですね。それにしても、いくら天皇が東京に遷られても京都における行在所には変わりないのに御所で博覧会を催すなど、この不届き者! とも言いたくなります。福沢諭吉だって「和魂洋才」が大切だと言ってるじゃないですか。せめて御所は政経とは離れた環境にしてほしかったですね。

それでは、翌年の明治7年の「京都絵図」。上記同様「京都市史 地図」から引用。
明治7年刊京都絵図

これもデカ過ぎてわかりずらいので御所周辺へ拡大。

明治7年刊京都絵図(拡大)
明治7年の御所付近図拡大

何と!公家町が空っぽになっているぅ! 悲しい・・・。
前年6年の絵図では所々抜けてはいたけどまだ公家町として存在していたのに、この一年の間に何があった?やっぱ、上知令とかで競売にかけられ猛烈な勢いで撤去、乱開発されたのだろうか? 九条邸の跡だって料亭になってしまいました(だから拾翠亭が残ったかもですが)。にしても激し過ぎる。そんなに急がなくても・・・・。と思うのですが、やっぱり人が住まなくなると家というものは一気に廃屋化して治安上も宜しくないのかな。でも、幾らか残して行政・公的施設として活かす道はなかったのか? えぇっ!槇村知事殿!(逸話:「非科学的である」との理由で五山送り火をはじめとするお盆の諸行事を禁止した。そんな人)。

旧九条邸池
料亭になった九条家屋敷。池越しに拾翠亭が見える

でも空っぽすぎる。ホントかな?絵図合ってますよね?明治7年で合ってますよね?。確か明治10年の御苑整備事業(大内保存)で残る公家屋敷も撤去された、と記録に残っており、それからすれば空っぽ過ぎるのでは? 適当かな?とも思いますよ。まぁ絵図は絵図か・・・な。

気分を取り直して、次、明治9年の絵図にいってみます。
京都区分一覧の図(明治9年・御所近辺)
明治9年に刊行された京都区分一覧の図の御所近辺の拡大図。

これは昭和51年に臨川書店から刊行された「新修 京都叢書」の第23巻の古地図集のなかの絵図です。白黒ではありますが細かい文字までわかる精緻な絵図です。


ちなみに同絵図の装幀は、
明治9年刊京町面絵図面細見大成表紙
こんな感じです

で、絵図を見ていくと、加茂川に近い方に「御用邸」とありますね。皇族の方の宿泊所になっていたのでしょうか? 御用邸の下に公家の愛宕家、それに長谷家もあります。えっ?、いつのまに御苑の外に屋敷を構えてた? 京都に残る覚悟を決めていたのかな? うん? 愛宕家も今の御苑内じゃなかったっけ? さっそく、愛用の「文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)」の公家町外堂上一覧を見る。やっぱり載ってない。東京は「や~だね」ということか? ちなみに京都に残った公家は冷泉家だけでなく後に京都に戻ってきた公家さんも含めて36家ほどあります。(その36家の公家屋敷遺構は残ってないのだろうか? もう霞会館かご子孫に伺うしかないかも・・・でも、自分にそんなツテもないし)

いきなり、というか元公家町のなかを水路らしきものが描かれてますね。辿っていくと鴨川に繋がります。やはり水路。排水路かな?生活水路かな。調べてみると、どうも禁裏御用水と言って明治時代まで使われていた水路らしい。禁裏御用水は、加茂川の上流から2本の水路で分流され、相国寺の北側に沿って境内を横切り、今出川を越えて御所まで引かれていたそうです。敷設されたのは、豊臣秀吉により京都が大改造された桃山時代からと結構古い。御所の建物や敷地塀のまわりの側溝を流れ、庭に引いたり公家町を巡って後は市中に流れていったものだそうです。知らなかった。幕末の内裏絵図にも全然載ってませんからね。やっぱり明治だ。(mixiの琵琶湖疏水コミュさんから引用させて頂きました)
琵琶湖疎水の第一疎水が完成した明治23年の翌年には御所用水として新たに御苑内に送水されたそうです。

次の絵図・明治12年刊行の「明治12年改正再刻京都区組分細図」をみていきます。
明治12年改正再刻京都区組分細図
明治12年改正再刻京都区組分細図(国際日本文化研究センター所蔵)

この絵図はカラーでお見せできました。前述しました町組制度に沿って色分けしてあるのがよくわかりますね。

で、これも御所周辺の拡大図に移ります。
明治12年京都府区組分細図(御所周辺)
明治12年改正再刻京都区組分細図の御所周辺拡大図

見ると、えらいカラフルになってますね。主な建物も具体的に描かれてますね。御所の北・旧准后御所跡は師範学校になってます。有栖川宮邸は相変わらず裁判所。加茂川沿いの空欄になっている旧伏見宮邸、梨本宮邸(梶井宮から名前が変わった)の隣の元日光里坊の跡は療病院になってます。元公家町を通っている御所用水もより明確に描かれていますね。旧九条邸は幾つか建物が描かれていてやっぱり料亭になっていたのですね。うん?長谷家が消えている。

面白いのは、加茂川対岸に巨大な「釣生洲」が突如出現していること。しかも三階建ての高楼まで建っている豪華な料亭です!。幕末、ここは何があったんだろう? 幕末の絵図まで遡ってもやはり空白地帯。町屋町だったのかな?九条家の下屋敷があった付近にも思われるのですが。
釣生洲というのは、川魚料理をメインにした会席料理の店、料亭のことで、今も夏の風物詩となっている鴨川に迫り出した川床の懐石料理。それらと共通した京のグルメ処だったんですね。

そして時は巡り少しおいてご紹介するのは明治18年刊行の「京都區組明細圖・ 改正新版」(国際日本文化研究センター所蔵)の御所周辺の拡大図。
京都區組明細圖・ 改正新版(明治18年)
京都區組明細圖・ 改正新版(明治18年)・御所付近

明治12年の絵図よりも御所周辺がスッキリした感じですね。
明治天皇が旧公家町・御所の荒廃を嘆かれ改めて整備するようお命じになったのが明治10年から始まった「大内保存事業」。その結果、御苑内で御所が類焼しないよう有栖川宮邸、また元々准皇后御殿で後に師範学校になっていた建物も撤去。料亭に使われた九条邸も拾翠亭や厳島神社を残して撤去。有栖川宮邸は主屋が現在の烏丸通に移築され長く京都地方裁判所の所長宿舎として使われてきましたが現在は「有栖館」として保存利用されています。
加茂川対岸にあった豪勢な釣生洲が消えてますね。潰れた?

大内保存事業で撤去されなかった宮家・公家邸は、桂宮邸、閑院宮邸、賀陽宮の三邸だけです。このうち桂宮邸は二条城へ、閑院宮邸は宮内省の京都支所として利用、かなり改変されていますが今も残り一般に公開されてます。ただし、畳の部屋もないですよ。まるで学校の廊下と教室を歩くような雰囲気です。風雅はないです。流石に正門は立派ですよ。あれ?でも、戦前、華族會館京都支所として使われていた御所北、今出川交差点角そばにある門は閑院宮邸からの移築と聞いてます。では、今の閑院宮家の門はオリジナル? なんかよくわかりません。三つ目の賀陽宮邸は明治末まで残されますが大正天皇の御大典後移転され今は存在しません。

賀陽宮本邸
賀陽宮本邸の門

御苑内のものか今一つハッキリしません。賀陽宮は中川宮という方がわかりがいいかもです。幕末、幕府寄りの公武合体派であったため明治になって日陰の身に・・・、そんなこともあって明治末まで京都に留まっていたんですね。

仙洞御所の南には新たに明治14(1881)年、常設の博覧会場が建設され以後明治30(1897)年に岡崎(現左京区)に博覧会館が新説されるまでここで博覧会が開かれました。絵図にはその常設会館が載っていますね。で隣には「観象台」が載ってます。天気予報を予測するところ、今の気象台ですよね。正直、何でこんなところに建てたんだ。という感じですが、命じたのはやはり合理主義の権化?槇村知事でした。彼は京都の発展に貢献した人物ですが、一方、日本の文化・伝統には無頓着でした。

京都博覧会常設会場
京都博覧会用の常設会場の図面

その後の公家町、今の京都御苑は博覧会館や観象台も他に移され、大正天皇の即位のときに大規模な再整備が行われ現在の形が整いました。くどいようですが、御苑として公園化されたことは素晴らしいと思いますが、何もすべての公家屋敷を撤去する必要はなかったと思います。御所だけポツンと残されてもお可哀そうじゃないですか、お付きの公家屋敷も幾つか残されていれば、京都の中心にもっと緑豊かな歴史的・文化的景観が残されたと思います。残念ですね。

旧桂宮邸の門

先日訪れた、この屋根に白いシートが被せられたのは旧桂宮邸の門です。軒も痛んで傾いています。早く修理してほしいです。中にあった御殿は二条城本丸御殿として移築されています。明治以後、二条城は離宮とされましたから移築されたのだと思いますが、二条城にはすでに豪華な二の丸御殿があります。そこへ移しても影に隠れるだけです。御苑に残されてこそ宮邸の雅さが伝わります。

それから移された御殿は耐震不足ということで非公開になってます。もう何年経つでしょう?。元々、御殿の屋根は杮葺きの瀟洒な屋根でしたから瓦葺では負担もかかると思います。一番の耐震は杮葺きに戻すことだと思いますよ。もう、再度、御苑に戻してほしいですよ。一時、公明天皇の仮皇居になり和宮も住まわれた由緒ある建物ですし。

なんか愚痴になってしまいましたが、絵図を通して自分なりに幕末維新の公家町の推移を眺めてみました。

最後に、大正4年ごろの京都をしめした地図(京都市編 京都の歴史 第八巻・古都の近代から引用)を掲載します。
大正4年ごろの京都
大正4年ごろの京都をしめした地図(京都市編 京都の歴史 第八巻・古都の近代から引用)

公家町の面影はもうないですね。加茂川沿いに伏見家、久爾宮家の別邸があるくらいです。二条城の隣上には大きな監獄がありますね!1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦の捕虜収容所も兼ねていたのかな?

地図からはいろんなことが想像できますね。後は読まれた方それぞれで読み取ってみてください。

それでは次回からは公家町土地区画整理事業の具体的な線引きに入っていきたいと思います。
ここまでの駄文のお付き合い、ありがとうございました。


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hikakin君、3D京都も頑張ってるよ! (ただし金閣寺のみ・・・)

今日は雨模様だし、時間もあるし、何か別なこと書きたくなって急遽、ユーチューバーのトップランナー hikakinさんの事を書くことにしました。絵図の記事は次にということでご容赦を。ホント、ムラッ気で困ります。

と、その前に以前、記事で自分が新しい事業を始める云々のこと書いたので、少しそちらについても補足しておきます。その事業ですが国から正式に認可が下りました。

「農+α」的な営農です。全国的にも事例の少ないスタイルなので自分なりに開拓していこうと思っています。外で適度に汗をかき、午後はブログを書く。なんか健康的で自分ではいいと思ってます。晴耕雨読。きょうは丁度雨ですし。

ですが・・・実は名義変更がまだ私の名前に替わってません。お上には申請を出しているのですが、窓口が一つでパンク状態、未だ通知が来ず・・・しがない庶民、待つしかないので待ってます。桜が散って、さぁ草たちの季節到来。しばらくは草刈りに精を出そうと思ってます。

さてと、恥ずかしながらSNSやってない自分は昨日、「hikakin」さんというユーチューバーの存在を初めて知りました。調べたら、今はYouTubeの垣根を越えてエンタメ界で大活躍してる時代の寵児だそうです。あぁ、浦島太郎になった気分。

では、なぜ今ごろ知ったのかと言うと、YouTubeにアップしている私の金閣寺の動画の一つ置いたトップに彼の動画が載っていたからです。


hikakin_金閣寺


”金閣”で検索すると私の動画がトップに出てきます。しかし”金閣寺”で検索するとトップ10どころか下へスクロールしてもなかなか出てきません。そこで、ちょっと前に動画の説明欄に”金閣寺”の文字を追加しました。

そしたら、検索でトップ10に入る時も出てきて昨日だと3位まで上がりました。そのときの魚拓が上のスクリーンショットです。YouTubeの検索順位は基本、「関連度」に基づくそうですけど時間、日によって結構、順位は変動します。ですので、記事を読まれて「あれ?出てないじゃん」という場合も多いのであしからず、です。ちなみに視聴回数で絞ると今、24位あたりです。現在のアクセス数は4年間で計27、000回。”金閣寺”で検索すると全部で約55,100件ヒットしますので、そのなかでは結構頑張ってる方かな、と、自己満足に耽っております 笑。

で、そのトップがhikakin氏の金閣寺。5年前にアップしていて現在のアクセス数は17万。もし、今のhikakin氏の人気度だったら、たとえば今夜アップしたなら一夜で軽く1万越えするのではないかと思います。コメントもたくさんあります。別の動画を見たら、彼のサイン会で握手できた感動で号泣している女の子もいて、ますます、へぇ!すごい人なんだなぁ、と再認識しました。

5年前にアップしたときのhikakin氏と現在の彼を見比べると明らかな進化を遂げていました。

最近になって私も彼の動画の下あたりに近づいてきたので彼の五年前の金閣動画を見てみました。最初見た時、やせ細った体に茶髪にデカい黒縁メガネをかけた少し生意気そうな若者で、たまに「チック、チックッ」と首を振り気味に呟いてる姿を見て、「え!なに、チック症?」。と、少々不気味な印象を持ちました。後にそれが彼のブレークのきっかけともなった「ボイスパーカッション」だったとは露にも思いませんでした 笑。

5年前の彼には少し角があった、棘があった、斜め上感があった。
それが今の風貌を見ると太ったせいもあるけど、全体に丸みを帯び顔の角も取れ柔和な雰囲気に。なによりも彼の顔芸がすばらしい。話術もいい。その場に合わせた笑い作り、ファンを飽きさせず楽しませてくれる。そして様々な分野とタイアップ。

彼の動画にはアクセス数が何百万も超えるのが幾つもある。チャンネル登録も500万あります。もうYouTubeなしでもエンタメ界で十分活躍していけると思います。

彼の第一歩は顔を晒すこと。そしてたくさんの動画をアップすること。その過程で、どんなコンテンツが受け、人気がでるか、笑いが取れるか、試行錯誤を繰り返し努力してきたと思います。ストイックなほどに。彼を突き動かしたものは何だろう?とも思います。

私には顔をさらすような勇気はありません。

どんな分野でも言えるのは、最初はまずリスクを恐れない勇気、根性がいると思います。それがトップランナーに繋がると思います。

私がささやかな会社役員をしていた頃、身近で成功した起業家の方を見ると、やはりリスクよりも行動を選んでました。選ぶというより、もう先天的にリスクをリスクとも思わない図太さを持った性格。別な見方でいうなら「何とかなるさ」という感性のズボラさも同居していました。だからこそ、事業を起こし、博打に打ち勝って、後は持ち前の行動力で社業を伸ばす。また、そういった人たちは人間的魅力もあるので人も自然と集まる。で、一端、軌道に乗ればどんどん売上が伸びていく。しかし、世の中がちょっと変わったとき、同居していたズボラさがどんぶり勘定をうみ会社が傾いていく。そういった社長さんも見てきました。もし、そこにリスク管理をしてくれている参謀がいる会社なら幸いなるかなです。

「どんぶり勘定」はマイナス言葉として使われますが、私のなかでは「どんぶり勘定できる人だから会社を創業できる」と思う面もあって、結局、人にはそれぞれ役割分担があって、それが上手く機能してゆけば企業は継続してゆく、と思うのです。

変な企業論になってしまいましたが、

新しい分野で努力して名を成したhikakin氏に敬服します。
また、同氏と”金閣寺”という同じ土俵に立てられたことをうれしく思います。



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