お公家さん文化に興味もってます。武士とは違った視点で書いてみたいですね。新鮮かも!
最近のブログでは法住寺殿や伏見城など洛南の地域の建物を取り上げていますが、今回もまたまた真打登場というか、あの鳥羽離宮の登場です。ちょうど名神京都南インターが離宮跡とも被るので、いままで発掘調査もなされてきて全体概容がおぼろげながらわかってきました。ただ、細かいところになるとまだ不明な点が多く、建築史上もまたしかりです。太田静六氏の書かれた「寝殿造の研究」のなかに鳥羽南殿の推定間取り図が描かれているのが唯一の手がかりといってもよいかもしれません。平安京のバイブルとも称される「平安京提要」にもやはり概容が載っているだけです。でもそこに掲載してある俯瞰図はとてもわかりやすいです。夫々クリックすると拡大します。
元図は杉山信三考証・中西立太作画・朝日新聞提供のものですが一部掲載させていただきますね鳥羽離宮の絵
いかがですが?「水の離宮」の雰囲気が良く伝わっています。

鳥羽離宮は、12世紀から14世紀頃まで白河・鳥羽上皇はじめ代々の上皇により使用されていた院御所です。鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれています。

場所は、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近にありました。敷地面積は180万平方メートル。ちょっと検討つきませんが京都御苑が65万平方メートルですから、ざっとその三倍はあるとてつもない広さです。鳥羽は、平安京の南約3kmに位置し、鴨川と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝でした。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能も持ち、また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名でした。いわば平安京の外京だからこそ広大な離宮を営むことができたのだと思います。

ここで鳥羽離宮の概略図と航空写真をアップしますね。概略図は平安京提要からお借りしました。航空写真は「つちの中の京都 3」から一部掲載させていただきました。
鳥羽離宮外略図
桂川と鴨川の合流点に築かれているのがよくわかります。上の方には鳥羽の作り道も見えます。
鳥羽離宮航空写真
鳥羽離宮跡を上空から撮影した画像です。なんせ1970年代の写真といいますから、まだ家も建て込んでいませんし、インターのカーブ曲線がくっきりとわかります。いずれもクリックすると拡大します。

鳥羽離宮は一つの御所から成り立っていたものではなく、幾つもの御所と御堂から成り立ってた複合施設でした。これは法住寺殿や白河殿とも同じ、院政期特有の建築手法ですね。

鳥羽離宮は、南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿からなり。 それぞれの御所には、御堂が付属していました。

具体的には、
南殿-証金剛院(白河上皇の発願)
泉殿-成菩提院(鳥羽上皇の発願)
北殿-勝光明院(鳥羽上皇)
東殿-安楽寿院(鳥羽上皇)
田中殿-金剛心院(鳥羽上皇)
と五つのブロックに別れ、院政期の鳥羽は,京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地となりました。しかし南北朝の内乱期,戦火により多くの殿舎が焼失し,その後急速に荒廃していきました。

ここで京都アスニーにも模型展示されている図をアップしますね。掲載元は「よみがえる平安京」(淡交社刊)です
鳥羽離宮立体
ここには紙面の関係で鳥羽南殿は写ってませんが他の御所は写っております。御所間は徒歩でも船でも優雅に往復したと伝わります。鳥羽上など生涯に幾度も熊野を参詣されてますが、きっと、ここ鳥羽離宮で旅の疲れを美福門院と癒したことでしょう。

鳥羽殿を営んだ白河上皇は,東殿に自らの墓所として三重塔を建立しました。鳥羽上皇は,白河上皇の例にならい,安楽寿院に三重塔(本御塔<ほんみとう>)を,続いて新御塔(しんみとう)を築きました。

 保元元(1156)年,鳥羽上皇が安楽寿院で亡くなると,遺言に従い本御塔に埋葬されました。新御塔は,美福門院(びふくもんいん,鳥羽天皇皇后)の墓所に予定して建立されていましたが,女院は高野山に葬られたため,新御塔には女院と鳥羽上皇との間に生れた近衛天皇(このえてんのう)の遺骨が埋葬されました。

 鳥羽殿は,院政を始めた白河・鳥羽二代の上皇と,鳥羽・美福門院系統の天皇の墓所という性格も備えていました。

こののち、後鳥羽上皇なども修築を重ね利用されたみたいですが、南北朝の争乱のなかで失われてしまいました。

それでは幾つか創建された御堂のなかから壮麗さで知られた金剛心院をご紹介します。
金剛心院
六勝寺や法住寺殿ともよく似た一群の院政期の院家建築ですね。

ここで鳥羽上皇の50歳を祝ったときの鳥羽南殿の儀式図が残っていますので掲載します。(これも太田静六氏の描いたもの)。
鳥羽上皇50歳祝賀の図
さらに南殿中心部の復原図です。
鳥羽南殿復原図
なお且つ南殿の推定復原模型図もアップします。
鳥羽南殿
そして、太田静六の推定された南殿の推定間取り及び外観図です。
鳥羽南殿推定復原図

以上、ざっと鳥羽離宮を駆け足で見てきました。
太田静六氏の推定された南殿を足がかりに例によって3Dで製作してみようかと思ってます。京都3D地形のなかで法住寺殿の伏見城と、この鳥羽離宮がどのように写りこむのか我ながら楽しみです(笑)。

それでは、今回は鳥羽離宮の概容案内でした。

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|04-22|院政期コメント:(0)TOP↑
読者の方から公家の入江家についても、その様子などわかったら知りたい旨のリクエストがあったのでブログ経由でお応えしたいと思います。

結果から先に申しますと、「華族建家坪数控」には入江家は載っていませんでした。ですからせっかくのリクエストですが十分なお答えができず申し訳ありませんでした。

「華族建家坪数控」についてですが京都府総合資料館から一式複写で資料を送付してもらいましたが、そのなかには紙面の関係で公家の家名の部分が複写されてなかったり、あるいは重ね複写で家名が判読しがたい場合が数件ありました。ひょっとしてこのなかに入江家が相当していたかもしれませんが、見た範囲内では見つかりませんでした。

せっかくですから入江家の他の資料の所在など交え少し入江家についてお話したいと思います。
入江家といえば昭和天皇の侍従長を長く務めた入江相政氏がよく知られてますね。また歌人・随筆家としても知られています。

1905年(明治38年)6月29日、藤原北家の支流・冷泉家の流れを汲む入江為守子爵の三男として生まれています。冷泉為相に因む入江家の通字「相」から相政と名付けられました。父・為守は冷泉家・冷泉為理の次男。父は、冷泉家分家入江家当主で従兄でもある入江為福の養子となりました。母・信子は柳原前光の長女で大正天皇の生母・柳原愛子の姪にあたり。昭和天皇と「はとこ」でもあります。つまり祖父柳原前光と昭和天皇の祖母柳原愛子が兄妹の関係ということで、こういう縁もあり昭和天皇の侍従になったのかもしれません。ちなみに結婚は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘にあたる君子という方と結婚しています。

同家は御子左家(藤原北家の末裔)の庶流・冷泉家の支流にあたり、家格は羽林家、家禄は蔵米30石でけっして豊かではありませんでした。家業は歌道でした。こうして入江家が知られるのも入江相政氏の存在が大きいですね。

せっかくですから幕末公家地図から入江家のあたりをアップします。
入江家地図
ピンクで囲ったところが入江家です。公家町ではなく旧大聖寺門跡のすぐ北にあったんですね。冷泉家もそうですが、幕末、公家町からははみ出した立地のお公家さんもけっこういました。また別宅・下屋敷も各所に点在していました。近衛家など五ヶ所も別宅を保有していました。ちなみに入江家のすぐ右隣は薩摩藩の京屋敷があったところ。幕末、入江の人はどんな思いで日々を過ごしていたことでしょうね。
後、大聖寺門跡を中心とした航空写真を添えますね。①が冷泉家、②が大聖寺門跡、これで位置関係もわかると思います。このあたりは公家の屋敷も点在し、現在もひょっとしてその遺構がひっそりと知られず残っているかもしれません。地元・京都の方、興味あったらぜひ探し当ててみてください(笑)。
大聖寺門跡地図

では、最後に入江家に関する資料の所在についてご説明します。
学習院大学資料館で発行している「旧華族家史料所在調査報告書」によりますと入江家の条、
   
① 宮内庁書陵部      入江家系譜      一冊
② 宮内庁書陵部(庭田本)  御歌会始申沙汰記   一冊
③ 天理大学付属天理図書館 稲妻の巻       三軸
④ 東京都立中央図書館   書簡三通 入江為守
⑤ 東大史料編纂所     入江家譜(家系、家伝) 2部
⑥ 東大史料編纂所維新史料 入江家譜       一冊

などの所在がわかります。

また、入江家について直接お知りになりたいのであれば、
旧華族の親睦団体である霞会館で発行している「旧華族家系大成」に住所が載っているケースがあります。
直接、お尋ねする場合はどうぞ。ただ管理人にはとてもそんな勇気はありません(笑)。それと発行時から結構年数が経っています。現住所も変わっているかもしれません。後、旧華族の会員名簿などもありますが、これはプライバシーにかかわることなので割愛させていただきます。

以上、入江家についての臨時情報でした。

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|04-19|幕末・明治維新-1868年コメント:(0)TOP↑
「お宅にも程がある!?」 もとうとう第四回目を数えてしまいました。シリーズ化する類のものではないのですが、つい、他家の台所を見たくなってしまうような・・・そんなお宅趣味が高じてしまいました。今回が最後ですので、今しばらくお付き合い願いますね。

では、まず庭田家から。一昨年、NHKの大河で篤姫を放映してましたよね。そのとき皇女・和宮に京から付き従ったきた御付の女房が確か庭田家の出身だったと記憶しています。
確か庭田嗣子と言ったと思いますが、そもそもは仁孝天皇の典侍でした。父は権大納言の庭田重能。母は大炊御門家孝の娘。兄に庭田重基、五辻高仲がいます。宮中では新典侍、宰相典侍と称されました。位階は正五位下。弘化3年(1846年)に仁孝天皇は崩御しますが、嗣子は退く事を許されず、引き続き宮中に留まり、後宮の指導にあたりました。余ほど優れた人物だったんでしょうね。

万延元年(1860年)、孝明天皇の皇妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁が決まると、和宮付きを命ぜられてともに江戸へ下りました。江戸城大奥では和宮の生母・橋本経子(観行院)と供に和宮の側近として大いに貢献しました。MHKでもそのへんのところ放映してましたよね。大奥では観行院と同様に「上臈上座」の位を授けられました。慶応元年(1865年)に観行院が亡くなった後も終生和宮に尽くし、和宮を批判する天璋院や瀧山ら大奥老女らと対立したのはご承知のとおりです。

庭田家(にわたけ)は宇多源氏の流れを引く堂上家(堂上源氏)。左大臣源雅信の子孫経資(正二位・権中納言)(1241年 - 没年不明)を祖とします。綾小路家の祖信有(正二位・権中納言)(1269年 - 1324年)は経資の弟に当たります。

家格は羽林家。鎌倉時代末期から南北朝時代の庭田重資(1306年 - 1389年)以降、権大納言を極官とする。代々の庭田家の女子は皇室及び伏見宮家に仕え、親王を産むこととなる。ちなみに室町時代の後花園天皇及び後柏原天皇の生母(庭田幸子、庭田朝子)はそれぞれ庭田家の出身ででした。また、戦国時代には本願寺顕如の生母を出した事から、本願寺(一向一揆)と諸大名の仲介役を行った事があります。江戸時代には大原家が分かれ出ました。大原家も幕末国事に奔走しています。

家業は神楽。江戸時代の家禄は350石。明治時代以降は伯爵。

では一枚目。
庭田家1
敷地は630坪。ほぼ標準ですね。内、本宅が159坪、そのなかには二階が8坪ほど含まれてます。ここでもそうですが多くの公家屋敷では二階部分が少しありました。物見や火の見櫓的要素、後、幕末の三階建て規制の解除なども影響していると思います。戻ります。離れの茶室が5坪、土蔵13坪、納屋23坪、厩8坪、長屋14坪など。二枚目いきます。
庭田家2
合計総建坪205坪。と家令の弓削という人が署名しています。弓削とはあの弓削道鏡の子孫ですかね?ちなみに江戸期、公家には成れない地下官人のなかに賀茂氏始め橘氏など古代豪族の末裔たちが生き残ってました。

次にその古代豪族の一派ともとれる、あの陰陽師で有名な安部晴明の子孫にあたる陰陽師の家・土御門家をご紹介します。
江戸期の土御門家は室町時代の陰陽師安倍有世(晴明の14代目の子孫)の末裔。安倍氏の長者を代々勤めました。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様本姓ではなく家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれています。

応仁の乱を避けて、数代にわたり若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していました。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していました。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた。家格は半家。家禄は177石でしたが全国の陰陽師・暦道を束ねていたため裕福だったと思われます。では一枚目。
土御門家1
やはり土地は公家町ではなく梅小路村とありますね。敷地は2240坪。摂家なみです。建坪は本宅129坪、長屋7坪、また買い増した土地1730坪に建坪237坪とあります。別宅ですかね。それとも陰陽道の研修道場?かも。二枚目いきます。
土御門家2
社殿が20坪とあります。普通の神社なみですね。さすが陰陽道の家。土蔵10坪、納屋37坪、長屋?8坪湯殿雪隠5坪などとなっています。

次に藤谷家いきます。藤原北家御子左流。冷泉(上)家の分家筋にあたります。権大納言冷泉為満の次男為賢を祖とする。家名の読みは、系図纂要索引によれば、「ふじがやつ」。江戸期の家格は羽林家で家禄200石、家業は歌道となっています。今回、なぜ、公家としても平凡な藤谷家をご紹介するかと言うと、他でもない、現冷泉家住宅の左隣が藤谷家で、そのまた隣が徳大寺家だったんですね。そのご近所ということで取り上げました。さぁ、現存の冷泉家住宅とどう違うでしょう?一枚目いきます。
藤谷家1
敷地は425坪。冷泉家よりちょっと狭いですね。本宅が130坪、土蔵13坪、その他物見、納屋、そして二枚目。
藤谷家2
厩4坪、長屋雪隠で12坪、締めて総建坪246坪。とあいなります。

次はそのお隣の徳大寺家です。同家については先回、家屋敷を3Dで製作してみました。興味のある方はそちらもご覧になってください。徳大寺(とくだいじ)家は、清華家の家格を有する公家。江戸時代は同志社大学の構内にありました。冷泉、藤谷家と一緒ですね。藤原北家の閑院流で西園寺家や三条家とは兄弟筋にあたる。家紋は木瓜花菱浮線綾を使用。笛を家業とした。維新後侯爵となり、その後公爵に陞爵。通字は「公」・「実」。

藤原公実の四男実能を祖とします。平安時代末期、左大臣時代の実能が衣笠山の西南麓を所有した別邸を営み、その中に持仏堂を建て徳大寺(得大寺)と命名。これが後に家名となりました。後にこの別邸は細川勝元に譲られて龍安寺の元となりました。徳大寺公英は美術評論家として有名。
また同家の敷地は明治以後、一時期、華族の集まりである霞会館の京都支所にもなっていました。京都支所は場所は変わりましたが現在も京都にあり、九条家はじめ三十数家の旧華族が属している言われます。たまにテレビで蹴鞠の映像見かけることありますけど、この京都支所の方々が行なっているとか。

では一枚目。
徳大寺家1
敷地は約1100坪。さすが精華家です。内、本宅は399坪。二階建てが16坪、土蔵12坪、その他物見、鎮守社、門番所、納屋など字が小さくてわかりずらいです。3Dで作った屋敷は江戸中期の指図に基づいているので、この幕末の不動産一覧とはちょっと違いますね。中期の指図には二階はありませんでした。二枚目です。徳大寺家2
これまた細かくて判読しずらいですね・・・・徳大寺家はこのへんで。

次は摂家の二条家です。二条家も御所の北、現在の同志社大学内にありました。
同家は藤原氏北家九条流。鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)。家紋は二条藤。江戸時代の家禄は1708石。維新後、公爵。 足利将軍家および徳川将軍家から、代々偏諱を賜い、五摂家のなかでは、鷹司家と並び最も親幕府派とされました。また、史上最後の関白(二条斉敬)を出した家でもあります。

鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いを受けて鎌倉幕府より「中院禅閤(二条兼基)等子孫不可為家督」(『花園院宸記』正慶元年4月10日条)の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥った(後醍醐天皇の復帰で無効となる)。続く、南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の子)のもとで勢力を取り戻した。特に明治以前の即位式において新天皇に灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は室町時代以後二条家が独占していた。江戸時代、当時の摂家最大の実力者とされていた近衛基熙が本来は摂関家全てに即位灌頂の礼式が伝わっている事、先代当主の二条光平の早世で礼式が絶えたことを理由に二条家の独占を継続すべきではないと唱えた。これに対して霊元上皇は他家にも伝わっているにも関わらず二条家の独占になっているのは相応の理由があるからであるとして、たとえ二条家当主が現職の摂関・大臣でなくても「即位灌頂」のみは二条家当主が行う事、もし当主が幼くして二条家を継いだ場合には儀式の秘法を知るもう一人の存在である当代の天皇が責任をもって当主に伝授する事を裁定して公式に二条家の独占となったそうです。

江戸時代の屋敷跡地は、京都御苑の区画外に位置していたため、他の4家の摂政関白家とは異なり公園とはなってはおらず、同志社女子大学の構内となってます。
茶室は同志社大学に移築され現在も保存されています。政所御殿と表門は随心院に移築され、それぞれ庫裏、総門として使われています。

では一枚目。
二条家1
敷地は6944坪。近衛家より少し狭いですね。でも摂家では三番目の広さですね。瓦葺の本宅が769坪、同じく二階建てが5坪。これも物見を兼ねてますかね。後、鎮守社18坪、土蔵24坪、長屋57坪、納屋39坪、
二条家2
二枚目で物置が19坪、厩31坪、湯殿雪隠が36坪の合計993坪の総建坪とあいなります。ここ二条家でも本宅はすべて瓦葺ですね。せめて摂家などは主要御殿は桧皮葺か杮葺が相応しいと思うのですが、これも幕末の事情ですかね。今のところ杮葺で300坪越えたのは近衛家だけ。おそらく九条家も主要御殿はそうだったと思います。

次は萩原家です。神祇を司る吉田家の分家筋にあたります。家格は半家でありまがら家禄は1000石と摂家なみでした。同家は卜部氏を本姓とする堂上家。江戸時代前期の吉田兼治の長男で、祖父兼見の養子となった萩原兼従(かねより)を祖としています。本来は、豊国神社の社務を世襲する社家として創設された家であり、半家でありながら摂関家なみの1,000石の家禄を保持しているのは、社務を勤めるための社家としての役料であった領地が、豊家の滅亡のあおりで豊国神社が破却されたことにより、堂上家に加わることが許された後にもそのまま認められたためでです。神道を家職としました。

家格は半家。正二位非参議を極位とする。のちに分家錦織家を創出しています。明治の華族制度の下で子爵になっています。

では一枚目。
萩原家1
土地は下岡崎村とあります。公家町ではありませんね。敷地は586坪、内、平屋建て本宅78坪、二階部分48坪。萩原家2
後、長屋41坪、納屋や土蔵、厩雪隠など合わせて180坪ほどですかね。
萩原家3
後、下岡崎村とは別に洛東吉田村にも拝領地を抱えていました。そこの敷地は489坪、平屋建て29坪、土蔵3坪、納屋5坪、雪隠2坪など別宅のようですね。

それでは最後に、あの白樺派の作家で知られる武者小路家実篤を輩出した武者小路家をご紹介します。
初代公種は三条西実条の二男として生まれ、三条西家から独立して、新たに武者小路家を立てました。家名の由来は、室町時代の三条西家の邸宅であった武者小路邸(武者小路通に面して構えられていた)にちなむ。 2代実陰は西郊実信の子(三条西実条の曾孫・西郊家は実条の三男西郊実号が始めた)として西郊家に生まれたが、大伯父・公種の養子となり、堂上家である武者小路家を相続した。実陰と3代公野は議奏を務め朝廷で活躍した。同家はこの実陰も含め、優れた歌人を数多く輩出しています。

西郊家は実陰が養子に出ることによって途絶えかけたが、実陰の次男重季(のちの高松重季)は、父実陰の実家である西郊家の再興を天皇から特別に許され西郊重季と名乗った。重季の位が登ると西郊家も羽林家に加わることとなったが、その際、家名を高松に改めている。武者小路家の3代は実陰の長男武者小路公野である。10代公共は駐ドイツ大使や宮内省宗秩寮総裁を務めました。江戸期の家禄は130石、家格は羽林家で明治以後、子爵を授けられました。ちなみに実篤は、武者小路実世子爵の第8子として生まれました。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手だったそうです。

では一枚目。
武者小路家1
敷地は534坪。石高の割りにありますね。内、本宅160坪、土蔵8坪、長屋23坪、離れ屋敷16坪、納屋9坪など〆て165坪の総建坪となっています。二枚目いきます。
武者小路家2
二枚目はあんまり意味ないですね。ただただ空欄が埋まってます。せっかくですから署名は家令の前川というひとが書いてますね。

以上、「華族建家坪数控」のダイジェスト版でした。

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|04-18|幕末・明治維新-1868年コメント:(1)TOP↑
お宅にも程がある・・・その三で終わる予定でしたが残る未掲載の公家を数えたら13家ほどあったのでその(四)までいきます。それまでよろしくお付き合いくださいませ(笑)。

さて、その(三)の冒頭を飾るのは、山科家です。同家は明治維新で多くの公家が東京へ移っていたあとも、冷泉家とともに京都に残った数少ない公家です。(諸般の事情によりその後京都に戻った公家は三十数家あるそうです)。

同家は、羽林家の家格を有する公家で藤原北家四条流。家名は家領があった京都山科荘に由来する。現在の山科区ですね 家業は装束・衣紋で江戸時代には高倉家(藪家)とともに装束色目を担当しました。江戸時代の家禄は300石です。中流公家ですね。

山科家といえば戦国時代に活躍した言継(ときつぐ)が知られています。言継の残した日記「言継卿記」は
戦国時代の京都を中心とする畿内の情勢を知る上で必要不可欠な一級史料として知られています。また同家は代々内蔵頭を輩出して朝廷財政を担ってきた側面がありまして、日記のなかでも、70過ぎの老躯に鞭打ち、信長のいる安土城に下向、御所の諸儀式の費用の工面を督促したりしてます。信長も言継卿には一目おいていたようです。言継卿は医道にも優れ、町娘が目の病に罹ると必死になった助けてあげるなど、庶民的な側面もあって、何かとエピソードに尽きない御仁です。戦国の京を舞台にした老公家と町衆の触れ合い・・・そんな筋書きで時代物がドラマ化できると思うのですが、テレビ局の方、どなたかやってみませんかね?

では山科家の不動産紹介に写ります。
山科家1
敷地は548坪ありますね。ほぼ標準といったところですか。内、本宅は220坪。後、物置や供待の小屋や井戸その他で23坪、物見も10坪ほどありますね。何を見ていたんでしょう?そうそう山科家の位置は、冷泉家の直ぐ右隣。現在唯一残る公家屋敷ですよね。ですから御所の北、同志社大学に飲み込まれている感じです。家屋敷の規模ともに冷泉家とほとんど同規模です。南向きですから間取りも多分よう似てるでしょうね。実際、前に冷泉家の家屋敷を3Dで製作したとき総建坪は260坪ほどでしたから瓜二つかもです。
二枚目ゆきます。
山科家2
総建坪267坪。ドンピシャリ!冷泉家とまったく一緒です。関係ないですけど、家令の長瀬さん、署名の字がちょっと真っ直ぐじゃないですよね。すんません余分な事いって、でも親しみ感じますね。

次に姉小路家です。姉小路家といえば、幕末、暗殺された公知(きんとも)で有名ですよね。暗殺された御所の北東角・猿が辻も知られています。同家の屋敷は道を隔てた御所の東側、猿が辻と目と鼻の先です。
ちょっと解説しますと、天保10年(1839年)、公卿姉小路公前の子息として生まれる。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動しました。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参政となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)に深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で卒去、享年25でした。公家としては若くてもとても気骨のある方だったようで攘夷派でありながら海舟とともに江戸沿岸の視察を行なうなど時流に柔軟性をもった優秀な公家でした。残念な人材ですね。維新後、生き残っていればきっと出世していたことでしょう。明治以後子孫は伯爵を授けられています。

さぁ、その姉小路家の不動産の紹介です。
姉小路家1
敷地が564坪、うち建屋瓦葺本宅が230坪、二階も4坪ほどあります。二枚目いきます。
姉小路家2
長屋12坪ほど、土蔵二箇所、湯殿など二箇所、雪隠六ヶ所、納屋などです。長屋がそのまま長屋門みなってる感じですね。でも御所と直接接しているいから少なくとも四脚門かも。建坪は〆て277坪。

次に舟橋家です。同家は第40代天武天皇の皇子舎人親王の子孫で清原氏の流れを汲む堂上家。船橋家とも記す。 家格は半家、極官は正二位・侍従・少納言・式部少輔で、代々天皇の侍読(家庭教師)を務める。家業は明経道です。江戸時代の家禄は400石、明治になって子爵を授かっています。ちなみに幕末の舟橋在賢(あきかた)・康賢(みちかた)父子は廷臣八十八卿列参事件に加わっています。舟橋家の不動産をご紹介したのも、実はその提出書類の文体が楷書的にとても丁寧にきちんと書いてあったから、自然とキーボードが動きました(笑)。やはり、いくら江戸時代とはいえ、公文書は楷書体で書いてほしいですね。
舟橋家1
で、さっそく中味を見ますと、敷地624坪、内、瓦葺本屋屋敷が72坪、表部屋3坪、離れ9坪、御輿部屋5坪、あと鎮守社や土蔵二箇所、後、板葺き(杮葺?ではないと思います、板厚の厚いのは本当に板葺です)の馬屋や井戸屋形、湯殿雪隠など〆て115坪。敷地の割りに家屋敷が少ないですね。半家という家格からですかね?

次に松崎家をご紹介します。今回調べた範囲内でもっとも敷地面積がせまいお家です。なんと敷地45坪です!現代人でも勝てます!なぜ、そんなに狭いんでしょう?なにかありそうです。
同家は慶応3(1867)年に、甘露寺勝長の三男万長が松崎家を創立しました。幕末、朝幕の力関係で朝廷の勢いが増し、絶えてあまりなかった公家の分家がなされました。松崎家もその恩恵を浴した訳ですけど、家禄は領地ではなく蔵米30石、現代で言うならば米1石6万円として年収180万です。少ないです!貧乏公家とは松崎家みたいな蔵米持ちの公家のことをいうんですね。ちなみに、維新で興福寺の大乗院門跡など同寺の子院の公家の子息たちが還俗して明治になって華族に列せられてますが(俗にいう奈良華族26家ほどあった)、その多くは華族の体裁を保てず後に爵位を返上する家も出てきたそうです。

そうそう、松崎家ですけど、先ほど甘露寺勝長の三男万長と書きましたが、正確には万長は堂上家の堤家の次男で孝明天皇の稚児をしていた関係から天皇の特別な思し召しにより松崎家を起こすことができたといいます。また、万長の場合、孝明天皇の密子という噂もあり、このへんのことから取り立てられたのかもしれません。ちなみに稚児から新家を創始したのは西四辻家(万寿丸)以来実に87年ぶりのことです。

では松崎家の一枚目です。
松崎家1
敷地を見るとやはり45坪とあります。これでは家来の住む場所もありません。板葺の建屋20坪。土間5坪。雪隠一坪? ホントにこれだけでしょうか? なんか哀しすぎます。堂上家ともあろう者が・・・
二枚目ゆきます。松崎家2
なんというか長屋とかわらないですね。おそらく急場しのぎで賜った屋敷だと思います。松崎家が明治以後どうなったかは寡聞に存じません。ただ奈良華族をはじめ一部の公家は東京に移っても、ホントに公家の長屋みたいな場所があった、そこに暮らしたそうです。松崎家もそうでなければいいのですが・・・

さて次に摂家の鷹司家です。同家は鎌倉時代中頃、藤原氏北家嫡流の近衛家実の四男兼平が祖。家名は平安京の鷹司小路に由来する(兼平の邸宅が鷹司室町にあった)。江戸時代、家禄1000石のち1500石。維新後、公爵になりました。

戦国時代、鷹司忠冬を最後に一度断絶しました(1546年-79年)が、後に二条晴良の子の信房が鷹司家を再興し近代まで続きました。1743年、閑院宮直仁親王の皇子である鷹司輔平が鷹司家を継承しました。江戸後期から幕末にかけて鷹司家の当主が関白を務める機会が多く、特に鷹司政通は30年余りにわたって関白を務めました。また、信房の娘の孝子が徳川家光の正室となったことから、弟である鷹司信平は、松平を名乗ることが許され、天皇に仕える公家から、徳川家の旗本へと転身した、この武家の鷹司家は、代を重ねるごとに加増され、最終的には上野吉井藩主家となりました。
鷹司家は五摂家のなかでもとくに徳川家と親しく、半面、公家側の方からはちょっと白い目で見られました。血筋的には昭和天皇の内親王が嫁ぐなど現天皇家と男系、女系の区別は別としてとても近い関係にあります。では一枚目です。
鷹司家1
敷地は4800坪。瓦葺の平屋本宅が502坪、瓦葺二階建てが78坪、土蔵など120坪。雪隠など15坪、
鷹司家2
合わせて建坪729坪。近衛家の2500坪と比べるとかなり少ないですね。五摂家のなかでも一番少ないかもです。しかも本宅もすべて瓦葺、桧皮葺や杮葺もありません。幕末ともなると維持管理費がかかって皆瓦葺に替えてしまったのですかね?

では、その(三)の最後に中院家をご紹介します。
中院家(なかのいんけ)は、大臣家の家格を有する公家。村上源氏で久我家の分家。江戸時代の家禄は500石。家紋は六つ竜胆車。華族としての家格は伯爵。

村上天皇の第7皇子具平親王の子孫で内大臣を務めた源通親(土御門通親)の五男、通方を祖として創設されました。大臣家の一つとして鎌倉時代初期にその家格を固めました。。

中院通勝は江戸時代前期にかけての公家で二条派の歌人でもあり、細川幽斎(藤孝)に学んで和歌・和学を極め、歌書等を表しました。1579年(天正7年)正三位権中納言に至る。江戸時代中期には霊元院歌壇で活躍することとなる中院通躬がでました。 通富は江戸時代末期、国事に奔走し、明治維新後、参与となる。明治17年伯爵位を授けられました。現在、中院家の邸宅跡には護王神社が鎮座しています。

この中院家ですけど、江戸期の屋敷の指図が京都大学に残っていて、管理人もそのコピー持っています。いつか3Dで中院家屋敷を再現したいと思っているのですが、今回の不動産物件とどこまで一致するか楽しみです。
中院家1
敷地は1170坪。大臣家の家格のことだけはありますね。内、本宅平屋が310坪、二階が6坪、土蔵四箇所で23坪、後、長屋7坪、納屋26坪、湯殿雪隠12坪など。
中院家2
計386総建坪です。冷泉家を一回り大きくした感じですね。

以上、「お宅にも程がある!?」(その三)編でした。


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|04-17|幕末・明治維新-1868年コメント:(0)TOP↑
前回に引き続き「お宅にも程がある」編です。
今回はまず、久我家から。同家は村上源氏(中院流)の総本家にあたります。公家としては清華家、摂家に次ぐ家格ですね。江戸期700石の家禄を有し、明治以後、華族としては侯爵を授けられたました。いわば堂上源氏の名門ですね。戦国期の前など足利家と源氏の氏の長者を争ったほどです。戦前からの女優の久我美子は同家の出身のお姫様です。

久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち太政大臣まで昇った者7名、右大臣まで昇った者4名、内大臣まで昇った者6名を数えています。

では一枚目をアップします。
久我家1
幕末、久我家の屋敷は、御所の北西、道路を隔てて徳大寺家と接していました。文書によれば、土地は約1120坪。内、本宅は500坪、土蔵が六ヶ所もあって40坪ほど。鎮守社もありますね。
二枚目行きます。
久我家2
長屋が70坪ほど。雪隠が20坪もあります。もちろん複数で湯殿も含まれてると思います。当時は家相の関係で雪隠(トイレ)や湯殿などの水周りは本宅外に独立して建てられ渡り廊下で結ばれた場合が多いですね。使用人たちは完全な野外が多くさぞ冬は寒かったと思います。そうそう、本宅が500坪とありましたけど、現在残る冷泉家の遺構が200坪ほどですから、その倍といった感じですね。ただ冷泉家でも広間など主だった表向きの建物は杮葺になってます。久我家の場合、屋根の葺き方の表記がないのでわからないですね。昨日。紹介した一条家では本宅の1000坪すべてが瓦葺でした。うーん、なんというか一条家は財政が豊かではなかったのですかね?表向き御殿は摂家でしたら桧皮葺か最低でも杮葺でしたから。まぁそれはともかく久我家は〆て640坪の建坪。建蔽率60%超えてるかも。結構立て込んでますね。

次は橋本家。橋本といったら以前、よく現今上陛下が皇太子時代、ご学友として橋本という方がよくテレビに出ていて、美智子妃との秘話など話されていましたが、その橋本家です。

同家は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流。西園寺分家。江戸時代の家禄は500石。明治維新後、伯爵を授けられました。家業は笛。家紋は尾長巴で、いわば中流の公家ですね。

維新時の実麗(さねあきら)の実の妹、経子(つねこ、観行院)は、仁孝天皇に典侍として仕え、14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮の生母となりました。和宮は、仁孝天皇崩御後は、橋本家で養育されたときもあったんですよね。ですからこれからご紹介する不動産には和宮様も住んでみえたかと思うとワクワクです(笑)
橋本家1
橋本家は御所の東に道路を接してありました。敷地は739坪。内、本宅が瓦葺で179坪。二階建ての物置が13坪。土蔵三箇所で16坪。これでみると土地の広さからみても清華家より少なく、同じ羽林家の冷泉家より少し多い感じですね。

では二枚目いきます。
橋本家2
何れも瓦葺の湯殿や物置、別宅など含め〆て約200坪。建坪では冷泉家とほぼ同じですね。ちなみに、この橋本家の玄関及び書院が嵐山・法輪寺に移築されています。明治以後、一時期、小学校などに転用されたんですよ。

さて次は摂家筆頭の近衛家です。同家についてはいまさら説明する必要もありませんから即、不動産部門に話をもっていきます。
近衛家1
土地の広さは約7500坪。さすが広いですね。ここに瓦葺の平屋本宅が1500坪もあります。さらに二階建て瓦葺が119坪、物見も兼ねた?二階建ての物置66坪。杮葺の平屋が約300坪。ここが主要御殿の広間や寝殿だったんでしょうね。それにしても摂家筆頭の近衛でさえも桧皮葺ではなく杮葺とは、ちょっと驚きました。後、長屋が200坪もあります。使用人たちのお局や下男小屋が連なっていたんでしょうね。後、湯殿雪隠で40坪、門も五ヶ所もあります。馬屋も30坪もあります。
二枚目です。
近衛家2
建屋は〆て2000坪を軽く超えますね。さすがです。

四軒目は明治の元勲・三条実美を輩出した三条家です。
同家は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたり、公家としての家格は清華家、華族としての家格は公爵家。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも言う)を使用。通字は『公』・『実』・『季』。転法輪三条(てんぽうりんさんじょう)家とも称します。江戸時代の家禄は469石。

明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くあります。

これからみても、明治維新時に公家の代表として三条実美が摂家でもなく、かといって中下流公家でもなく、微妙なバランスの上に御輿として担ぎ上げられた側面を感じます。

では三条家の不動産に入ります。
三条家1
土地だけで6000坪あります。さすが維新後の太政大臣。江戸期ならこんな広い土地は摂家だけでしたが、維新の元勲ということで広大な土地を拝領されたんですね。こんな面からも維新の論功行賞の片鱗が伺えます。一方、家屋敷は平屋瓦葺の本宅が320坪、離れが20坪、その他門五ヶ所、土蔵三箇所などありますが、土地の広さに比べ屋敷が狭いですね。急場で広い土地を拝領したけど、屋敷が焼失かなにかで少なかったんですね。ここも多分に大名の江戸藩邸跡の匂いを感じます。
では二枚目です。
三条家2
二枚目で見ると、やはりというか長屋だけで200坪。後、二階建屋もあり武家屋敷の拝領の線、濃厚ですね。空き地は5200坪もあります。俄か成金じゃないですけど、ちょっと、持て余し気味ですね。しかも、東京への遷都は内々で三条実美も知っていたことでしょうし、あんまり家には金かけてない感じですね(笑)。

以上、お宅にも程がある!? その(二)編でした。

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