3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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不自由の美

今、御所の陣座という建物を3Dで作ってます。
そんなにかからないかな、とタカをくくっていたら、屋根に少々手こずってます。屋根の形状がアンバランスなんですね。和風建築の命は「屋根」の表現力なので、木子文庫の指図、一部・立面図を参考に作ってますが、他の建物との寸法合わせや立面図も一方向だけなので、御所で写した写真や写真集などの本とか見て作ってます。

ここをこうすればヨカッタなぁ、とか、もっとスピードアップして作るにはどうしたらいいのかなぁ、と日々試行錯誤してます。
それなりに目も肥えてきて、どうしても精緻に作りたくなる・・・・。この繰り返しかな、と思いますけど、目標に向かって一歩一歩励んでいきます。

さて、3Dが出来上がるまで私の好きな短歌を載せようかな。

その前に、昨日、ふと思ったことがあったので、散文ですが書きます。

「不自由の美」。この言葉は何となくわかる言い回しです。短歌や俳句自体が字数とか制限されていますから、これも不自由ななかでの美の表現とも言えます。

江戸時代の後半、幕府11代将軍・徳川家斉の頃(1829~1844)、将軍の御台所だった広大院の御中臈として仕えていた女性に「桂川てや」という人物がいました。彼女の事績を少し書くと、天保15年5月10日(1844年6月25日)に江戸城本丸の大奥で火事が発生し、奥女中数百人が焼死するという大惨事がありました。このとき、広大院の命で「花町」という上臈を探して参れ、といわれ、手燭を持ったまま火中に入っていきましたが見つからない。かといって主人に「見つかりません」と復命する訳にもいかず、強い責任感から再度、火中に飛び込み命を失った女性です。享年16才の若さでした。後に「大奥の鑑」と讃えられました。

「不自由の美」に繋がるエピソードはここからです。
生前のてやの様子や焼死したときのことなどを、姪が「名ごりの夢」という書物に口述したものが残っていて、

そのなかで、てやが奥医師をしていた父が江戸城に赴くため長袴に着替え、、廊下を歩く姿に惚れ惚れとし、「まるで歌舞伎のよう」と
述懐している部分があります。

長袴といえば、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭が着用していた姿が時代劇でもよく見受けられます。大名の正装ですが、この長袴、歩くのに大変不都合、足をズリますからね。でも、逆に着こなすととても優雅なスリ足になる。

ちょっと、「桂川てや」のことを書いたのもこれを言いたかったからです。

江戸時代においても、庶民からすれば長袴の井出たちは「現代人の観る歌舞伎」と同じ視線だったのです。
長袴で優雅に歩くにはそれなりの作法と修練がいる。しかし、一端、着こなせば、何ともいえない典雅さが漂う。
これは「不自由の美」以外の何ものでもないと思います。

同じく江戸時代、京の朝廷の女官たちは長袴を穿いていました。一方、江戸城大奥では一部儀式を除き袴を穿くのをやめてしまいました。京女のイメージが「上品」なのも意外とこんな違いから来ているかも。

着物自体が体を締め付ける「不自由」があります。だから、普段着ない。しかし成人式のとき、あの子が?というくらい、しおらしくし見える。

眼を転じてみよう。中国・清朝の時代、上流の女性は纏足をしていました。纏足(てんそく)とは、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにすることで、当時、小さい足の女性の方が美しい、という風潮だったので何度も禁令がでましたが無くなることはなく近代まで続きました。これも「不自由の美」ですが、一方的に男性視線からみた美です。

維新時、欧米の白人たちは日本武士の堂々とした威儀に驚いています。武士の礼法も、公家、朝廷の礼法も身体に制限をかける「不自由」さから威儀を醸し出していました。白人たちの椅子とテーブルの文化から見れば余計そう見えたかもしれない。

一見、畳の方が自由に見える。しかし、実際は椅子の方が楽。現に和食の店でもわざわざ畳に椅子を置く店が増えている。

畳の上の正座は苦しい。しかし、近世までの日本においては実は正座が一番格式のある座法ではなかった。

最近、ある方の紹介で公家の衣紋道の流れを汲む八条忠基氏の主宰する「綺陽装束研究所」のHPを見ました。

そのなかで、何と胡坐が一番、正式な座法だという。
ただし、現在のように足を組む胡坐ではない。HPの解説によれば「足を組まずに足の裏と裏を密着させるように座ります。膝が左右に張って非常に威儀を感じさせるものです。古い貴人の肖像画などをご覧になれば、まずこの坐法によっているものとわかるでしょう。慣れないと内股の筋肉が痛くなりますが、慣れてしまえば苦になりません」とのこと。

実際、私も試してみましたが足が膝が痛い、筋肉が突っ張る!、といかに運動不足で体が硬いか実感してしまった訳ですが、でも少し鍛えて慣れれば確かに苦にならない気がする。すると、そこで感じたのはこの形での胡坐なら逆に威儀を正せる。下手したら、というよりも玉座に座るよりこの方が威儀がある。権力より権威を感じる。だから天皇は椅子でなく繧繝縁の畳に座られたのだ。私は直観的にそう思いました。

平安時代の衣冠束帯や十二単は実は胡坐に合った装束だった。源氏物語にも座している姿が多いのも唸具ける。

同じ胡坐でも足を組まない制限のある座法。慣れれば威儀が出て背筋も伸び筋力もつく。
一方、現代の胡坐は足を組む。力は要らない。筋肉も使わない。けど猫背になる。
そして楽な椅子に座る。

ここで思った。

日本の文化には制限が多い。その不自由さのなかで日本独自の文化を生み出してきた。

でも、現代の日本において、制限は自由な発想を抑えるもの、としての認識がある。
自由こそ人間の溌剌だと。

私は思う。自由は大切なことだと思う。

その一方で制限があることによって生まれる文化もあると思う。

取り敢えず、私は「短歌」という制限された言葉のなかで、
「不自由の美」を詠んでいきたいと思っている。

長々と書いてしまいました。
短歌を載せるはずでしたが、もう書き疲れた・・・・。
次回にします。
気紛れな自分で申し訳ない。
エッセーと致します。


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葬式という・・・はなむけ

大阪北部の地震では五人の死者と300人を超える方が怪我をされ、またインフラや建物被害も発生し、心よりお見舞い、お悼み申し上げます。こちら愛知県でも微かに揺れを感じました。阪神淡路大震災のときも同様揺れました。今回のよりも揺れた記憶があります。自分の住んでいる地域では小さな揺れでも、離れた震源地では大変なことになっている。阪神・淡路大震災以来そう強く感じるようになりました。

幸いといったら申し訳ないですが、私自身生まれてから物が落ちて割れる・・・というレベルの地震にあったことはありません。
でも、いつ、自分の地域が大きな地震に見舞われるかわからないので今回のも、熊本の震災も他人事では済まされません。
早く、怪我が治り、復旧し普段の生活に戻れるよう一国民として願っています。

地震で人が亡くなられた一方で、先日は知人の縁戚関係の人の葬式に行って来ました。
亡くなったご本人とはまったく面識はありませんでしたが親御さんから父の葬式に香典を頂いていたので参列しました。

驚いたのは亡くなった年齢、32歳という若さです!

当然、何かあったのかと気になりはしましたが、あまり人の詮索をするのは好きでないのでただただ冥福を祈りました。
参列者は多く、言い方はなんですが立派な葬式でした。

家に帰ると妻から「自殺」だと聞かされました。妻は友人経由で知ったといいます。主婦の連絡網は速いものですね。

地震で亡くなっている人もいるのに自ら死を選ぶとは・・・複雑な気持ちです。

「首をくくった」と聞いたら、やるせない気持ちが一辺に吹き出て、ついつい涙が出てきてしまいました。

これから、苦しいこともあるかもしれないけど良いことだってきっとあるのに!何、死に急ぐんだよ・・・。
残念で仕方ありませんでした。何年もウツ病にかかっていたようです。

ここ最近、五歳女児の虐待死事件や新幹線での飛び込み自殺。やりきれない事件が続きます。

毎年、事故で多くの人が亡くなりますが、それ以上に自殺者の方が多いです。
殺人事件とかニュースで報道されますからインパクトが大きいですが、その陰で人知れず多くの家族の悲しみが毎日、日本のどこかで繰り返されています。

自殺で人を巻き込むのと鉄道自殺は正直言って同情することはできません。
いろんな理由があるにせよ、とくに鉄道自殺はハッキリ言って「自分という存在の抹消」だと思います。

よく自殺だけはよくない、死んだら地獄へ行くぞとか、宗教的にも昔から言われていますが実際のところはわからない。死んでみないと。

自殺にもいろいろあります。
鉄道自殺のように人間の存在否定の死。重度の精神の病、事業に失敗して。病気の苦しみから、虐め等々。
一方で責任を取る形、人を救う為に自死する場合もあります。

自殺と自死、自ら死ぬ、という意味では同じだけど、もし、そのどちらも地獄行き?、だとしたら逆にこの世の不合理を感じます。
また自殺に追い込んだ側の人間が人を踏み台に金持ちになってのうのうと生きたとしたら、さらに不合理を感じます。

歴史を振り返っても、今、大河で放映している西郷どんが勤王僧の月照を助けられなかったことに責任を感じ一緒に死のうとしたこと。飢饉に苦しむ農民を救うため自分の命(将軍に直訴)と引き換えに処刑された佐倉惣五郎。あるいは城攻めで城兵を救うことを条件に降伏し切腹した武将(清水宗治等)。また、先の戦争で敗戦の責任と無条件降伏を認めない若手将校たちの反乱を抑えるため腹を切った阿南惟幾陸軍大将。同大将はあえて介錯を求めず8時間苦しんで亡くなったそうです。そう、祖国の為、敵艦に体当たりした特攻隊の若者たちもいた。

これらの自死は自分から望んでしたものではありません。

もし、神という存在が人格神ならどう裁くのでしょう?
親が子を思うように自殺した我が子を憐れに思うと思います。それでも地獄に追いやるのでしょうか?
あるいは神が法則神なら、最近のAIのように自動的に判断され処理されてしまうのでしょうか?

自殺だからと言って一方的に責を問う気持ちはありません。いつ、自分がその立場になるか未然だからです。

自殺という行為はとても重いものです。
死んだ瞬間、その重さが重圧となって本人により降りかかる。それが煉獄かもしれない・・・。

死は望まないけど利他の為自死する人、
死にたいから自殺する人、

その違いは何だろう?

私はその一つに「自己否定」があるか、ないかの違いがあると思います。
神様とて「自己否定」の殻は硬くすぐには破れない・・・。

最近は合理的な考えもあって家族葬が増えています。普通の死に方でもです。
まして自殺なら秘して、より家族葬を選ぶのでは、と思います。

先日の葬儀は家族葬ではありませんでした。
ちゃんと縁のあった人たちに告知し立派な葬式でした。

息子を亡くしたご両親は、きっと「せめても葬式だけは立派にあげ本人を送りたい」。そう、強く願ったのでしょう。

「自己否定」という硬い殻を融かしてゆくのは本人だけど、親の情愛、縁のある人たちの祈り、それが少しづつ融かしてゆくのかな、
私はそう思いました。

冥福を祈り、一首、悼みます


★ 自殺した 息子のために はなむけの 葬式をあげるのですね 父さんお母さん


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紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!? 

今回は紫宸殿の東に位置する東軒廊と宣陽殿、西に位置する土渡廊を3Dで作ってみました。
その過程で例によって素人発想の「何でだろう?」と思う点が幾つか出てきて、その一つの疑問が記事タイトルの「紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!?」になった訳です。
その辺は、後々書いていきます。

さて、眠気覚ましにCGを何枚かアップ。クリックすると何れも拡大します。

霧の京都御所
朝霧にむせぶ京都御所。私の好きな陰翳礼讃?です。



南庭から望む紫宸殿
おぉ!紫宸殿の左右が寂しかったけど建物が出来た。東の東軒廊と宣陽殿、西の清涼殿に繋がる土渡廊です。

むむっ?、紫宸殿の向かって右下になんかいますよ。米粒大でわからない。


ではズームアップ!
南庭から望む紫宸殿アップ
その謎の輪郭がわかってきましたよ。どうも女性らしい。ではもっとズームアップ。


紫宸殿と石原さとみアップ
女優の石原さとみサンでした!

なんで石原さんがここにいるの?
まさか、3D京都がお招きした訳ないよね?
もちろんです。
実は紫宸殿の簀子(濡れ縁、外周廊下)の床高さがどのくらいあるのか、石原さんに登場いただいて一目でわかるよう比較してみたのです。石原さんは背が高いと聞いているので身長170cmに設定。

どうです?床高は石原さんのはるか頭の上。かなり高いです。どのくらいあるかと言うと約2m40cm前後。前後というのは、手元に正確な寸法図面がないからです。縮尺率が記載されている立面図等を参考に作る過程で割り出した数値です。一般住宅の天井高さが2.4~2.5mありますからご自分の家の天井を眺めてみてください 笑。その高さがわかりますよ。
ちなみに平安時代はそんなに高くなかったと思います。

石原さとみさん、お疲れ様でした。女優業頑張ってくださいね。

では、今回の作品の位置を上から眺めます。

御所3D進捗図
赤く囲った所が3D化した建物です。これで、紫宸殿南庭の体裁がようやく整ってきました。


拙角ですから、増築した御所を四方から眺めます。
建礼門から見た御所全体
建礼門から見た御所全体の風景。

えっ?前回と変わらない?そんなことないですよ。後で細部入っていきますから、そこで御所の不思議?を紹介します。

日華門と宣陽殿
東から見た日華門と宣陽殿。宣陽殿、一見地味ですけど建物は結構大きいです。重要な場所です。これも後ほど。


紫宸殿周辺を俯瞰する
斜めからの俯瞰。まだまだ回廊や御殿が少ないから今一冴えないかな。


紫宸殿北から宣陽殿土渡廊等を見る
紫宸殿北から宣陽殿と土渡廊を眺めます。

宣陽殿の北側にはもう一つの紫宸殿に繋がる回廊「陣座」がありますが次回作る予定。

左から清涼殿と土渡廊と月華門
西から望む左から清涼殿と土渡廊と月華門。

以上四方から俯瞰してみました。

それでは各建物について、その用途やズームアップ、エピソードや疑問とか書いていきますね。

どこからいこう?そうだ、まずは東の宣陽殿からいこう。

東から見た宣陽殿
東から見た宣陽殿です。

舞良戸(まいらど、)等、引き戸が並んでいます。正直、この宣陽殿、全体のバランス、デザインが今一つかな、と思います。安政の造営時、当時は建物毎に大工衆が割り当てられましたから、ここはちょっと田舎の大工さんだったかな、なんて想像します。大工元締めの中井家に出来具合聞いてみたいですね 笑。

もう一枚、南庭から見た同殿、
紫宸殿と右に宣陽殿
東軒廊も見えます。

では、宣陽殿とは何ぞや?に入りますと、
平安時代の内裏から同じ紫宸殿の東にありました。
元々は「納め殿」と言われたように累代の重宝を納めた殿舎です。南北に20m、東西9.4m。意外に大きな建物です。(以下、一部の文は角川書店刊「平安京提要」角田文衛総監修)から引用しています。

では間取り図を紹介しますね。これも安政度、現在の御所のものです。

宣陽殿間取り図(部屋名付)
宣陽殿間取り図。写真のバランス上、横にしました。下方向に紫宸殿があります。

図のなかの大臣宿所は文字通り参議以上(従三位以上の大臣になれる上級公卿)の公卿の寝泊まりする所。時には公卿たちが集まって「日本書紀」の講読も行われたとか。宿所下の公卿座は三位以上の公卿が参内したときの控えの間。
宿所の右には納殿があります。ここに重宝が収められていたのでしょうか?平安時代はともかく江戸時代になってからは違うような気がします。たとえば、その左には議所があります。ここは国政の審議をした所。でも、江戸時は公家は国政には関係ありませんでしたから、もっぱら儀式等についての議論が交わされたかも。

他に次将座とかありますが何するとこでしょうか?今回は東京都立中央図書館と京都大学に残されている安政度の内裏図を基に間取りを確認していますが、文字も小さくボヤケ気味の箇所もあって、素人の私には判読不明な面もあります。字ずらから「次将座」と読んだのですがいかがでしょうか?
安政造営内裏図(紫宸殿付近)京都大学蔵
安政造営内裏図(紫宸殿付近)京都大学蔵。

で、次将で調べていくとありました。天皇をお守りする近衛府の中将のことを次将とも呼ぶそうです。また頭中将とも呼ばれ、あの源氏物語に出てくる光の恋の競争相手で義兄だった頭中将はここがモデルみたいですね。位的には四位の貴族がなったよう。

ということで、近衛の幹部武官の控えの間ということになります。
後、下段(これも判読し難し)とありますが何?位の低い公家の控えの間?あるいはノンキャリアの地下官人の控え所?今一不明。
隣、「侍官政」と読めましたが、これこそ何?わかりません・・・。

以上、間取りの各役割について説明しましたが、そこで自分なりに思ったのは、ここは上級公家の控えの間、宿所、議論の場、警護の武官の座、後、蔵的役割の納殿等多目的に使われた殿舎であること。

また、江戸時代、御所の西の建物は禁裏付き武家や諸大名、諸太夫のような高級公家の家司等の参内場所、事務所、後、その他生活に関わるよう用向きの窓口であったりしたのに対し、紫宸殿東の宣陽殿は公家・儀式の為のための詰所、つまり公家専用空間だった、というふうに東西分けていたのかな、と考えるわけです。

宣陽殿から東軒廊を見る
宣陽殿から続く東軒廊を見ます。
東軒廊は紫宸殿への廊下ですが床等なく敷石の詰められた土間の廊下。ここは節会のような儀式で紫宸殿南廂から降りてきた十二単の内侍が大臣に天皇のお召しを伝える廊で、大臣は衣冠束帯に身をただし「練歩」といって着衣を動かさないように歩く作法で紫宸殿にここから昇殿しました。それにしても「練歩」とはどんな作法でしょう?実際に見てみたいです。宮中儀式には私たちが知らない作法がいろいろありそうです。それらを見せるパフォーマンスとか見てみたいですよ。受けるかもです。

で、東軒廊にはもう一つ重要な役目があります。同軒廊の手前方向に方1mの御影石が埋め置かれています。
何するもの?と問えば、そうです。亀卜石です。ここで亀の甲羅を焼き吉凶が占われたのです。天皇の即位後の大嘗祭に使われる米の産地、斎田とか占ったそうです。

上記の文は京都新聞出版センター刊「京都御所 大宮・仙洞御所」から引用させて頂きました。

東軒廊と亀卜石
東軒廊と亀卜石。

さて、次は紫宸殿の西、土渡り廊の紹介です。字のごとく土間の廊下です。一部、板敷きの所もありますけどね。ここに冒頭言いました「紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!?」との疑問?を抱いた場所です。

紫宸殿と左の土渡廊
紫宸殿と左の土渡廊。


土渡廊の潜り門
土渡廊の潜り門。

ここは現在の御所通年公開では通れませんが、以前だと春と秋の一般公開のときは、この土渡廊の門を潜って紫宸殿北廂に出ることができました。

一応、そのときの順路図をアップします。

御所一般特別公開順路

順路図を見ると、紫宸殿の西側を通り土渡廊を潜っていますよね。
私も何度か何の疑問も抱かず潜り紫宸殿北面に出てましたが、今回の3D作成の過程で分ったのですが、土渡廊には紫宸殿と清涼殿を繋ぐ長橋という板廊下が同土渡廊を遮る形で横切っています。

CGで見た方が判りやすいですからアップします。

土渡り廊と長橋
土渡廊と長橋。

こんな感じで進行を妨げています。
じゃぁ、なんで一般公開時、跨がずに普通に通れるの?

調べたら、公開時だけ長橋の一部を取り外すとのこと。なんだ一部、脱着方式になっていたんだ。案外、解りやすい方法ですよね。
この一部脱着はなにも一般公開の時だけでなく江戸時代、いや平安の昔から行われていたそうです。

正月の節会儀式のなかで、「白馬の節会」というのがあって一月七日、紫宸殿に天皇が出御されたときに白馬を引き出す儀式。
このとき、厩舎である右馬寮から引き出された白馬がここ長橋を通り抜けるため切馬道といって数メートル長橋が取り外しできるようになっていたのです。

でもそれ以外のほとんどは長橋が繋がった状態で保たれ、流石に今は普段から取り外されているそうです。

紫宸殿から土間に降りずに清涼殿へ歩ける廊下はこの長橋しかありません。
大事な唯一の経路なのに簡素な立ちの低い板廊下。手摺もありません。
誰が通った?まさか帝ではないと思います。

土渡り廊と清涼殿と長橋
土渡り廊と清涼殿と長橋。長橋が切れていない。


土渡廊は真ん中の壁と柱を挟んで左右に廊下のある複廊になっていて東西の端それぞれに門が二つづつあります。当然土間です。

土渡り廊の内部
土渡廊の内部。

紫宸殿南庭の回廊内は即位式などの公の儀式の場です。幟を立てたり、幕を張ったり幕屋(テント)を立てたり、椅子に座ったりと、地面、土間で行う儀式が多いです。従って土渡廊も土間になる訳です。

では、帝は徒歩で清涼殿へ行かれた?
そんなことはないと思います。雲上人といわれるご存在ですから。
徳川家光が二条城に御水尾天皇の行幸を仰いだとき、帝が地面を踏まずに天守閣まで上れるよう二の丸と本丸の間には二階橋の櫓が建てられたほどです。

ですから御所においても同様だったと思います。
現に紫宸殿北廂には露台と言って二階部をあるく渡り廊があります。

つまり、天皇は紫宸殿から直接、清涼殿には行かれなかった。他の渡り廊を経由して清涼殿に行かれた。そう、私は思います。
江戸時代、帝は清涼殿には住まわれませんでしたから迂回するのも解りますが、実際に住まわれていた平安時代の内裏においても土渡廊は土間でやはり長橋一つだけで繋がっていました。

平安期の内裏図をアップします。

平安時代内裏図(陽明文庫蔵)
平安時代内裏図(陽明文庫蔵)。

この図にも紫宸殿と清涼殿の間には門柱の印があってやはり土間廊下でした。

なぜ、清涼殿に普通の渡り廊下で繋がっていなかった?
直接、行けた方が便利なのになぜ迂回までした?

理由はわかりませんが、一つの理由として儀式空間だったから。警備上。あるいは清涼殿に後宮的要素があったから閉ざした?

でも紫宸殿北廂の木段を降り長橋を行けば清涼殿にたどり着ける。一応、門もあるけど結構オープンな間取りだった。

わからない。本とか調べたけど各殿舎のことは書かれていても渡り廊下についてはあまり書いてない。

興味ない方からみれば、紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!?、と疑問を抱いても「それがどうした」となる訳ですが、
何か気になるんですね。

短歌的発想と言ったら笑われますかね。

折角ですから後CG何枚か載せますね。

土渡り廊と南庭回廊
土渡廊と南庭回廊。儀式空間として連続していることがわかります。


土渡り廊と長橋と年中行事障子
土渡廊と長橋と年中行事障子。

年中行事障子とは一年を通してある諸儀式を書き並べたもの。これなら忘れない?
ああぁ、そう、 障子の裏は何の壁もない外丸見え状態ですけど、そこには清涼殿の南廂があって、そこは殿上間になっていました。公家さんはここで出勤簿?とかとったんですね。
ただ、江戸時代もそうだっかはわかりません。

年中行事障子アップ
年中行事障子のアップ。儀式内容がびっしり書かれてますね。儀式だからと言って軽んじるべからず。儀式を通して伝統と文化が継承されてゆくのですね。


土渡り廊と長橋(北から)
土渡り廊と長橋(北から)。


土渡り廊と紫宸殿階段を見る
土渡廊から紫宸殿木段を見る。

この長橋に繋がる縁(簀子)の木段の南隣には土渡廊へ降りる木段と門、それと簀子木段の間には白壁で隔てられています。
う~ん、何か簀子の木段と長橋って黒子が通る場所?あるいは下級女官の通り道?ナゾは深まるばかりです 笑。

以上、長文失礼しました。

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雑草の森

イングリッシュガーデンを雑草の森と言い換えたら叱られるだろうか?

近くで眼科を開業している女医さんも、そのイングリッシュガーデンが大好き。
自宅兼医院なので受付までのプロムナードはキンギョソウやチューリップ、コニファーといった草花で満ち溢れている。時には背を屈めて通るときもある。

でも、最近は女医さんもお年を召してあまり手入れできなくなった。いつのまにか蔓植物やチガヤ、地面にはドクダミ、アワダチソウとどんどん雑草に覆われ半ば廃園の趣を呈している。
すると患者さんは逆に避け減っている。廃園から閉院? ちょっと心配している。

イングリッシュガーデンは名の如く英国式のコテージ、自然志向の家庭庭園。
最近は日本でも人気がある。でも、実際に育て、維持管理するのはたいへんだ。

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イングリッシュガーデン。ブログ「もとのぶろぐ」を運営されている、もとこば、さんが撮られた写真。

はっきり言ってイギリスは雑草が少ない。育つ前に牛や羊に食べられてしまう。そもそも氷河期の洗礼を受け、雑草の種類も少ない。表土も薄くチョーク層や泥炭地が多い。だから栄養分も少ない。

日本のゴルフ場など除草するためたくさんの除草剤を撒いているけど、イギリスのゴルフ場だと雑草自体が生えないか少ない。

そもそも草刈りといった雑草の管理にかかる労力が日本はイギリスの十倍かかるという。

雑草ではないけど、日本の紅葉の美しさは世界的に知られている。黄色に紅、緑も交じってまさに錦織の世界だが、外国ではブナやシラカバ、カラマツ系の黄色が主流。樹木も10種類ほどしかないのに比べ日本は26種以上もあるという。

こと、ほど左様に日本は雑草に雑木林に満ちている。

何を言いたいのか?と、そろそろ言われそうだけど、
イギリスの自然はほとんど人間に管理されている。たまに見かける森は元々が貴族の狩猟用の森、しかも人工林。自然でありながら自然でない風景、そのなかでコテージ(田舎の別荘)に自然を演出する「イングリッシュガーデン」が生まれた。そんな気がする。

妖精よりも「もののけ姫」が居そうな日本の濃密な自然では「自然派志向」という庭園概念は生まれず、逆に枯山水に走った面が無きにしも非ず。

イギリスの人にとってイングリッシュガーデンは「鉢のない盆栽文化」・・・、そう思えてきた。
************************* 夏三題 ****************************


★ 接写する レンズの先に 視えるもの 結晶体の 産毛が光っている

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何の花だろう?
わからないけど、とにかく美しい。接写でこんなに繊細に表現できるとは!、もう言葉は要らないというか、短歌にも歌えない。ただただ見惚れるばかり。

この写真はイングリッシュガーデンど同様、もとこばサンのもとのぶろぐ」から紹介させて頂きました。

接写がすごく巧みな方です。心が和むというよりも純化されます。
ぜひ、ご覧になってみてください。

(もとこばサンには事後報告で申し訳ないです)
※ 拙ブログではあまり光ってませんが、
  もとこばサンのブログで写真をなぞると発光体のように輝きます。綺麗ですよ。


★ 捨てられた マスクが風に 転がっている 花粉は夏に 命を宿して


地面に落ちているマスクはよく見かける。なぜ、落ちている? そんな詮索はいらない、多種多様な人の生きざまの痕跡だ。
ただ、何か感じるものがあって短歌に詠もうとしたら、その痕跡が必要になった。物語とするならば5月(実際は6月だけど)のスギ花粉の終り頃を想定した。すると、私のなかで、風に飛ばされるマスクは役目を終え羽根を閉じた蝶のような存在に見えた。そして消え去った花粉はどこかで受粉し夏に育っている・・・そんなリレーションを感じた。
私もスギ花粉症の一人だ。
今、日本の森の多くは杉の人工林だ。北山杉のようにキチンと管理されてばいい、また美しい。でも、多くは間伐もされず暗い森のなかで他の植物、生き物たちを寄せ付けない「緑の砂漠化」している。
どうしたらいいのだろう・・・

★ 貝殻の 風鈴が鳴る 七彩の 滿汐に止み 引き潮に揺れ

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珍しく貝殻の風鈴を見かけた。姫竹を鳴らしたような小気味よい音、海を呼ぶ鳴り、そして揺れる彩かし。
貝といえば、フランスの詩人・ジャン・コクトーのあの詩の一節、

「私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ」を連想する。

詩人でもあった堀口大学の訳も秀逸だ。
ジャン・コクトーはジャポニズムにも興味があった。昭和11年5月、「八十日間世界一周」企画の一環として日本を訪れている。
そのとき、堀口大学が通訳、案内をしている。日本の短歌・俳句を知ったかもしれない。

この短い詩からは短歌の響きが聴こえる。



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清涼殿を作ってみた 外観編

京都御所の清涼殿を作ってみました。とりあえず外観。多少、内部も作り込んでいます。ここ清涼殿と紫宸殿は江戸末期の安政二年(1855年)に再建された御所の殿舎のなかで最も平安朝の寝殿造の古性を伝える建物です。従って両御殿については外観のみならず、内部、そして部屋毎に設えた大和絵の襖障子や家具調度品などインテリアについても3Dで作る予定です。


清涼殿位置図
清涼殿の位置図です。紫宸殿の西北にあります。

今回は渡り廊下までは作ってないので、清涼殿単体では結構寂しいかな。

御所の主要建築を作った後は、宣秋門から入り承明門を抜け回廊経由で紫宸殿内部に入り、また渡り廊伝いに清涼殿の南廂から同清涼殿の内部へ入る。そして殿内の母屋と各廂をウォークスルーしながら周遊、という動画作成を計画しています。その後は他の失われた諸殿舎の平面表示、そして御所を出て、かつての公家町の守り、通用門であった蛤御門等の高麗門型の筋鉄門を作成、その後も公家町にあった多様な塀や門、物見等と指図が残っている公家・宮家の平面図の作成と設置、そして一軒づつコツコツ立体・建物化してゆく、という長~い道程を計画しています。

国内の江戸城始め各地の城・社寺等の3D化はよく見受けられるますが、かつての公家町を3Dで再現する試みは今まで国内ではなかったと思うので、人によっては多大なる「無用の長物」と思われるかもしれないし、中には「よくやった、幕末まで日本の権威の中心であった内裏・公家町の再現は、貴重な視覚史料になると」と評価してくれる人もいるかもしれない。とにかく言えるのは寿命が3年は縮まるだろう・・・という細やかな覚悟?・・・苦笑・・・そんなところです。

内裏・公家町を作っていく過程では、私は建築のプロではないので、おかしな?部分とか間違い、簡略化とか出てくると思いますが、私自身のスタンスとしては素人なりに視て楽しむ、夢を膨らませてくれる、そんな作品作りを心掛けていきます。

さて、前置きが長くなりました。

清涼殿を作ってみて改めて思ったのは、現代人も見てみたい平安の寝殿造への想い、それは江戸時代に生きた人たちも同様な思いを描いていた、ということです。近世、寝殿造はすでになく、当時の人も分からなかったのです。

そこで、上述した安政期の再建にはかなり力を入れて平安の復古に拘りました。とくに住空間であった清涼殿は家具調度品の類にも拘りました。

ただ、棟高、建物、屋根の高さだけは近世的に高くしましたが他はよく古性を伝えていると思います。

江戸時代、天子様が実際に住まわれたのは書院形式を含めた常御殿で、清涼殿は住まず儀式だけに使われました。

丁度、私たちが寝殿造のジオラマを見るように江戸時代の清涼殿もすでに展示コーナーだったのです。

そんな事を思いながら作成しました。

清涼殿は紫宸殿の西北に位置し渡り廊で繋がっていました。
規模は簀子(縁側)も含めて南北の長手方向が約23mほど、東西の妻側は18mほど。高さは14mほど。今回は単体での清涼殿なので実際には北廂や南廂(殿上間)も含めると南北はさらに長くなります。

清涼殿平面図(ブログ掲載用)
清涼殿の平面間取り図。上が北方向です。

普段、御所参観の順路で見る清涼殿は東の孫廂(弘廂)側からのものです。弘廂は建具もなく吹き抜けで天井・柱がとても高い。見学された方も、その高さ、広壮さに驚いたと思います。でも、紫宸殿より一回り小さいのですよ。

参観ルートからは、この東側からしか同殿は見れません。

京都御所参観順路図
京都御所参観順路図。やはり、東側からしか見れません。

で、問題なのは清涼殿の妻側(側面)がどんな形状をしているか?でした。いろいろ立面図も探しましたがはっきりしたものはなく、紫宸殿と同じ形式か、あるいは常御殿のような飾り金具で飾った豪華なものか?いまいち、判断が付きかねませんでした。

となると、実際に見るしかない、でも順路には妻側はない。
そこで改めて撮った写真をチェック、そしたら一枚ありました!
清涼殿妻側屋根の形状
こんな感じ。

左上、赤く囲った屋根がまさしく清涼殿の屋根。
これで、妻側の形式がわかりました。紫宸殿と同じです。やっぱり、というか平安の復古建築なんですから近世のコテコテではありませんね。ふぅ、これで3Dも作れる。

では、具体的に一枚一枚、いろんな角度からとらえた3DCGをアップしますね。設計図などないので細部の間違いはお見逃しを・・・です。(クリックすると何れも拡大します)

今回、大和絵の障子等の絵画も貼り付けましたが、
毎日新聞社刊「宮内庁協力 皇室の至宝 障屏・調度Ⅰ」から引用させて頂きました。


まずは、この一枚から、
清涼殿が加わった御所
清涼殿が加わった御所。

殿舎が一つ加わっただけで前回とあまり変わり映えしないかも・・・。

後、定番というか東西南北から見た清涼殿をアップ
東から見た紫宸殿と清涼殿
東から見た紫宸殿と清涼殿。やっぱり渡り廊下がないと絵にならないかなぁ・・・。


西から見た清涼殿
西から見た清涼殿。これも地味ですみません。


もう一つ北からみたもの。
北から見た清涼殿
北から見た清涼殿。

北、そして南も廂を伴ってない単体の清涼殿なので、ちょっと間が抜けた感じかな。次回は渡り廊下などと一緒に作らねば。
左側に見える障子は「荒海図」、土佐光清の画。
北東から見た清涼殿
北東から見た清涼殿。

紫宸殿南庭の朱塗りの回廊まで続いている様がいいかな。弘廂の高さもわかる。と、自分で言ってみる。

それでは、次からは細部編から。

まず、
東側から見た清涼殿と弘廂
東側から見た清涼殿。高い角柱の列と広壮な吹き抜空間の弘廂が印象的です。

さらに、その正面アップ、
清涼殿弘廂正面



清涼殿弘廂のアップ
斜め構えの東・弘廂です。


南から見た弘廂内部
弘廂の内部に入って南からみたCGです。

虹梁(こうりょう)が何本も見えますね。
虹梁とは主に柱と柱を繋ぎ安定させる化粧施した梁のことで社寺建築ではよく使われます。

東側からはもっぱら蔀ばかり目立ちますが、一つだけ部屋らしきものを紹介します。
東南隅にある石灰壇です。ここは床を漆喰で白く塗り固めた床臺で、
天子様が神々への遥拝を行ったところです。
石灰壇
石灰壇


石灰壇アップ
さらにそのアップ


次に参観ルートにはない、普段は見れない西廂の方を見ていきます。

清涼殿西廂(正)
清涼殿西廂の正面です。

背後に紫宸殿も見えます。

西廂アップ(正)
西廂のアップです。

襖障子や鳥居障子(はめ込み式障子、開閉は出来ない)等の並び大和絵が美しいですね。


斜めから見た清涼殿西廂
斜めから見た清涼殿西廂(正)

北の奥から蔀で囲った御湯殿(実際は蔀でなく絵障子で飾りたかったのですがどの絵かわからず蔀に)、御手水の間、朝餉の間、台盤所、鬼の間から構成されています。
御手水間と朝餉の間は明確な仕切りはなく大和絵の描かれた衝立が立っています。

御湯殿は主上が沐浴されるときの奉仕する内侍、典侍、上臈等の女官の控えの間とされるそうです。じゃ、主上様はどこで沐浴?ということにもなるのですが、それは置いといて。

御手水の間は主上が沐浴された後、ここで髪や衣服を整え手水を使われる間です。

朝粥間は主上の食事をされる所。手水の間とのあいだに猫を描いた衝立障子があります。

台盤所は、女房達が調理した料理を盛り付け・揃えるところで、また、女房たちの食堂でもありました。

鬼の間は、毒味したところと言われています。

では各間をアップします。

西廂湯殿と朝粥の間(正)
西廂の湯殿と手水の間、朝粥の間です。

奥には妻戸があり、左の障子二枚は天橋立図、妻戸を挟んで右に住吉浦。同住吉浦は鳥居障子といってはめ込み式。パネル的感じですね。

西廂台盤所(正)
台盤所です。

朝粥間との仕切りの障子画題は「音羽山」。背後は左から形見浦、衣手杜、三輪山の各画題。

西廂鬼の間(正)
鬼の間です。

右手奥には紫宸殿が見えます。障子の大和絵は左が玉河里、右が伊香保沼です。

後、オマケといっては何ですが、最後にお外を眺めます。
清涼殿と築地塀
清涼殿と築地塀。

以上、長々と掲載しました。お付き合い頂きありがとうございます。



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